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日光・輪王寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
日光・輪王寺
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'''輪王寺'''(りんのうじ)は、栃木県日光市の[[日光山]]にある[[徳川家康]]の菩提寺である[[天台宗]]寺院。[[日光二荒山神社]]の神宮寺として[[勝道]]が創建し、本尊はその本地仏の[[阿弥陀如来]]、[[千手観音]]、[[馬頭観音]]。[[天台宗延暦寺派]][[天台宗の本山寺院|門跡寺]]。[[源頼朝]]の崇敬を受け、興隆。中世には[[日光山光明院|光明院]]や[[日光山座禅院|座禅院]]が座主職・権別当を務め、[[鎌倉]]・[[勝長寿院]]を兼務していた。[[日光東照宮]]の鎮座と共に[[天海]]が中興。[[輪王寺宮]]が[[寛永寺]]と共に管轄した。徳川家光の墓[[大猷院廟]]もある。[[最澄]]が計画した[[安北宝塔]]の再建として[[日光輪王寺相輪橖|相輪橖]]が建立された。神仏分離で別組織となった東照宮と現在まで対立が続いている。[[日光輪王寺慈眼堂|慈眼堂]]、[[輪王寺宮日光墓地]]、[[能久親王廟]]がある。別院として[[坂東観音霊場]]第18番札所[[日光・中禅寺]]がある。江戸時代までば'''満願寺'''と称した。[[日光山]]も参照。(参考:同名[[輪王寺]]・[[満願寺]]) == 伽藍 == [[日光山]]を参照。 == 組織 == ===座主=== *別当とも呼ばれた。 *[[日光山光明院|光明院]]が日光山座主を務めた。[[鎌倉]]の大御堂[[勝長寿院]]を兼帯。 *『望月仏教大辞典』 {|class="wikitable" |+日光山座主の一覧 !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- | |[[勝道]] |735-817 | |日光山開山。735年(天平7年)生。817年(弘仁8年)死去。 |- |1 |教旻 |生没年不詳 |817-? |初代日光山座主。勝道の十哲の一人。勝道のいとこともいう。大千度行法を始めたとされる。817年(弘仁8年)座主。東照宮社務所脇に墓の無縫塔がある。(『望月仏教大辞典』には教晃とあるのは誤り) |- |2 |千如 |生没年不詳 |828-? |勝道の十哲の一人。828年(天長5年)日光山座主。千部会を始めたという。 |- |3 |神善 |生没年不詳 |844-? |勝道の十哲の一人。844年(承和11年)日光山座主。 |- |4 |昌禅 |生没年不詳 |850-? |勝道の十哲の一人。850年(嘉祥3年)日光山座主。[[座禅院]]を開く。 |- |5 |尊蓮 |生没年不詳 |858-? |勝道の十哲の一人。858年(天安2年)日光山座主。仮託された著書に857年(天安1年)「満願寺三月会日記」。 |- |6 |明秀 |?-921 |?-921 |921年(延喜21年)死去。 |- |7 |聖兼 |?-969 |921-969 |尊蓮のもとで出家。明秀に師事。921年(延喜21年)日光山座主。969年(安和2年)8月14日死去。 |- |8 |頼肇 |?-1013 |969-? |聖兼の弟子。969年(安和2年)日光山座主。1013年(長和2年)10月7日死去。 |- |9 |慶真 |?-1061 | |1061年(康平4年)10月11日死去。 |- |10 |明覚 |?-1109 |?-1109 |1109年(天仁2年)6月4日死去。 |- |11 |宗円 |1111-? |1109-? |関白藤原道兼の曾孫。1109年(天仁2年)座主。1111年(天永2年)死去。 |- |12 |快舜 |生没年不詳 | |1096年(永長1年)[[中宮祠]]本殿修造(棟札)。 |- |13 |有尋 |生没年不詳 | | |- |14 |良重 |?-1135 |?-1135 |有尋の弟子。1135年(保延1年)7月4日死去。 |- |15 |聖宣 |?-1176 |1135-1176 |1135年(保延1年)座主。1176年(安元2年)死去。光智房。 |- |16 |禅雲 |生没年不詳 |1176-1177 |聖宣の弟子。聖宣の死後、継承争いが起き、聖宣の遺言に反して禅雲が就任する。兄弟弟子の隆宣に追い落とされるが反撃して取り戻す。1182年(寿永1年)、[[源頼朝]]が禅雲を追い落とす。恵観房。 |- |17 |隆宣 |生没年不詳 |1177-? |関政家の子。弁覚の兄。聖宣の弟子。[[鶴岡八幡宮]]供僧。一族を率いて進軍し禅雲を攻め落とす。まもなく反撃に逢い追放された。のち1207年(承元1年)頃に再任。「殺生の事」で解任された。[[鎌倉・永福寺]]に隠居。真智房。 |- | |禅雲 |生没年不詳 |?-1182 |再任。 |- |18 |観経 |生没年不詳 |1182- |[[仁和寺]]僧。[[熱田神宮]]大宮司藤原季範の子。[[源頼朝]]の親族。1182年(寿永1年)、源頼朝が禅雲を追い落とし、観継を座主とする。しかし衆徒は従わず、まもなく退任。宇都宮朝綱が俗別当となる。額田僧都。 |- |19 |覚知 |生没年不詳 | |宇都宮朝綱の俗別当就任に日光衆徒が納得せず、押されて日光山座主に就任。理光房。覚智とも。 |- |20 |静覚 |?-1204 |1189-1204 |1189年(文治5年)就任か。1204年(元久1年)死去。三融房? |- |21 |文珍 |生没年不詳 |1204-? |1204年(元久1年)座主。在職4年。三融房? |- | |隆宣 |生没年不詳 | |1207年(承元1年)頃に再任。在職3年。「殺生の事」で解任された。 |- |22 |相弁 |生没年不詳 | |[[足利家]]の一族。足利貞氏([[足利尊氏]]の父)の親族。文珍の弟子。在職3年。実蓮房。 |- |23 |弁覚 |生没年不詳 |1209-1251 |日光山中興。関政家の子。隆宣の弟。[[鶴岡八幡宮]]供僧。1209年(承元3年)座主就任(1210年(承元4年)とも)。[[勝長寿院]]別当を兼務。1240年(仁治1年)[[日光山光明院]]を創建。[[熊野]]や[[吉野]]で修行した山伏という。和田合戦に参戦。日光に熊野修験を伝えたという。1251年(建長3年)8月4日死去。但馬法印。 |- |24 |性弁 |生没年不詳 |1251-? |隆宣や弁覚のいとこ。弁覚の弟子。1251年(建長3年)座主就任。まもなく退任に追い込まれ、常行堂に放火して去った。少将阿闍梨。 |- |25 |尊家 |?-1273 |1253-1273 |藤原顕家の子。[[本覚院門跡]]となる。鎌倉幕府執権の北条時頼の招きで1253年(建長5年)10月、日光山座主に就任し、鎌倉の勝長寿院別当も兼務。竹林坊静厳の弟子。1273年(文永10年)11月12日死去。 |- |26 |源恵 |1244-1307 |1274-1307 |[[天台座主]]。[[九条家]]出身。4代将軍九条頼経の子。1244年(寛元2年)生。尊家と本覚院門跡最源の弟子。1274年(文永11年)日光山座主。勝長寿院別当・本覚院門跡を兼務。1307年(徳治2年)10月20日死去。64歳。 |- |27 |仁澄法親王 |?-1318 |1308-1318 |初の皇族。天台座主。7代将軍惟康親王の王子。源恵の弟子。1308年(延慶1年)4月、日光山座主。1311年(応長1年)10月3日拝堂。勝長寿院別当・本覚院門跡を兼務。1316年(正和5年)6月29日天台座主。 |- |28 |仁慧法親王 |1244-1298 |1318-1298 |[[後嵯峨天皇]]皇子。母は藤原兼房娘。1244年(寛元2年)生。[[双林寺]]静仁の弟子。1318年(文保2年)日光山座主。在職6年。1298年(永仁6年)死去。[[法住寺門跡]]。[[新熊野検校]]12・15世。仁恵。 |- |29 |道潤 |1266-1329 |1323-1329 |天台座主。関白左大臣二条良実の子。1266年(文永3年)生。源恵の弟子。1323年(元亨3年)日光山座主。在職8年という。1302年(乾元1年)5月、天台座主。1329年(元徳1年)死去。竹林院(比叡山?)・本覚院門跡でもある。 |- |30 |聖慧 |生没年不詳 |1330-1334 |天台座主。7代将軍惟康親王の王子。仁澄の弟か。 久明親王猶子。仁慧法親王の弟子。親源の弟子とも。道瑜に法を学ぶ。1330年(元徳2年)日光山座主。勝長寿院・本覚院を兼務。鎌倉幕府に親しい立場だったため幕府の崩壊と共に1334年(建武1年)退任。[[後醍醐天皇]]の[[吉野]]潜幸を受け、1337年(延元2年/建武4年)再任。1338年(延元3年/暦応1年)天台座主。聖恵。 |- |31 |慈道法親王 |1282-1341 |1334-1337 |天台座主。[[亀山天皇]]皇子。1282年(弘安5年)生。[[青蓮院門跡]]。[[十楽院]]。[[四天王寺]]別当。1334年(建武1年)日光山座主。鎌倉幕府と近い日光山を統御するために後醍醐天皇に近い大覚寺統の皇族が送り込まれたと思われる。『華頂要略』本文には慈道法親王の日光山座主就任の記事はなく、1334年(建武1年)条の末尾に割注で「或記云日光山寺務慈道親王建武元年臨御日光山弘流法沢万物均沾」とある。1336年(延元1年/建武3年)12月の後醍醐天皇の吉野潜幸を受け退任。1341年(興国2年/暦応4年)死去。准三宮。 |- | |聖慧 |生没年不詳 |1337- |後醍醐天皇の吉野潜幸を受け、1337年(延元2年/建武4年)再任。 |- |32 |守慧法親王 |?-1378 |1346-1378 |9代将軍守邦親王の王子。聖慧の弟子。1346年(貞和2年)日光山座主。33年在職。本覚院門跡・[[深大寺]]別当を兼務。1378年(永和4年)2月9日死去。守恵。 |- | |良慧 |生没年不詳 | |[[尊良親王]]の王子。[[後醍醐天皇]]皇孫。本覚院門跡を兼務。本覚院門跡の記録では守慧についで日光山座主になったとするが日光山の記録には残らない。南朝関係は抹消されたか。 |- |33 |聖守法親王 |生没年不詳 |1378-1380 |法親王ともいうが出自不詳。本覚院道俊の弟子。1378年(永和4年)日光山座主。在職3年。本覚院門跡を兼務。 |- |34 |聖助法親王 |生没年不詳 |1380-? |[[後光厳天皇]]皇子。守慧の弟子。聖守の弟子ともいう。[[青蓮院]]で出家。1380年(天授6年/康暦2年)日光山座主。在職6年。本覚院門跡を兼務。1386年(元中3年/至徳3年)一身阿闍梨。諸書に「聖如」とあるのは誤りという。 |- |35 |満守 |生没年不詳 |1385-? |鎌倉公方2代足利氏満の子。[[足利義満]]の猶子。俗名を満秀もしくは満季という。聖如の弟子。1385年(元中2年/至徳2年)日光山座主。在職6年。本覚院門跡・勝長寿院別当を兼務。 |- |36 |慈玄 |生没年不詳 |1390-? |[[一条家]]出身。関白一条経嗣の子。4代将軍足利義持の猶子。満守の弟子。1390年(元中7年/明徳1年)日光山座主。本覚院門跡・勝長寿院別当を兼務。1420年(応永27年)退任という記述もあるが、1426年(応永33年)時点で在職していた。持玄とも。 |} ===権別当=== [[座禅院]]が権別当として座主の役割を代行した。 *1昌瑜()<>:壬生氏。 *2昌勝()<>: *3昌遣()<>: *4昌潤()<>: *5昌継(1373-1461)<>:最後の座主の慈玄の時代の権別当。1461年7月11日死去。89歳。 *6昌宣()<>:西本坊。 *7昌源()<>:1496年、最澄筆と伝わる法華経を開板。 *8昌顕()<>: *9沙弥丸()<>: *10若王丸()<>: *11昌膳()<1530->:壬生綱房の子。兄の壬生綱雄と合戦。 *12昌〓()<>: *13昌広()<>: *14昌淳()<>: *15昌尊()<?-1613>: (『望月仏教大辞典』) ===住職(近世)=== 江戸時代は[[輪王寺宮]]を参照。 ===住職(近代)=== *貫主、門跡とも。 *任期5年。世数は日光山座主、権別当、近世の門跡を全て足して数えているようだ。 {|class="wikitable" |+日光山輪王寺の歴代住職一覧(近現代) !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|略歴 |- |68 |慈亮 |?-1870 |?-1870 |監守。自坊は華蔵院。維新前より門跡の留守居役だった。1870年(明治3年)2月11日死去。 |- |69 |林覚潤 |?-1902 |1870-1871 |学頭代。のち輪王寺貫首75世。1870年(明治3年)3月、三門跡の命で学頭代に就任。1871年(明治4年)8月辞職。 |- |69 |生戒 |?-1875 |1870-1872 |学頭代。自坊は養源院。1870年(明治3年)3月、三門跡の命で学頭代に就任。1872年(明治5年)春辞職。1875年(明治8年)1月31日死去。 |- |70 |山貞 |?-1895 |1872-1873 |学頭代。自坊は龍光院。1872年(明治5年)春、栃木県庁の命で学頭代に就任。1873年(明治6年)8月辞職。1895年(明治28年)11月14日死去。 |- |71 |彦坂諶厚 |1833-1897 |1873-1874 |学頭代。のち輪王寺貫首73世。1873年(明治6年)9月、栃木県庁と天台宗務庁の命で満願寺(輪王寺)学頭代。 |- |72 |修多羅亮栄 |?-1886 |1874-1881 |兼務。自坊は市谷[[自証院]]。1874年(明治7年)12月、[[内務省]]の命で満願寺を兼務。1881年(明治14年)9月退任。1886年(明治19年)11月6日死去。少教正。 |- |73 |彦坂諶厚 |1833-1897 |1882-1897 |貫首。自坊は護光院。信濃出身。1833年(天保4年)1月25日生。12歳で日光護光院で得度。22歳で護光院住職。1871年(明治4年)の神仏分離で護光院は廃止され、本坊に合併となる。1872年(明治5年)[[教導職]]権訓導。1873年(明治6年)訓導。1873年(明治6年)9月、栃木県庁と天台宗務庁の命で満願寺(輪王寺)学頭代。1874年(明治7年)少講義。1879年(明治12年)大講義、満願寺副住職。1882年(明治15年)5月11日、満願寺住職、権少教正。1883年(明治16年)、輪王寺の号を復旧。1884年(明治17年)僧正。1887年(明治20年)広学竪義遂業、権大僧正。1892年(明治25年)9月、天台座主より[[天海]]着用の七条袈裟を贈られる。1895年(明治28年)5月、大僧正。1897年(明治30年)7月5日死去。65歳。金剛心院と号す。(『日光山沿革略記』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/819724/]) |- |74 |山本貞典 |?-1911 |1890-1901? |自坊は法門院。1898年(明治31年)7月7日、輪王寺貫首。1911年(明治44年)9月25日死去。深信院と号す。 |- |75 |林覚潤 |?-1902 |1901-1902 |自坊は医王院。1870年(明治3年)3月、三門跡の命で学頭代に就任。1871年(明治4年)8月辞職。1901年(明治34年)10月7日、輪王寺貫首。1902年(明治35年)3月6日死去。法雲林院と号す。 |- |76 |彦坂諶照 |?-1921 |1902-1921 |彦坂諶厚の弟子。1902年(明治35年)3月8日、輪王寺貫首。1921年(大正10年)2月5日死去。 |- |77 |今井徳順 |1873-1937 |1921-1937 |自坊は浄土院。上野出身。1873年(明治6年)生。1921年(大正10年)輪王寺門主。1937年(昭和12年)12月3日死去。 |- |78 |関口慈真 | |1938-1947 |1938年(昭和13年)輪王寺門主。1947年(昭和22年)退任。 |- |79 |菅原英信 | |1947-1952 |自坊は照尊院。1947年(昭和22年)輪王寺門主。1952年(昭和27年)退任。 |- |80 |菅原栄海 |1888-1975 |1952-1875 |天台座主252世。岩手県出身。自坊は輪王寺医王院。1888年(明治21年)2月16日生。1927年(昭和2年)輪王寺執事長。1952年(昭和27年)輪王寺門主。1970年(昭和45年)、天台座主。1975年(昭和50年)11月14日死去。87歳。 |- |81 |柴田昌源 | |1975-1989 |1975年(昭和50年)輪王寺門主。1989年(平成1年)退任。 |- |82 |荻原貞興 | |1989-1995 |1989年(平成1年)輪王寺門主。1995年(平成7年)退任。 |- |83 |鈴木常俊 |?-2004 |1995-2004 |輪王寺執事長、中禅寺執行を経て1995年(平成7年)3月1日就任。天台宗宗議会議員、副議長。宗機顧問。2004年(平成16年)、任期途中で退任。同年12月28日死去。81歳。慈照心院。 |- |84 |菅原栄光 |1915-2018 |2004-2014 |菅原栄海の長男。自坊は医王院。1915年(大正4年)生。輪王寺執事長。天台宗宗議会議員。2004年(平成16年)12月21日就任。2018年(平成30年)4月17日死去。94歳。 |- |85 |小暮道樹 | |2014-2019 |自坊は桜本院。輪王寺執事長。2014年(平成26年)12月21日から2019年(令和1年)12月20日まで輪王寺門跡。 |- |86 |石塚慈雄 | |2019- |自坊は安養院。2014年(平成26年)輪王寺執事長。中央大学文学部卒。大正大学仏教学部卒。栃木新聞記者。1979年(昭和54年)輪王寺に奉職。1990年(平成2年)安養院住職。2019年(令和1年)12月21日就任。 |} ===執事長=== *菅原栄海(1888-1975)<1927->:天台座主252世。輪王寺80世。 *貴船諶道()<>: *鈴木常俊(-2004)<>:輪王寺83世。 *菅原栄光(1915-2018)<>:輪王寺84世。 *小暮道樹()<>:輪王寺85世。 *石塚慈雄()<>:輪王寺86世。 *今井昌英()<2019->:自坊は浄土院。2019年(令和1年)12月21日、執事長就任。 == 写真 == <gallery> ファイル:Nikko-rinnoji-main (1).jpg|門 ファイル:Nikko-rinnoji-main (2).jpg|三仏堂 ファイル:Nikko-rinnoji-main (4).jpg|三仏堂 ファイル:Nikko-rinnoji-main (5).jpg|大護摩堂 ファイル:Nikko-rinnoji-main (6).jpg|大護摩堂 ファイル:Nikko-rinnoji-main (7).jpg|相輪塔 ファイル:Nikko-rinnoji-main (8).jpg|相輪塔 ファイル:Nikko-rinnoji-main (9).jpg|光明院稲荷社 ファイル:Nikko-rinnoji-main (10).jpg|庭園入口 ファイル:Nikko-rinnoji-main (11).jpg|本坊 ファイル:Nikko-rinnoji-main (12).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-main (13).jpg|天海像 ファイル:Nikko-rinnoji jogyodo hokkedo (1).jpg|常行堂・法華堂 ファイル:Nikko-rinnoji jogyodo hokkedo (2).jpg|常行堂・法華堂 ファイル:Nikko-rinnoji yakushido (1).jpg|薬師堂 ファイル:Nikko-rinnoji yakushido (2).jpg|薬師堂 ファイル:Nikko-rinnoji yakushido (3).jpg|薬師堂 </gallery> 院坊 <gallery> ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (1).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (2).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (3).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (4).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (5).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (6).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (7).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (8).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (9).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (10).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (11).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (12).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (13).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (14).jpg| ファイル:Nikko-rinnoji-inbo (15).jpg| </gallery> [[Category:栃木県]]
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