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日厳院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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応保2年5月、妙法院門跡快修が創建。以後、妙法院の運営を支えたと思われる。門跡として扱われていた時期もある可能性があるがはっきりしない。江戸時代には妙法院の院家として記録に残る。
応保2年5月、妙法院門跡快修が創建。以後、妙法院の運営を支えたと思われる。門跡として扱われていた時期もある可能性があるがはっきりしない。江戸時代には妙法院の院家として記録に残る。
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=== 歴代住職 ===
*1快修(?-1172)<>:[[妙法院門跡]]13世。(略歴は[[妙法院#組織]]を参照)
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*2相顕()<>:快修の弟子。
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*16堯海()<>:大念仏寺49世?
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*16堯海(1743-1799)<-1770->:大念仏寺49世。1763年には普応院住職。日厳院を経て1787年には[[勝安養院]]住職。1799年(寛政11年)3月26日死去。
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*17教弥()<>:[[大念仏寺]]52世。(略歴は[[大念仏寺#組織]]を参照)
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*洞海(1769-?)<-1787->:
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*17教弥(?-1872)<>:[[大念仏寺]]52世。1872年(明治5年)死去。(略歴は[[大念仏寺#組織]]を参照)
(『日本仏家人名辞書』、望月信亨『仏教大辞典 付録』)
(『日本仏家人名辞書』、望月信亨『仏教大辞典 付録』)

2020年10月6日 (火) 時点における版

日厳院は、京都府京都市にあった妙法院門跡の院家寺院尾坂門跡小坂殿とも呼ばれた。現在の京都国立博物館の辺りにあった。明治初期に大念仏寺が兼務。

応保2年5月、妙法院門跡快修が創建。以後、妙法院の運営を支えたと思われる。門跡として扱われていた時期もある可能性があるがはっきりしない。江戸時代には妙法院の院家として記録に残る。

組織

歴代住職

  • 1快修(?-1172)<>:妙法院門跡13世。(略歴は妙法院#組織を参照)
  • 2相顕()<>:快修の弟子。
  • 3実覚()<>:
  • 4亮性法親王(1318-1363)<>:後伏見天皇の第9皇子。妙法院門跡25世。天台座主。(略歴は妙法院#組織を参照)
  • 5亮継()<>:正親町三条実継の子。亮性法親王の弟子。
  • 6亮秀()<>:
  • 7明実()<>:
  • 8実昭()<>:菊亭教季の子。明実の弟子。『日厳院引付』を記す。
  • 9公意()<>:
  • 10覚胤法親王(1465-1541)<>:伏見宮貞常親王の王子。妙法院門跡31世。天台座主。(略歴は妙法院#組織を参照)
  • 11覚永()<>:覚胤法親王の弟子。祇園社別当。『即住院座主拝任事』を記す。
  • 12堯憲(1628-?)<>:園基音の子。堯然法親王の弟子。著書に『獅子吼院堯恕親王行業記』。
  • 13堯什()<>:
  • 14堯陳()<>:
  • 15堯明(1741-?)<-1763->:
  • 16堯海(1743-1799)<-1770->:大念仏寺49世。1763年には普応院住職。日厳院を経て1787年には勝安養院住職。1799年(寛政11年)3月26日死去。
  • 洞海(1769-?)<-1787->:
  • 17教弥(?-1872)<>:大念仏寺52世。1872年(明治5年)死去。(略歴は大念仏寺#組織を参照)

(『日本仏家人名辞書』、望月信亨『仏教大辞典 付録』)

参考文献

  • 『日厳院引付』『即住院座主拝任事』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%97%A5%E5%8E%B3%E9%99%A2」より作成

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