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日蓮宗の流派

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2020年1月25日 (土) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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日蓮宗の流派。近現代の教団については、日蓮宗の教団を参照。『法華経』の前半部と後半部をどう評価するかにより別れる。前半部と後半部を同等に重視するのが一致派、後半部を前半部より重視し、評価に優劣(勝劣)があるのが勝劣派。勝劣派は法華宗を名乗ることが多い。富士門流は勝劣派、不受不施派は一致派だが、成立の経緯が特殊なので別立てとする。

目次

中世

一致派

勝劣派

富士門流

不受不施門流

不受不施門流は信者以外からの布施の受け取りを拒否し、また信者以外の者に布施しない流派。徳川幕府はこの教義を反体制的だと危険視し、禁教の対象となった。たびたび弾圧されたが、明治維新まで非合法で活動を続けた。不受不施は江戸時代以前から日蓮宗の教義の論点として存在していたが、領主による寄進の諾否や領主のための祈祷への出仕をいわば「踏み絵」にして日蓮宗を統制する手段とした。明治維新で解禁され教団が組織された。

近世以降

近世以降、檀林の成立とともに出身校による学閥が本山・末寺の人事を支配するようになり、これを法縁(法類、法眷)という。檀林制度が廃止された近現代においても事実上の流派として影響力を持っている。以下、久遠寺派陣門流真門流の法縁を挙げたが、他の宗派については不詳。この他、久遠寺派の宗派内集団として日蓮宗霊断師会がある(修法師会とは別)。

 日蓮宗(久遠寺派、陣門流、真門流)の法縁一覧
名称 系統 所属 縁祖 母体の檀林・学寮 関係本山 概要
1 勇師法縁(勇通師法縁と総称) 一致派・日遠系 久遠寺派 法性院日勇(妙伝寺14世)(1604(慶長9)-1650(慶安3)) 山科檀林通師谷・堯師谷 久遠寺
上総・妙覚寺
妙伝寺
妙伝寺を縁頭寺とする。山科法縁ともいう。関西では勇師法縁、関東では通師法縁と呼ぶが、実質的に同一の法縁とされている。
2 通師法縁(勇通師法縁と総称) 一致派・日遠系 久遠寺派 寂遠院日通(池上20世、久遠寺30世)(1615(元和1)-1679(延宝7)) 飯高壇林松和田谷(松和軒) 久遠寺
上総・妙覚寺
妙伝寺
勇通師法縁の分派。
3 (勇通)堀ノ内法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 亭寿院日観(堀之内18世)(1750(寛延3)-1807(文化4)) 飯高壇林松和田谷(松和軒) 江戸・妙法寺 勇通師法縁の分派。日観の字を「教海」と言い、堀之内妙法寺に晋山。門弟も「教」の字を用いたことから、「教の字法類」とも呼ばれる。武蔵、越後地方に多い。
4 (勇通)千駄ケ谷法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 一源院日遙(?-1677(延宝5))(是俊院日如(?-1752(宝暦2))とする見解も) 飯高壇林松和田谷(松和軒) 勇通師法縁の分派。日遙は、千駄ケ谷に仙寿院を創建。5世日如は越後地方に門弟を多く擁し、「是」を冠する字(あざな)および院号を称する者が多い。近代では小林日董(時中院是純、1848-1905)が著名。8世体遠院日糧も武蔵・両総に多くの門人を抱え、その字「詮量」にちなんで「詮の字」系を形成。
5 (勇通)雑司ケ谷法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 (不詳) 飯高壇林松和田谷(松和軒) 勇通師法縁の分派。武蔵・能登地方にいるが、沿革は不詳という。
6 (勇通)一ノ瀬法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 通玄院日章 飯高壇林松和田谷(松和軒) 勇通師法縁の分派。日章は字を顗海と言い、甲斐妙了寺に晋山。甲州に広がる門弟には名に「顗」を冠する者が多いという。「顗の字」系。
7 潮師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 六牙院日潮(久遠寺第36世)(1674(延宝2)-1748(寛延1)) 飯高壇林中台谷(龍眠庵) 瑞輪寺
久遠寺
根本寺
孝勝寺
勇通法縁系の一派。瑞輪寺を縁頭寺とする。日潮の生没年が仏家人名辞書では異なる。「海の字」を持つ者が多く、近代には本間海解が出ている。
8 脱師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 一円院日脱(立本寺22世、久遠寺第31世)(1626(寛永3)-1698(元禄11)) 飯高壇林中台谷(龍眠庵) 久遠寺
9 池上法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 寿量院日祐(1610(慶長15)-1664(寛文4)) 飯高壇林城下谷(向城庵) 池上本門寺
下総・弘法寺
中道庵法縁、妙玄庵法縁、樹下庵法縁を総称して池上三法縁と呼ぶ。
10 (池上)中道庵法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 守玄院日顗(池上25世) 飯高壇林城下谷(向城庵) 池上本門寺
下総・弘法寺
池上法縁の分派。
11 (池上)堺法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 順正院日進(生没年未詳) 飯高壇林城下谷(向城庵) 池上本門寺
法華経寺
下総・弘法寺
和泉・妙国寺
池上法縁の分派。中道庵法縁下の有力な分派。
12 (池上)妙玄庵法縁(芳師法縁に合併) 一致派・日遠系 久遠寺派 妙玄院日等(誕生寺●世、池上24世)(1652(承応1)-1733(享保18)) 飯高壇林城下谷(向城庵) 池上本門寺
下総・弘法寺
池上法縁の分派。
13 (池上)樹下庵法縁(芳師法縁に合併) 一致派・日遠系 久遠寺派 成寿院日芳 飯高壇林城下谷(向城庵) 池上本門寺
下総・弘法寺
池上法縁の分派。
14 莚師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 隆源院日莚(久遠寺第29世)(1609(慶長14)-1681年(天和1年)) 中村檀林西谷(観月庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
鶏冠井檀林莚師谷
妙顕寺 「全国莚師法縁隆源会」を組織。
15 奠師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 妙心院日奠(久遠寺第28世)(1601(慶長6)-1667(寛文7)) 中村檀林西谷(観月庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
鶏冠井檀林奠師谷
妙顕寺
本土寺
妙覚寺
「公益財団法人日蓮宗奠統会」を組織。
16 達師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 了義院日達(本圀寺26世)(1674(延宝2)-1747(延享4)) 中村檀林東谷(真如庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
法華経寺
妙顕寺
頂妙寺
「全国達師法縁繋珠会」を組織。
17  境師法縁 一致派・日遠系 久遠寺派 通心院日境(久遠寺第27世)(1601(慶長6)-1659(万治2)) 中村檀林東谷(真如庵) 妙顕寺
仏現寺
「境師法縁清和会」を組織。
18 親師法縁 一致派・その他 久遠寺派 久遠成院日親(1407-1488) 中村檀林東谷(真如庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
鷹峰檀林峰谷・山谷
本法寺
法華経寺
妙顕寺
蓮永寺
光勝寺
19  貞師法縁(親師法縁に合併) 一致派・その他 久遠寺派 本是院日貞(法華経寺70世) 中村檀林東谷(真如庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
鷹峰檀林峰谷・山谷
本法寺
法華経寺
妙顕寺
蓮永寺
光勝寺
20  精師法縁(親師法縁に合併) 一致派・その他 久遠寺派 修光院日精(法華経寺58世、妙顕寺●世)(1674(延宝2)-1739(元文4)) 中村檀林東谷(真如庵)
東山檀林念師谷・照道谷・迢師谷
鷹峰檀林峰谷・山谷
本法寺
法華経寺
妙顕寺
蓮永寺
光勝寺
21 生師法縁 一致派・その他 久遠寺派 教蔵院日生(立本寺9世)(1553(天文22)-1595(文禄4)) 松ケ崎檀林玄谷・板谷 立本寺 「全国松ケ崎法縁」を組織。
22 小西法縁 一致派・その他 久遠寺派 日竟(宗教制度調査資料)、または日伝(諸檀林並精貞法縁) 小西檀林江戸谷・藻原谷・伊豆谷 藻原寺
上総・正法寺
甲斐・妙法寺
「全国小西法縁連合会」を組織。
23 鏡師法縁 一致派・その他 久遠寺派 善学院日鏡(久遠寺14世)(1507-1559) 西谷檀林 駿河・本覚寺 「鏡師法縁善学会」を組織。
24 什師法縁 勝劣派・日什門流 久遠寺派 (日什) 陸奥・妙国寺
妙立寺
横浜・本興寺
玄妙寺
日什門流の寺院・僧侶で「日蓮宗什師会」を組織。
25 興統法縁 富士門流 久遠寺派 (日興) 北山本門寺
小泉久遠寺
実成寺
富士門流の寺院・僧侶で「興統法縁会」を組織。
26 諦師法縁 一致派・草山律 久遠寺派 智玄院日諦(誕生寺58世) 山本日諦の系統。龍潜寺
27 宣師法縁 新興系 久遠寺派 最妙院日宣(妙教寺23世)(1888-1979) 妙教寺最上稲荷教の寺院・僧侶で「最上稲荷宣師会」を組織する。
28 進師法縁 新興系 久遠寺派 泰山院日進(1902(明治35)-1962(昭和37)) 名古屋・法音寺を本部とし、杉山辰子および鈴木修学(泰山院日進)らを開祖と仰ぐ宗派内教団(会誌『法音』520)。杉山辰子を開祖とする教団は他にも存在する。
29 観師法縁 下谷 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林下谷寮・長屋
30 禅師法縁 大木戸 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林東寮・西寮・長屋
31 海師法縁 白金 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林赤門寮・長屋
32 相師法縁 麻布 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林麻布寮・長屋
33 珖師法縁 四谷 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林南天寮・長屋
34 堯師法縁 芝 勝劣派・日陣門流 陣門流 三沢檀林芝寮・長屋
35 寿師法縁 勝劣派・日真門流 真門流
36 久師法縁 勝劣派・日真門流 真門流
37 政師法縁 勝劣派・日真門流 真門流
  • 名称は便宜上「法縁」に統一
  • 典拠『諸檀林並精貞法類』『宗教制度調査資料13集』『仏家人名辞書』など。

祈祷修法の流派

  • 積善房流:身延山積善房を拠点とした一派。江戸時代の積善房10世の仙寿院日閑を中興とする。楊枝加持を始めた。七面山の信仰の広まりと共に山中修行する僧侶が登場。七面山に近い身延山東谷に修行僧が集まった。積善房もその一つだった。14世満行院日順、一道院日法(1659-1719、身延山岸之坊24世)、中山経王院日詳、22世普門院日憲(1760-1829)らが優れた祈祷師として知られた。一道院日法は堀川本蔵寺を拠点に鴨川で1000日荒行を行い、京都内外の注目を集めた。霊元上皇が帰依し、「経王祈祷所」の勅額と「大験者上人」の号を与えた。1819年(文政2年)、蓮華谷に移転。1870年(明治3年)火災で焼失。加行所は休止となった。
  • 智泉院流:中山両流の一つ。中山法華経寺智泉院を拠点とする。中山25世の行巌院日長が智泉院日住に命じて加行場を設置した。1644年(正保1年)に開設した。1841年(天保12年)10月、日啓と日尚が政変に巻き込まれて処分。行堂閉鎖となった。しかし、ひそかに活動はしていたらしい。1869年(明治2年)に加行を開いた記録があるが、1874年(明治7年)に火災で焼失し、読経堂のみ残して灰燼と帰した。1878年(明治11年)再建上棟式を行ったが、強風で倒壊した。
  • 遠寿院流:中山両流の一つ。中山法華経寺遠寿院を拠点とする。1670年(寛文10年)頃、院家側の主導で積善房流の経王院日詳(1608-1678)を招いて円立坊を創建。1824年(文政7年)までには遠寿院と改称。世情混乱で1867年(慶応3年)から1871年(明治4年)まで行堂停止。1868年(明治1年)4月10日、法華経寺の火災で焼失。1872年(明治5年)に改めて開堂した。文明開化、「淫祠邪教」の禁止の風潮の中、祈祷の存続が危ぶまれるが、中山112世河田日因と遠寿院25世朝田日光(1845-1879)の尽力で存続した。1876年(明治9年)5月8日、「加行規則並順序等」を定め、宗派管長の公認を得た。法華経寺住職は「伝主」、遠寿院住職は「副伝主」と称している。1878年(明治11年)修法者規則を制定。1888年(明治21年)、再行堂(先輩寮)を建立。1893年(明治26年)修法取締規則を制定。1897年(明治30年)荒行堂に付属する行堂(寮)を建立。1898年(明治31年)荒行堂を修復。1903年(明治36年)頃は現在の読経堂が初行堂で、30畳敷きで鬼子母尊神を祀り、堂の南には水行場もある。初行堂の前に再行堂があり、その奥に五行堂があった。1897年(明治30年)頃、伝書を整備。遠寿院は戦後、日蓮宗久遠寺派から離脱し、本寺である法華経寺の中山妙宗に所属。久遠寺派の荒行堂は身延山に移転。のち遠寿院は久遠寺派に復帰。1960年(昭和35年)から1973年(昭和48年)まで荒行堂は身延山と遠寿院の双方で開設された。1973年(昭和48年)3月、中山妙宗が日蓮宗久遠寺派に合同すると荒行堂の一本化を図られ、身延山の荒行堂が法華経寺に移転。一本化はならず、宗派とは別に遠寿院の行堂が営まれている。
  • 普明院流:身延積善房流から派生した一派。高槻一乗寺6世の普明院日栄(1615-1693)を開祖とする。日栄は身延山東谷で苦行を挑み満行。のち各地を布教。和歌山藩主夫人の養珠院の帰依を得て、芝正伝寺など数十寺を復興させた。養珠院の仲介で、身延山に伝わる相伝の伝授を請願し、1653年(承応2年)、「身延山伝師」に任命された東光院日春から江戸の「某所」で伝授を受けた。中山からも切紙を得ている。
  • 三沢流:身延積善房流から派生した一派。静岡三沢寺の貞光院日富と勧持院日相が身延の仙寿院日閑に学び、開いたという。日相が弟子に与えた1675年(延宝3年)の修法曼荼羅が現存する。松江松平家の外護を得た。幕末まで江戸大久保法善寺を江戸出張所とした。
  • 唯観流:唯観日勇(1639-1691)が妙見菩薩に祈念し如意を感得。1680年(延宝8年)七面山で百日修行を終えて祈祷修法の極意を得たという。京都本瑞寺の忍辱鎧日栄が唯観流を受け継いだ。日栄は1732年(享保17年)『修験故事便覧』を出版。この書は修験道で現在も重用されている。唯観流はのち廃絶。
  • ささめ流:中山から日陣門流に伝播した一派。蓮着寺日暹が開祖。寛永初年、日暹は伯父(叔父?)にあたる中山21世日現から密かに「三十八箇条の切紙」を伝授されたという。名称は蓮着寺の近くにある「ささめが浦」に由来する。
  • 桑名流:通明院日隆(1632-1710)の行った祈祷法。異色の弾指加持を行った。日隆は身延日暹の弟子で、苦行を行い、験術を得た。祈祷で桑名藩主松平定重の病気を治したという。のち松平定重に招かれ伊勢円妙寺の開山となった。
  • 本教院流:信徒の岩城日正が明治後期に創唱した。岩城日正は千葉中山の出身で、明治20年代に法華経寺の龍王池で神示を受け、本教院と称した。30年代には「実大乗寿量本教院」教長を名乗り、自ら大僧正を称した。「修験道法華経加持祈祷法」と名付けた祈祷法を伝授し、大正時代に身延山の醍醐の滝に籠もって弟子を育成した。岩城日正は1938年(昭和13年)滝野川一里塚教会で死去。池上本行寺に埋葬された。

(以上、日蓮宗事典など)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%97%A5%E8%93%AE%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%B5%81%E6%B4%BE」より作成

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