ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
普陀山
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
普陀山
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
'''普陀山'''(ふださん)は、中国[[寧波]]沖合に浮かぶ舟山郡島に位置する、[[観音菩薩]]の霊山がある島。[[中国仏教四大霊山]]の一つ。浙江省舟山市普陀区に属し、市政府がある中心部'''舟山島'''東4kmにある。寧波中心部から東北東83km、[[杭州]]中心部から東215km、[[上海]]から東南161kmに位置する。日本僧'''慧萼'''(えがく)が開山した観音霊場である。[[普陀山・普済寺|普済寺]]、[[法雨寺]]、[[慧済寺]](以上、[[重点寺院]])の三大寺や最初に祀られた[[不肯去観音院]]、観音示現の地[[潮音洞]]、[[梵音洞]]、[[紫竹林]]などの寺院・聖地より構成されている。最高峰'''仏頂山'''は標高291.3m。東南アジアの華僑からの信仰が篤いという。日本の[[建長寺]]や[[南禅寺]]に住した[[一山一寧]]の出身地でもある。 ==歴史== 普陀山の名称は、観音菩薩の聖地である'''補陀落山'''(ふだらくさん)に由来する。唐訳『華厳経』巻68に観音の住む「補タ洛迦」(ほたらか)は「光明山」「海島山」とも言い「海上に山有り聖賢多く、衆宝の所成にして極めて清浄に、葉果樹林は皆遍満し、泉流池沼は悉く具足す」と述べられている。鎌田茂雄氏は、この記述に合う地を現実の中国で求めれば、普陀山がふさわしいと述べている。 西漢の末期、'''梅福'''という者が来て、'''梅岑山'''(ばいしんさん)と称したことが始まりという。当初は[[道教]]の霊山で、成帝(前32-7)時代、彼は洞窟が多く、水質が良く、気候も良いこの島に来て、錬丹研究に励んだ。 唐代から仏教が入り、宣宗の大中年間(847-860)にはインド僧が立ち寄っている。五代後梁の貞明2年(916)、'''慧萼'''が日本に帰国する際に、観音像を持ち帰ろうとしたところ、普陀山にて動かなくなったためこの地で祀ったという。この縁起は日本の『元亨釈書』(鎌倉時代末)にも採録されている。 宋の神宗の元豊3年(1080)、王舜封が使節として高麗に渡るとき、海が荒れて船が進まなくなった。そこで[[潮音洞]]を臨んで祈願すると、波風はやんで、無事に役目を果たした。報告を受けた神宗は「'''宝陀観音寺'''」と名を下したという。高宗の紹興元年(1131)、朝廷は山内の宗派を禅宗に統合させた。また寧宗は、嘉定7年(1214)、「'''円通宝殿'''」の額を下賜した。理宗の淳祐8年(1248)に租税を免除したため、多くの寺院が発展していった。元の朝廷も庇護し、明初に太祖朱元璋が寺を焼かせたが、その後、再建させている。 清聖祖の康煕4年(1665)、欧米列強によってほぼ全ての寺院が焼き払われるが、同28年、皇帝が[[杭州]]に行幸したとき、再建費として一千両を下賜し、さらに明時代の[[南京]]の旧殿が[[法雨寺]]に移築され、復興が進められた。10年後の同38年(1699)、再び杭州行幸があったとき、「普済群霊」「天花法雨」の額を下し、前寺を'''普済寺'''(普済禅寺)、後寺を'''法雨寺'''(法雨禅寺)と呼ぶようになった。世宗は雍正9年(1731)、7万両を寄進している。乾隆58年(1793)、仏頂山にあった小さな草庵を再建し伽藍を建て、光緒33年(1907)、文正が大伽藍を整備して'''慧済寺'''(慧済禅寺)となった。現在の普陀山三大寺が揃った。 [[寧波]]の[[七塔寺]]は、普陀山の観音をうつしたものとされ、'''小普陀山'''とも呼ばれる。 アモイには[[南普陀寺]]がある。 ==参考文献== *鎌田茂雄、昭和62年『中国四大霊山の旅』佼成出版社 [[category:中華人民共和国浙江省|*]]
普陀山
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ