ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

普陀山

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年12月1日 (金)

移動: 案内, 検索
普陀山001.jpg

普陀山(ふださん)は、中国寧波沖合に浮かぶ舟山郡島に位置する、観音菩薩の霊山がある島。中国仏教四大霊山の一つ。浙江省舟山市普陀区に属し、市政府がある中心部舟山島東4kmにある。寧波中心部から東北東83km、杭州中心部から東215km、上海から東南161kmに位置する。日本僧慧萼(えがく)が開山した観音霊場である。普済寺法雨寺慧済寺(以上、重点寺院)の三大寺や最初に祀られた不肯去観音院、観音示現の地潮音洞梵音洞紫竹林などの寺院・聖地より構成されている。最高峰仏頂山は標高291.3m。東南アジアの華僑からの信仰が篤いという。日本の建長寺南禅寺に住した一山一寧の出身地でもある。


歴史

普陀山南海観音002.jpg
普陀山・禁止舍身燃指.jpg

普陀山の名称は、観音菩薩の聖地である補陀落山(ふだらくさん)に由来する。唐訳『華厳経』巻68に観音の住む「補タ洛迦」(ほたらか)は「光明山」「海島山」とも言い「海上に山有り聖賢多く、衆宝の所成にして極めて清浄に、葉果樹林は皆遍満し、泉流池沼は悉く具足す」と述べられている。鎌田茂雄氏は、この記述に合う地を現実の中国で求めれば、普陀山がふさわしいと述べている。

西漢の末期、梅福という者が来て、梅岑山(ばいしんさん)と称したことが始まりという。当初は道教の霊山で、成帝(前32-7)時代、彼は洞窟が多く、水質が良く、気候も良いこの島に来て、錬丹研究に励んだ。

唐代から仏教が入り、宣宗の大中年間(847-860)にはインド僧が立ち寄っている。五代後梁の貞明2年(916)、慧萼が日本に帰国する際に、観音像を持ち帰ろうとしたところ、普陀山にて動かなくなったためこの地で祀ったという。この縁起は日本の『元亨釈書』(鎌倉時代末)にも採録されている。

宋の神宗の元豊3年(1080)、王舜封が使節として高麗に渡るとき、海が荒れて船が進まなくなった。そこで潮音洞を臨んで祈願すると、波風はやんで、無事に役目を果たした。報告を受けた神宗は「宝陀観音寺」と名を下したという。高宗の紹興元年(1131)、朝廷は山内の宗派を禅宗に統合させた。また寧宗は、嘉定7年(1214)、「円通宝殿」の額を下賜した。理宗の淳祐8年(1248)に租税を免除したため、多くの寺院が発展していった。元の朝廷も庇護し、明初に太祖朱元璋が寺を焼かせたが、その後、再建させている。

清聖祖の康煕4年(1665)、欧米列強によってほぼ全ての寺院が焼き払われるが、同28年、皇帝が杭州に行幸したとき、再建費として一千両を下賜し、さらに明時代の南京の旧殿が法雨寺に移築され、復興が進められた。10年後の同38年(1699)、再び杭州行幸があったとき、「普済群霊」「天花法雨」の額を下し、前寺を普済寺(普済禅寺)、後寺を法雨寺(法雨禅寺)と呼ぶようになった。世宗は雍正9年(1731)、7万両を寄進している。乾隆58年(1793)、仏頂山にあった小さな草庵を再建し伽藍を建て、光緒33年(1907)、文正が大伽藍を整備して慧済寺(慧済禅寺)となった。現在の普陀山三大寺が揃った。

寧波七塔寺は、普陀山の観音をうつしたものとされ、小普陀山とも呼ばれる。 アモイには南普陀寺がある。貴州省貴陽市には西普陀寺がある。

参考文献

  • 鎌田茂雄、昭和62年『中国四大霊山の旅』佼成出版社
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%99%AE%E9%99%80%E5%B1%B1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール