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最澄旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
最澄旧跡
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[[ファイル:四天王寺・一乗院 (2).jpg|thumb|300px|]] '''最澄'''(さいちょう)(767-822)は、日本[[天台宗]]の開祖。[[比叡山]][[延暦寺]]の開山。'''伝教大師'''。 忌日法要を'''六月会'''、'''山家会'''という。 ==略歴== {|class="wikitable" |+最澄年譜 !style="width:15%;"|年 !style="width:10%;"|月日 !style="width:5%;"|年齢 !style="width:70%;"|事項 |- |767年(神護景雲1年) |8月18日 |1 |近江国滋賀郡古市郷で誕生。現在の[[生源寺]]の地という。8月18日とする典拠は不詳。父は三津百枝。『叡山大師伝』『伝述一心戒文』などの没年からの計算。「度縁」「戒牒」などから計算すると766年(天平神護2年)生となる。 |- |768年(神護景雲2年) | |2 | |- |769年(神護景雲3年) | |3 | |- |770年(宝亀1年) |8月 |4 |([[称徳天皇]]崩御) |- | |10月 | |([[光仁天皇]]即位) |- |771年(宝亀2年) | |5 | |- |772年(宝亀3年) | |6 | |- |773年(宝亀4年) | |7 |村里の小学に入り陰陽・医方・工巧を学ぶ(叡山大師伝)。 |- |774年(宝亀5年) | |8 | |- |775年(宝亀6年) | |9 | |- |776年(宝亀7年) | |10 | |- |777年(宝亀8年) | |11 | |- |778年(宝亀9年) | |12 |[[近江国分寺]]に入って大国師行表の弟子となり、唯識([[法相宗]])や禅法を学ぶ(叡山大師伝)。 |- |779年(宝亀10年) | |13 | |- |780年(宝亀11年) |11月10日 |14 |国分寺僧として得度し、最澄と名乗る。この時の「度牒」が現存する。 |- |781年(天応1年) | |15 | |- | |4月3日 | |(光仁天皇譲位。[[桓武天皇]]即位) |- | |12月23日 | |(光仁上皇崩御) |- |782年(延暦1年) | |16 | |- |783年(延暦2年) | |17 | |- |784年(延暦3年) |11月11日 |18 |([[長岡京]]遷都) |- | | | |桓武天皇、[[西教寺]]再建。最澄に命じて読経させるという。 |- |785年(延暦4年) |4月6日 |19 |[[東大寺戒壇院]]で具足戒を受戒。この時の「戒牒」が現存する。 |- | |7月 | |[[比叡山]]に登り、[[神宮禅院]]の場所に草庵を結ぶ(叡山大師伝)。願文を記す。十二年籠山の起源。 |- |786年(延暦5年) | |20 | |- |787年(延暦6年) | |21 | |- |788年(延暦7年) | |22 |[[比叡山寺]]を創建(伝教大師行状)。虚空蔵尾に小堂を建てて[[薬師如来]]像を刻んで祭った。根本薬師堂といわれるもので、のちに文殊堂と経蔵を左右に立てて[[延暦寺根本中堂|根本中堂]]となる。 |- |789年(延暦8年) | |23 | |- |790年(延暦9年) | |24 | |- |791年(延暦10年) | |25 | |- |792年(延暦11年) | |26 | |- |793年(延暦12年) | |27 | |- |794年(延暦13年) |10月22日 |28 |([[平安京]]遷都) |- |795年(延暦14年) | |29 | |- |796年(延暦15年) | |30 | |- |797年(延暦16年) | |31 |[[内供奉十禅師]]となる。 |- | | | |協力を得て一切経を書写する。 |- | |2月 | |行表、[[大安寺]]西唐院で死去。74歳。 |- |798年(延暦17年) |11月 |32 |比叡山寺に南都学僧を招いて智顗の忌日「霜月会」に法華十講を始修。 |- | | | |円澄が比叡山に登り最澄に師事。 |- |799年(延暦18年) | |33 | |- |800年(延暦19年) | |34 | |- |801年(延暦20年) | |35 | |- |802年(延暦21年) |夏 |36 |和気広世・和気真綱が主催する[[高雄山寺]]の法華会の講師に招かれ、5カ月にわたる講義を行う。 |- | |9月 | |「入唐請益天台法華宗還学生」となる勅許を得る。 |- |803年(延暦22年) | |37 |遣唐使船に乗るが、難破して引き返す。 |- |804年(延暦23年)(唐・貞元20年) |5月12日 |38 |訳語僧(通訳)の義真とともに入唐。遣唐使船に乗船。最澄らは第二船に乗船。第一船には[[空海]]や[[橘逸勢]]らもいた。 |- | |7月6日 | |肥前国田浦を出航。船団はばらばらとなる。 |- | |9月1日 | |明州(寧波)に着岸。 |- | |9月15日 | |明州を出発か。[[天台山]]に登るため、台州に向かう。 |- | |9月26日 | |台州臨海に到着。長官陸淳に面会。たまたま天台山から[[台州・龍興寺]]に来ていた[[天台山・修禅寺|修禅寺]]座主道邃に[[天台宗]]を学び、菩薩戒を受けた。 |- | |10月7日 | |天台山に到着。[[仏隴寺]]座主行満に面会。 |- | |10月13日 | |[[天台山・禅林寺|禅林寺]]〓然から[[牛頭禅]]を学ぶ。[[禅宗]]相承。 |- | |10月14日 | |行満から法華疏、涅槃疏、釈籤、止観並記など82巻を授かる。 |- | |10月20日 | |行満から天台の法門大意を授かる。 |- | |10月25日 | |行満と共に仏隴道場に赴き見聞を広める。天台宗の旨趣を受け、五時八教を悟る |- | |10月26日 | |行満から湛然の七条袈裟、短帙法華経、仏隴道場記を授けられた。湛然袈裟は現存。 |- | |10月 | |[[国清寺]]惟象から大仏頂大契曼荼羅法を伝授された。密教相承。 |- | |11月5日 | |台州臨海の龍興寺に戻る。引き継ぎ道邃のもとで学ぶ。 |- | |11月13日 | |陸淳の協力を得て天台経典の写経を始める。 |- | |12月7日 | |義真、国清寺で具足戒を受ける(最澄は受けなかったという)。 |- |805年(延暦24年)(唐・貞元21年、永貞元年) |1月23日 |39 |(皇帝徳宗、崩御。28日、皇帝順宗が即位) |- | |2月1日 | |『天台法華宗牛頭法門要纂』 |- | |2月15日 | |道邃、付法文を与え、一心三観法を伝え終わる。 |- | |2月15日 | |『唐決集』 |- | |2月19日 | |102部240巻の写経を終える。 |- | |2月20日 | |陸淳、印記を渡す |- | |3月2日 | |最澄と義真は龍興寺で道邃から円頓大戒を受けた。(のちの大乗戒壇設立の根拠となる) |- | |3月3日 | |『一心金剛戒体秘訣』 |- | |3月21日 | |道邃、伝菩薩戒和上として付文を与える |- | |3月25日 | |明州に戻る。 |- | |4月6日 | |明州を出発し越州に向かう。 |- | |4月11日 | |義真と共に[[越州・龍興寺]]で順暁([[善無畏]]の三世法孫)に会う。18日、峰山頂道場で三部三摩耶を受、五部灌頂を受けた。翌日、付法文を授与される。『越州録』に記録がある。越州には一月ほど滞在する。 |- | |5月5日 | |明州に帰り、寿州草堂寺大素(太素)から五仏頂法を、江秘から普集壇法・如意輪壇法を、[[明州開元寺]]霊光から軍荼利菩薩壇法を伝授された。合わせて雑曼荼羅相承と呼ばれる。 |- | |5月13日 | |『越州録』を記す |- | |5月18日 | |出港。遣唐使船に乗船。19日とも。 |- | |6月5日 | |帰国。対馬阿礼(対馬市厳原町阿連)到着(日本後紀)。藤原葛野麻呂と共に。在唐わずか8ヵ月にすぎない。 |- | | | |伝説では帰国時に[[花鶴浜]]に上陸。[[独鈷寺]]を創建したという。この時助けた源四郎に「法理の火」を授け[[千年家]]に伝わった。 |- | |7月4日 | |帰朝復命 |- | |7月15日 | |請来した経典仏具を報告 |- | |7月 | |『台州越州将来録』。 |- | |8月9日 | |最澄、殿上で悔過読経。唐の仏像を献上(後紀)。 |- | |9月1日 | |[[高雄山寺]]に日本最初の灌頂道場を設けて灌頂伝授(扶桑略記)。石川禅師(光意?)、〓生禅師(円澄?)、道證ら8人。 |- | |9月7日 | |再び灌頂を開く。16日満行。前回の8人のほか、豊安、霊福、泰命らが参加 |- | |9月16日 | |延暦寺十六院の建立の勅許? |- | |9月17日 | |殿上にて毘盧舎那法。 |- |806年(大同1年) |1月26日 |40 |天台宗に年分度者二人(止観業・遮那業各一人)が允許。天台宗の公認。 |- | |3月17日 | |(桓武天皇崩御。5月18日、平城天皇即位) |- | |12月23日 | |最澄、比叡山寺で円澄ら約100人に菩薩戒を授ける。11月とも。 |- | | | |安慧が広智に連れられて比叡山に登り、最澄に師事。 |- |807年(大同2年) |2月 |41 |法華長講 |- |808年(大同3年) | |42 |円仁、比叡山寺に入り、最澄に師事。 |- |809年(大同4年) |4月1日 |43 |([[平城天皇]]譲位。[[嵯峨天皇]]即位) |- | |8月24日 | |最澄、[[空海]]から密教経典を借用 |- |810年(弘仁1年) |1月14日 |44 |初の天台宗の年分度者8人。その一人として光定が得度。 |- | |春 | |金光明経・仁王経・法華経の長講を始修。 |- | |5月14日 | |一乗止観院で[[下野・大慈寺]]の広智に三部三摩耶を授ける |- | | | |伝燈法師位を授与 |- |811年(弘仁2年) | |45 | |- |812年(弘仁3年) |7月上旬 |46 |[[東塔法華三昧堂]]を造立 |- | |5月 | |泰範を延暦寺総別当兼文書司に任命 |- | |9月 | |[[興福寺]]維摩会に出席 |- | |10月27日 | |[[乙訓寺]]にいた[[空海]]を訪ねて密教の伝授を願う。最澄とは最初は密接な交流があった。そもそも日本に本格的に密教を伝えたのは先に帰国した最澄であり、エリート学僧として認められていた彼が、空海を朝廷に推薦したと言われている。 |- | |11月15日 | |高雄山寺で最初の金剛界結縁灌頂を実施し、最澄や和気真綱・和気仲世・美濃種人が受けた。 |- | |12月10日 | |最澄、194人に胎蔵界結縁灌頂。泰範参加。 |- |813年(弘仁4年) |1月18日 |47 |1月から3月にかけて、最澄は自分の弟子の、泰範(778-?)、円澄、光定を空海に付して密教を学ばせる。 |- | |3月6日 | |高雄山寺で金剛界灌頂を行い、泰範、円澄、光定が入壇。 |- | |11月23日 | |最澄が『理趣釈経』の借用を依頼するが空海は拒絶。 |- | | | |『依憑天台義集』成立。南都の反発をかう |- |814年(弘仁5年) |1月14日 |48 |嵯峨天皇が最澄を召し、諸宗の僧侶と論義。[[御斎会]]の最終日。 |- | |春 | |九州下向。[[竈門山寺]]で入唐渡海の無事を謝す。[[大宰府]]の[[観世音寺]]近くに[[安西宝塔]]を建立か。 |- | |3月 | |[[宇佐神宮寺]]と[[香春神宮寺]]で『法華経』を講ず。[[香春神社]]に[[安南宝塔]]を建立か。 |- |815年(弘仁6年) |8月 |49 |和気氏の招きにより[[大安寺]]塔中院で天台を講ず。 |- |816年(弘仁7年) |5月 |50 |空海のもとで学んでいた弟子泰範が空海に帰依。最澄と空海がさらに疎遠になる。 |- |817年(弘仁8年) |2月 |51 |『照権実鏡』を著す。 |- | |春 | |関東巡教。上野国緑野郡の[[緑野寺]]に[[安東宝塔]]を、下野国芳賀郡の[[下野・大慈寺]]に[[安北宝塔]]を建立。815年(弘仁6年)とも。 |- | | | |美濃・信濃の国境の神坂峠に布施屋として[[広済院]]と[[広拯院]]を設けた。 |- | | | |「三一権実諍論」始まる(821年(弘仁12年)まで続く) |- | | | |円澄に天台宗の奥旨を授ける。 |- |818年(弘仁9年) |3月 |52 |小乗二百五十戒の棄捨を宣言。大乗戒壇の設立を宣言。南都僧侶との対立が決定的となる。 |- | |5月 | |大乗戒を授ける。 |- | | | |12年間の山修山学を課する「六条式」(天台法華宗年分学生式)を定めた。 |- | | | |『六所宝塔願文』 |- | |8月 | |「八条式」(勧奨天台宗年分学生式) |- | | | |『守護国界章』を記す。九院十六院の構想を表す。 |- |819年(弘仁10年) |3月15日 |53 |大乗戒の独立を訴えた(叡山大師伝)。「四条式」(天台法華宗年分度者回小向大式)を記す。 |- | |5月 | |南都が反論 |- |820年(弘仁11年) |2月 |54 |反論に答える顕戒論。『内証仏法相承血脈譜』を記す。 |- | |9月 | |[[延暦寺相輪塔]]を建立(安中宝塔か)。 |- |821年(弘仁12年) | |55 |『法華秀句』著す。徳一への論争書。 |- | | | |比叡山に[[安総宝塔]]を建立。 |- |822年(弘仁13年) |2月14日 | |嵯峨天皇、伝燈大法師位に補任。 |- | |4月 | |病に伏せる |- | |4月19日 | |[[円仁]]に一心三観の妙義を付す |- | |5月15日 | |宗派のことを義真に託す |- | |6月4日 |56 |[[延暦寺中道院]]で死去。6月11日、大乗戒壇設立の勅許。 |} == 一覧 == ===入唐前=== *[[生源寺]] *[[近江国分寺]] *[[東大寺]] *[[比叡山]] *[[日吉大社]] *[[神護寺]] *[[大宰府]] *[[宝満山]] ===入唐=== *[[天台山]] **[[国清寺]]: **[[仏隴寺]]:行満に学ぶ **[[天台山・禅林寺]]:翛然に禅を学ぶ *[[越州・龍興寺]]: *[[台州・龍興寺]]:道邃の講義を聴く。 ===帰国後=== *[[延暦寺]] *[[乙訓寺]] *[[六所宝塔]] [[category:人物旧跡]]
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