ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
本念寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
本念寺
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
[[file:7BEFDBBB-5BA6-4D65-A281-8925DA4CFC98.jpeg|thumb|400px|本堂]] '''本念寺'''は石川県羽咋市川原町にある[[浄土真宗]]寺院。[[本願寺の院家寺院|院家]]。[[真宗大谷派]]。隣接する[[羽咋神社]]の神宮寺が起源という。山号は北方山。 1207年(承元1年)、羽咋神社別当職の正栄が[[親鸞]]に帰依し、'''白鳳寺'''を改称して本念寺としたという。天文年間には[[石山本願寺]]に出仕。戦国時代末には[[加賀・弘願寺]]から住職を迎えて加賀の門徒とも団結して地位を向上させた。 石山合戦では[[織田信長]]との講和に反対する[[教如]]を支持。[[東本願寺]]に属した。 東西分派で大和の名刹の[[飯貝本善寺]]を退去した顕珍が本念寺に入り、子の宣証は院家として入寺した。本念寺は本善寺代として取り立てられ[[一家衆]]に列した(ただし東本願寺末では本善寺の名は[[加賀・本善寺]]に引き継がれた)。羽咋郡東方の触頭となった。 1648年(慶安1年)隠居所として酒見村に柳線院(柳泉寺)を創建した。 廃絶した[[能登・青龍寺]]の梵鐘(1566年(永禄9年))を所蔵。 また神仏分離・廃仏毀釈で降ろされた[[立山]][[芦峅寺]]講堂の旧本尊とされる阿弥陀如来像が伝わる。 (日本歴史地名大系ほか) ==組織== ===歴代住職=== [[file:BC64AF1A-DAA9-404B-8A28-66B38EEEE40E.jpeg|thumb|300px|楼門]] [[file:063319DF-23A2-45D8-BDAA-8BBE5D9F7417.jpeg|thumb|300px|立山権現社(芦峅寺の阿弥陀如来を祀るか)]] (顕珍から彰憧まで真宗年表より) *正栄()<1207->:[[羽咋神社]]別当。1207年(承元1年)[[親鸞]]に帰依したという。 *了祐()<>:文明年間、[[蓮如]]から親鸞絵像の追記裏書を得た。 *堅勝()<>:[[加賀・弘願寺]]7世明勝の次男。 *1顕珍(?-1610)<>:佐継。[[教行寺]]3世証誓の長男。[[飯貝本善寺]]3世証珍の猶子となり本善寺の後継者となった。東西分裂で養父証珍が[[西本願寺]]に従ったが、顕珍は[[東本願寺]][[教如]]に仕えたため退去。能登本念寺住職に迎えられた。1610年(慶長15年)2月10日死去。子に[[船場御坊]]5世教珍、本念寺2世宣証。 *2宣証(?-1663)<>:従佐。顕珍の子。1663年(寛文3年)9月29日死去。 *3宣誓(?-1693)<>:従辰。1648年(慶安1年)隠居所として酒見村に柳線院(柳泉寺)を創建した。1693年(元禄6年)1月25日死去。 *4常誓(?-1720)<>:晴辰。1720年(享保5年)9月5日死去。 *5一誓(?-1746)<>:海辰。1746年(延享3年)8月31日死去。 *6真誓(?-1751)<>:性辰。1751年(宝暦1年)3月14日死去。 *7真証(?-1747)<>:性佐。1747年(延享4年)9月24日死去。 *8真淳(?-1784)<>:性慧。1784年(天明4年)2月23日死去。 *9乗淳(?-1803)<>:遍佐。1803年(享和3年)10月11日死去。 *10乗澄(?-1837)<>:朗界。1837年(天保8年)7月36日死去。 *11遅同(?-1871)<>:朗通。1871年(明治4年)5月2日死去。 *12達義(?-1851)<>:勝智。1851年(嘉永4年)6月18日死去。 *13厳同(?-1862)<>:1862年(文久2年)8月10日死去。 *14厳誓(?-1905)<>:勝辰。1905年(明治38年)7月27日死去。 *15厳誓(?-1940)<>:瑩辰。1940年(昭和15年)9月28日死去。 *16彰憧(?-1969)<>:演辰。1969年(昭和44年)1月21日死去。 [[category:石川県]]
本念寺
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ