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本福寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年4月29日 (木)

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'''本福寺'''(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田にある[[浄土真宗]]寺院。[[蓮如旧跡]]。[[本願寺遷座旧跡]]。[[浄土真宗本願寺派]]。'''堅田本福寺'''。山号は夕陽山。(参考:同名寺院[[本福寺_(同名)]])
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[[ファイル:堅田本福寺_(6).JPG|thumb|450px|本堂]]
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'''本福寺'''(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田にある[[浄土真宗]]寺院。[[蓮如旧跡]]。[[本願寺遷座旧跡]]。[[本願寺の院家寺院|院家]]。[[浄土真宗本願寺派]]。'''堅田本福寺'''。山号は夕陽山。(参考:同名寺院[[本福寺_(同名)]])
== 歴史 ==
== 歴史 ==
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[[ファイル:堅田本福寺_(1).JPG|thumb|350px|「本願寺旧址 本福寺」碑と山門]]
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[[ファイル:堅田本福寺_(2).JPG|thumb|300px|蓮如上人碑]]
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[[ファイル:堅田本福寺_(3).JPG|thumb|300px|真宗寺院には珍しい「徳仁親王御参拝記念碑」]]
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[[ファイル:堅田本福寺_(4).JPG|thumb|200px|「蓮如上人御愛樹」]]
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[[ファイル:堅田本福寺_(5).JPG|thumb|300px|不詳の石碑]]
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正和年間(1312-1317)に、[[御上神社]]の元神職で堅田で紺屋を営んでいた善道が[[本願寺]]3世[[覚如]]に帰依して創建。
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3世住職の法住は[[蓮如]]に重用され、湖西の本願寺教団の拠点として発展。
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1465年(寛正6年)、本願寺が延暦寺衆徒に焼き討ちされた後、
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1467年(応仁1年)2月、高野[[安養寺]]から蓮如と[[本願寺御影]]を本福寺に迎え、翌年3月12日まで滞在した。
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また本願寺焼き討ちの時、法住は1460年(寛正1年)に蓮如から下付された十字名号を持って[[比叡山]]に登り、真宗の教義を説いたので、これを「登山名号」と呼ぶ。
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1468年(応仁2年)、[[延暦寺]]による堅田大責で焼失。堅田衆も沖島に避難した。町衆が戻ったのは1470年(文明2年)に延暦寺に礼金を収めた時だった。
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1477年(文明9年)には近くに[[慈敬寺]]を建て本山直轄の御坊として本願寺に寄進した。
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1491年(延徳3年)12月7日焼失。
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慈敬寺に入り教団支配の再編成を進める蓮如の子の蓮淳が、
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本福寺の影響力を排除しようと5世明宗を3度にわたり勘気。
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以後、本福寺の存在感は弱まったが、一向一揆や石山合戦でも本願寺を支えた。
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江戸時代には[[西本願寺]]につき1611年(慶長16年)3月24日、定衆となり、1634年(寛永11年)11月7日、一家衆(内陣)に列した。
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11世明式が松尾芭蕉に師事して千那と号し俳人として活躍した。
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1954年(昭和29年)12月8日、本堂と蓮如廟を焼失。1972年(昭和47年)4月に再建。
== 組織 ==
== 組織 ==
===歴代住職===
===歴代住職===
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*1善道()<>:三上氏。[[御上神社]]の神職だったが、別の神職を殺害して逃亡。流浪の後、堅田に来て紺屋を営んでいたところ、覚如に帰依する。
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*『本福寺史』などに基づく。
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*2覚念(1278-?)<>:禅宗に帰依。1361年生まれとも。
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*『本福寺次第草案』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950328/295]
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*3法住(1397-1479)<>:1413年、仏光寺に参詣。1416年、本願寺に帰参したがこの時仲介役となった本弘寺の末寺要求を拒否したため、門主拝謁がしばらく叶わなくなる。門主が蓮如になると一転、信頼を得て近江の重鎮として重用された。本願寺御影が最初に遷されたのはこの時代である。1477年には[[慈敬寺]]を創建し、堅田御坊として本願寺に寄進した。
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*4明顕(1445-1509)<>:
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*5明宗(1469-1540)<>:明顕の養子。河野宣高の子。湖西門徒支配の再編成を進めたい蓮淳と対立し、3度にわたり勘気を蒙る。以後、近江の指導的地位を弱める。
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*7明順(1522-1581)<>:石山合戦で活躍。
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!style="width:50%;"|略歴
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*12明因(1675-1747)<>:明式の養子。芭蕉の門人。角上と号す。
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*14明随(1727-1793)<>:号は未角。真覚院。
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|善道
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*15明曜(1754-1807)<>:平田明照寺亮淳の子。号は千羅。
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|生没年不詳
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|三上氏。[[御上神社]]の神職だったが、別の神職を殺害して逃亡。流浪の後、堅田に来て紺屋を営んでいたところ、[[覚如]]に帰依する。
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|覚念
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|1361-?
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|1361年(正平16年/康安1年)生。[[禅宗]]に帰依。没年不詳。
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|明顕の養子。河野宣高の子。1469年(文明1年)生。湖西門徒支配の再編成を進めたい蓮淳と対立し、3度にわたり勘気を蒙る。以後、近江の指導的地位を弱める。1540年(天文9年)6月6日死去。72歳。「本福寺明宗跡書」を記す。
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|1491年(延徳3年)生。1560年(永禄3年)死去。「本福寺門徒記」を記す。
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|1522年(大永2年)生。石山合戦で活躍。1582年(天正10年)死去。48歳。
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|1558-1621
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|1558年(永禄1年)生。1611年(慶長16年)、[[西本願寺]]の定衆となる。[[後陽成院]]宣旨で法印。1621年(元和7年)死去。
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|1600年(慶長5年)生。1634年(寛永11年)、一家衆(内陣)となる。法眼。1653年(承応2年)10月5日死去。
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|明賢
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|1631-1692
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|1653-1692
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|1631年(寛永8年)生。勝賢寺から中継ぎとして入る。1692年(元禄5年)2月7日死去。権律師。
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|感応院
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|1651-1723
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|1692-1712
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|中興。明芸の子。1651年(慶安4年)生。[[院家]]となる。芭蕉の門人となる。1712年(正徳2年)隠退。1723年(享保8年)4月17日死去。千那と号す。感応院。著書に『白馬蹄』『白馬紀行』。
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|明因
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|潦遊院
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|角上
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|1675-1747
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|1712-1744
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|明式の養子。1675年(延宝3年)生。芭蕉の門人。1712年(正徳2年)本福寺住職。1744年(延享1年)隠退。本山から潦遊院号を賜る。1747年(延享4年)死去。権大僧都。角上と号す。著書に『白馬紀行口耳』。
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|明観
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|道隆院
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|角三
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|?-1754
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|1744-1754
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|生年不詳。1744年(延享1年)本福寺住職。1754年(宝暦4年)7月29日死去。号は角三。角々とも。道隆院。
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|明随
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|真覚院
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|未角
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|1727-1793
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|1754-1793
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|大津永順寺教明の三男。1727年(享保12年)生。1793年(寛政5年)3月29日死去。67歳。号は未角。真覚院。
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|照我院
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|1754-1807
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|平田明照寺亮淳の子。1754年(宝暦4年)生。1807年(文化4年)7月4日死去。54歳。号は千羅。照我院。
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|1794-1856
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|明曜の長男。1794年(寛政6年)生。1856年(安政3年)7月5日死去。63歳。号は千臥。真興院。
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|1823年(文政6年)生。1871年(明治4年)2月再任。1872年(明治5年)2月28日死去。50歳。回願院。
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|1848年(嘉永1年)生。1911年(明治44年)12月26日死去。64歳。至成院。名声?
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|?-1946
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|名声の長男。1878年(明治11年)生。1969年(昭和44年)1月21日死去。90歳。
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|三上明祥
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『本福寺次第草案』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950328/295]
 
==資料==
==資料==
===史料===
===史料===
28行: 223行:
*『本福寺由来記』
*『本福寺由来記』
*『本福寺門徒記』
*『本福寺門徒記』
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*『本福寺次第草案』[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950328/295]
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===文献===
===文献===
*千葉乗隆編『本福寺史』
*千葉乗隆編『本福寺史』

2021年4月29日 (木) 時点における最新版

本堂

本福寺(ほんぷくじ)は、滋賀県大津市本堅田にある浄土真宗寺院。蓮如旧跡本願寺遷座旧跡院家浄土真宗本願寺派堅田本福寺。山号は夕陽山。(参考:同名寺院本福寺_(同名)

目次

歴史

「本願寺旧址 本福寺」碑と山門
蓮如上人碑
真宗寺院には珍しい「徳仁親王御参拝記念碑」
「蓮如上人御愛樹」
不詳の石碑

正和年間(1312-1317)に、御上神社の元神職で堅田で紺屋を営んでいた善道が本願寺3世覚如に帰依して創建。 3世住職の法住は蓮如に重用され、湖西の本願寺教団の拠点として発展。 1465年(寛正6年)、本願寺が延暦寺衆徒に焼き討ちされた後、 1467年(応仁1年)2月、高野安養寺から蓮如と本願寺御影を本福寺に迎え、翌年3月12日まで滞在した。 また本願寺焼き討ちの時、法住は1460年(寛正1年)に蓮如から下付された十字名号を持って比叡山に登り、真宗の教義を説いたので、これを「登山名号」と呼ぶ。 1468年(応仁2年)、延暦寺による堅田大責で焼失。堅田衆も沖島に避難した。町衆が戻ったのは1470年(文明2年)に延暦寺に礼金を収めた時だった。

1477年(文明9年)には近くに慈敬寺を建て本山直轄の御坊として本願寺に寄進した。 1491年(延徳3年)12月7日焼失。 慈敬寺に入り教団支配の再編成を進める蓮如の子の蓮淳が、 本福寺の影響力を排除しようと5世明宗を3度にわたり勘気。 以後、本福寺の存在感は弱まったが、一向一揆や石山合戦でも本願寺を支えた。

江戸時代には西本願寺につき1611年(慶長16年)3月24日、定衆となり、1634年(寛永11年)11月7日、一家衆(内陣)に列した。

11世明式が松尾芭蕉に師事して千那と号し俳人として活躍した。 1954年(昭和29年)12月8日、本堂と蓮如廟を焼失。1972年(昭和47年)4月に再建。

組織

歴代住職

  • 『本福寺史』などに基づく。
  • 『本福寺次第草案』[1]
世数 院号 俳号 生没年 在職年 略歴
1 善道 生没年不詳 三上氏。御上神社の神職だったが、別の神職を殺害して逃亡。流浪の後、堅田に来て紺屋を営んでいたところ、覚如に帰依する。
2 覚念 1361-? 1361年(正平16年/康安1年)生。禅宗に帰依。没年不詳。
3 法住 1397-1479 1397年(応永4年)生。1413年(応永20年)、仏光寺に参詣。1416年(応永23年)、本願寺に帰参したがこの時仲介役となった本弘寺の末寺要求を拒否したため、門主拝謁がしばらく叶わなくなる。門主が蓮如になると一転、信頼を得て近江の重鎮として重用された。本願寺御影が最初に遷されたのはこの時代である。1477年(文明9年)には慈敬寺を創建し、堅田御坊として本願寺に寄進した。1479年(文明11年)12月16日死去。83歳。
4 明顕 1445-1509 1445年(文安2年)生。1509年(永正6年)10月8日死去。65歳。
5 明宗 1469-1540 明顕の養子。河野宣高の子。1469年(文明1年)生。湖西門徒支配の再編成を進めたい蓮淳と対立し、3度にわたり勘気を蒙る。以後、近江の指導的地位を弱める。1540年(天文9年)6月6日死去。72歳。「本福寺明宗跡書」を記す。
6 明誓 1491-1560 1491年(延徳3年)生。1560年(永禄3年)死去。「本福寺門徒記」を記す。
7 明順 1522-1582 1522年(大永2年)生。石山合戦で活躍。1582年(天正10年)死去。48歳。
8 明乗 1558-1621 1558年(永禄1年)生。1611年(慶長16年)、西本願寺の定衆となる。後陽成院宣旨で法印。1621年(元和7年)死去。
9 明芸 1600-1653 1621-1653 1600年(慶長5年)生。1634年(寛永11年)、一家衆(内陣)となる。法眼。1653年(承応2年)10月5日死去。
10 明賢 1631-1692 1653-1692 1631年(寛永8年)生。勝賢寺から中継ぎとして入る。1692年(元禄5年)2月7日死去。権律師。
11 明式 感応院 千那 1651-1723 1692-1712 中興。明芸の子。1651年(慶安4年)生。院家となる。芭蕉の門人となる。1712年(正徳2年)隠退。1723年(享保8年)4月17日死去。千那と号す。感応院。著書に『白馬蹄』『白馬紀行』。
12 明因 潦遊院 角上 1675-1747 1712-1744 明式の養子。1675年(延宝3年)生。芭蕉の門人。1712年(正徳2年)本福寺住職。1744年(延享1年)隠退。本山から潦遊院号を賜る。1747年(延享4年)死去。権大僧都。角上と号す。著書に『白馬紀行口耳』。
13 明観 道隆院 角三 ?-1754 1744-1754 生年不詳。1744年(延享1年)本福寺住職。1754年(宝暦4年)7月29日死去。号は角三。角々とも。道隆院。
14 明随 真覚院 未角 1727-1793 1754-1793 大津永順寺教明の三男。1727年(享保12年)生。1793年(寛政5年)3月29日死去。67歳。号は未角。真覚院。
15 明曜 照我院 千羅 1754-1807 1793-1807 平田明照寺亮淳の子。1754年(宝暦4年)生。1807年(文化4年)7月4日死去。54歳。号は千羅。照我院。
16 明朗 真興院 千臥 1794-1856 1807-1856 明曜の長男。1794年(寛政6年)生。1856年(安政3年)7月5日死去。63歳。号は千臥。真興院。
17 三上明了 回願院 1823-1872 1856-?,1871-1872 1823年(文政6年)生。1871年(明治4年)2月再任。1872年(明治5年)2月28日死去。50歳。回願院。
18 三上明声 至成院 1848-1911 1848年(嘉永1年)生。1911年(明治44年)12月26日死去。64歳。至成院。名声?
19 三上明温 1878-1969 ?-1946 名声の長男。1878年(明治11年)生。1969年(昭和44年)1月21日死去。90歳。
20 三上明暢 1946-1980
21 三上明淳 1980-
22 三上明祥

資料

史料

  • 『本福寺跡書』
  • 『明宗日記』
  • 『本福寺由来記』
  • 『本福寺門徒記』
  • 『本福寺次第草案』[2]

文献

  • 千葉乗隆編『本福寺史』
  • 千葉乗隆編『本福寺旧記』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9C%AC%E7%A6%8F%E5%AF%BA」より作成

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