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東大寺龍松院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
東大寺龍松院
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[[file:東大寺・子院・龍松院001.jpg|thumb|500px|現在の龍松院(旧大喜院)]] [[file:東大寺勧進所001.jpg|thumb|500px|旧龍松院(現在の勧進所)]] '''東大寺龍松院'''(とうだいじ・りゅうしょういん)は、奈良県奈良市にある[[東大寺]]の塔頭寺院。東大寺の[[大勧進]]職を務めた。[[公慶]]が創建。かつては勧進所にあった。維新後は旧大喜院に移った。[[東大寺関連旧跡]]も参照。 畿内と近江、丹波の[[三昧聖]]を管轄した。 ==組織== ===歴代住職=== *筒井英俊1966「龍松院家の人々」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4418864/1/11]を基礎としたが、公周を加えた。 *慧弁と慧祥は歴代に数えられていないようである。 *[[五劫院]]に歴代墓地がある。 *[[重源]]にならって[[阿弥陀仏号]]を名乗った。 {|class="wikitable" |+東大寺龍松院歴代・東大寺大勧進職歴代 !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名前 !style="width:10%;"|生没年 !style="width:10%;"|在職年 !style="width:40%;"|備考 |- |1 |[[公慶]] |1648-1705 |1684-1705 |大仏殿を再建。丹後国宮津出身。鷹山頼茂の子。1648年(慶安1年)生。1660年(万治3年)東大寺大喜院の英慶のもとで得度。同年12月15日、大雨の中で露座の大仏を拝して大仏殿の再建を志した。1684年(貞享1年)5月8日、幕府に大仏殿再建と勧進の許可を申請。6月9日に許可を得た。1685年(貞享2年)4月15日、大和法楽寺で大仏修復を祈願。5月に勧進帳を作って結縁を始めた。11月29日大仏前で法事。敬阿弥陀仏と号す。1688年(元禄1年)4月、造始の法要を営む。8月5日、東山天皇から上人号を賜る。1692年(元禄5年)3月、大仏の修復を果たす。将軍徳川綱吉、桂昌院、護持院隆光の支援を得た。12月、江戸に勧進所を設置。1705年(宝永2年)閏4月10日、大仏殿上棟式。上棟式の御礼のため江戸に赴き登城するが同年7月12日、江戸で死去。58歳。大仏殿は1708年(宝永5年)に落慶した。墓所は五劫院墓地。公慶堂に祀られている。 |- |2 |公盛 |1689-1724 |1705-1724 |1705年(宝永2年)9月、大勧進職。1724年(享保9年)5月29日死去。36歳。善阿弥陀仏と号す。 |- |3 |公俊 |1708-1728 |1724-1728 |1724年(享保9年)8月、大勧進職。1728年(享保13年)5月20日死去。21歳。信阿弥陀仏と号す。 |- |4 |庸訓 |1709-1741 |1728-1741 |1728年(享保13年)11月、大勧進職。1741年(寛保1年)7月22日死去。33歳。来阿弥陀仏と号す。鶯塚古墳の石碑に名がある。 |- |5 |公祥 |1718-1783 | |1783年(天明3年)1月22日死去。66歳。法印大僧都。崇阿弥陀仏と号す。 |- |6 |崇憲 |1751-1788 | |1788年(天明8年)2月22日死去。38歳。誓阿弥陀仏と号す。著書『東大寺大仏殿縁起』[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0993/index.html]。 |- | |慧弁 |1772-1792 | |1792年(寛政4年)12月21日死去。21歳。慧弁得業。 |- |7 |恵存 |1730-1801 | |1801年(享和1年)12月4日死去。72歳。法印権大僧都。成阿弥陀仏と号す。慧存。 |- |8 |公般 |1779-1848 | |1848年(嘉永1年)6月22日死去。70歳。佚阿弥陀仏と号す。法印権大僧都。 |- |9 |公周 |生没年不詳 |?-1844 |1844年(弘化1年)隠居。公周擬講。 |- |10 |公昶 |1785-1856 | |1856年(安政3年)5月28日死去。72歳。乗阿弥陀仏と号す。法印権大僧都 |- | |慧祥 |1840-1867 | |1867年(慶応3年)3月12日死去。28歳。慧祥擬講。 |- |11 |公延 |生没年不詳 |?-1870 |清水谷公延。最後の大勧進。1870年(明治3年)大勧進職の廃止が奈良県から達せられた。還俗したという。喜阿弥陀仏と号す。 |} ==資料== ===古典籍・史料=== *『公慶上人行状』:隆光著。1706年(宝永3年) *『公慶上人年譜』:公盛著。 *『公慶上人年譜』:大庭探柳著。1705年(宝永2年) *『龍松院上人公慶大仏殿再興発願興隆略記』 *『龍松院公益・公俊・庸訓代々諸興隆略記』 *『東大寺院院師資記』 ===文献=== *東大寺1954『公慶上人年譜聚英』[https://dl.ndl.go.jp/pid/12224649/1/40] *筒井英俊1966「龍松院家の人々」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4418864/1/11] *筒井寛秀1976「竜松院師資相承に就いて」『南都仏教』36:墓碑銘があるようだ。 *杣田善雄1980「元禄の東大寺大仏再興と綱吉政権」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4417328/1/50](館内限定) *永村真1980「鎌倉期東大寺勧進所の成立と諸活動」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4417328/1/28](館内限定) *林亮勝1980「元禄の大仏殿再興について--将軍家のかかわりを中心として」[https://dl.ndl.go.jp/pid/4417328/1/40](館内限定) *山本博子1985「江戸期における東大寺再建について」[https://doi.org/10.4259/ibk.34.114] *山本博子1986「江戸時代における知恩院と東大寺--特に東大寺塔頭竜松院をめぐって」[https://dl.ndl.go.jp/pid/7948492/1/42] *嗣永芳照1988「古文書入門講座・明治天皇御寄附金の請取状・東大寺大勧進職が差出した寄附金の請取状を解読する」『歴史研究』329 ===三昧聖関連=== *堀一郎1953「東大寺系三昧聖関係文書に見られる組織と勧進聖との関係」『我が国民間信仰史の研究2宗教史編』[https://dl.ndl.go.jp/pid/2997430/1/323] *伊藤唯真1979「新出の『三昧聖由緒書』『大和国三昧明細帳』について」[https://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_OS000600001599] *細川涼一1996「中近世和泉国の三昧聖と寺院」『国立歴史民俗博物館研究報告』68 *吉井敏幸1996「三昧聖と墓制の変遷」『国立歴史民俗博物館研究報告』68 *吉井敏幸1998「中世~近世の三昧聖の組織と村落--大和国の場合」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1860315/1/3] *吉井克信1998「近世畿内三昧聖の宗教的側面と信仰」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1860314/1/8] *細川涼一編2001『三昧聖の研究』 [[category:奈良県]]
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