ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
東大寺龍松院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年2月10日 (土)
東大寺龍松院(とうだいじ・りゅうしょういん)は、奈良県奈良市にある東大寺の塔頭寺院。東大寺の大勧進職を務めた。公慶が創建。かつては勧進所にあった。維新後は旧大喜院に移った。東大寺関連旧跡も参照。
畿内と近江、丹波の三昧聖を管轄した。
目次 |
組織
歴代住職
世数 | 名前 | 生没年 | 在職年 | 備考 |
---|---|---|---|---|
1 | 公慶 | 1648-1705 | 1684-1705 | 大仏殿を再建。丹後国宮津出身。鷹山頼茂の子。1648年(慶安1年)生。1660年(万治3年)東大寺大喜院の英慶のもとで得度。同年12月15日、大雨の中で露座の大仏を拝して大仏殿の再建を志した。1684年(貞享1年)5月8日、幕府に大仏殿再建と勧進の許可を申請。6月9日に許可を得た。1685年(貞享2年)4月15日、大和法楽寺で大仏修復を祈願。5月に勧進帳を作って結縁を始めた。11月29日大仏前で法事。敬阿弥陀仏と号す。1688年(元禄1年)4月、造始の法要を営む。8月5日、東山天皇から上人号を賜る。1692年(元禄5年)3月、大仏の修復を果たす。将軍徳川綱吉、桂昌院、護持院隆光の支援を得た。12月、江戸に勧進所を設置。1705年(宝永2年)閏4月10日、大仏殿上棟式。上棟式の御礼のため江戸に赴き登城するが同年7月12日、江戸で死去。58歳。大仏殿は1708年(宝永5年)に落慶した。墓所は五劫院墓地。公慶堂に祀られている。 |
2 | 公盛 | 1689-1724 | 1705-1724 | 1705年(宝永2年)9月、大勧進職。1724年(享保9年)5月29日死去。36歳。善阿弥陀仏と号す。 |
3 | 公俊 | 1708-1728 | 1724-1728 | 1724年(享保9年)8月、大勧進職。1728年(享保13年)5月20日死去。21歳。信阿弥陀仏と号す。 |
4 | 庸訓 | 1709-1741 | 1728-1741 | 1728年(享保13年)11月、大勧進職。1741年(寛保1年)7月22日死去。33歳。来阿弥陀仏と号す。鶯塚古墳の石碑に名がある。 |
5 | 公祥 | 1718-1783 | 1783年(天明3年)1月22日死去。66歳。法印大僧都。崇阿弥陀仏と号す。 | |
6 | 崇憲 | 1751-1788 | 1788年(天明8年)2月22日死去。38歳。誓阿弥陀仏と号す。著書『東大寺大仏殿縁起』[2]。 | |
慧弁 | 1772-1792 | 1792年(寛政4年)12月21日死去。21歳。慧弁得業。 | ||
7 | 恵存 | 1730-1801 | 1801年(享和1年)12月4日死去。72歳。法印権大僧都。成阿弥陀仏と号す。慧存。 | |
8 | 公般 | 1779-1848 | 1848年(嘉永1年)6月22日死去。70歳。佚阿弥陀仏と号す。法印権大僧都。 | |
9 | 公周 | 生没年不詳 | ?-1844 | 1844年(弘化1年)隠居。公周擬講。 |
10 | 公昶 | 1785-1856 | 1856年(安政3年)5月28日死去。72歳。乗阿弥陀仏と号す。法印権大僧都 | |
慧祥 | 1840-1867 | 1867年(慶応3年)3月12日死去。28歳。慧祥擬講。 | ||
11 | 公延 | 生没年不詳 | ?-1870 | 清水谷公延。最後の大勧進。1870年(明治3年)大勧進職の廃止が奈良県から達せられた。還俗したという。喜阿弥陀仏と号す。 |
資料
古典籍・史料
- 『公慶上人行状』:隆光著。1706年(宝永3年)
- 『公慶上人年譜』:公盛著。
- 『公慶上人年譜』:大庭探柳著。1705年(宝永2年)
- 『龍松院上人公慶大仏殿再興発願興隆略記』
- 『龍松院公益・公俊・庸訓代々諸興隆略記』
- 『東大寺院院師資記』
文献
- 東大寺1954『公慶上人年譜聚英』[3]
- 筒井英俊1966「龍松院家の人々」[4]
- 筒井寛秀1976「竜松院師資相承に就いて」『南都仏教』36:墓碑銘があるようだ。
- 杣田善雄1980「元禄の東大寺大仏再興と綱吉政権」[5](館内限定)
- 永村真1980「鎌倉期東大寺勧進所の成立と諸活動」[6](館内限定)
- 林亮勝1980「元禄の大仏殿再興について--将軍家のかかわりを中心として」[7](館内限定)
- 山本博子1985「江戸期における東大寺再建について」[8]
- 山本博子1986「江戸時代における知恩院と東大寺--特に東大寺塔頭竜松院をめぐって」[9]
- 嗣永芳照1988「古文書入門講座・明治天皇御寄附金の請取状・東大寺大勧進職が差出した寄附金の請取状を解読する」『歴史研究』329