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東悲田院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
東悲田院
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'''東悲田院'''は[[平安京]]にあった[[悲田院]]。[[西悲田院]]と対になっていたという。当初は九条南の東端にあり、京極三条に移り、のち下京五条に再興されたと考えられている。[[一遍]]の旧跡でもある。 ==歴史== 当初は九条南の鴨川近くにあったとみられる。 842年(承和9年)10月14日条によると、左右京職と東西悲田院に飢饉犠牲者の遺体5500体を焼却させた(『続日本後紀』)。 843年(承和10年)3月25日、東西悲田院の病者や貧窮者に義倉物を与えた(同)。 『続日本後紀』845年(承和12年)11月14日条に「鴨河悲田」とある(同)。 1017年(寛仁1年)7月2日、鴨川が氾濫して悲田院の病者300人以上が流されたというが東悲田院のことと思われる(左経記)。 1165年(永万1年)3月11日、錦小路・高小路で発生した火災で[[京極寺]]と悲田院が焼失。この頃は三条京極にあったと推定されている。 1168年(仁安3年)2月13日にも千手堂・京極寺・悲田院が焼失した。 1213年(建保1年)10月15日の火災では、大火が姉小路北・富小路西を経て悲田院を焼き鴨川の河原に出た。 1284年(弘安7年)、[[一遍]]が三条悲田院で一夜を過ごした(一遍上人絵伝)。 1287年(弘安10年)11月2日、伊勢国鳥羽の遍智という僧が京極悲田堂で死去したという。 1317年(文保1年)10月7日、[[伏見上皇]]35日忌に際して東悲田院・上悲田院(西悲田院)などで温室を布施。 1504年(永正1年)閏3月8日、中御門宣胤が[[因幡堂]]を参詣したとき、悲田院の近くに多数の餓死者がいたところを目撃しており(宣胤卿記)、1506年(永正3年)6月11日、雷が悲田寺と下京の小家に落ちたとの記録(実隆公記)があることから、東悲田院の後身が下京五条に存在したとみられている。上杉本『洛中洛外図屏風』にも「ひんてん寺」との記載がある。 東西悲田院のどちらか不明だが、1546年(天文15年)11月、悲田院雑掌が祠堂銭の免税を訴えており、また1573年(天正1年)4月4日、織田信長の上京焼き討ちで、ケイガ院、悲田院、シンシエイの念仏堂、シバノ薬師が焼失した(フロイス日本史)。 東悲田院はその後廃絶した。 (日本歴史地名大系) [[category:京都府]]
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