ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

東悲田院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年3月2日 (火)

移動: 案内, 検索

東悲田院平安京にあった悲田院西悲田院と対になっていたという。当初は九条南の東端にあり、京極三条に移り、のち下京五条に再興されたと考えられている。一遍の旧跡でもある。

歴史

当初は九条南の鴨川近くにあったとみられる。 842年(承和9年)10月14日条によると、左右京職と東西悲田院に飢饉犠牲者の遺体5500体を焼却させた(『続日本後紀』)。 843年(承和10年)3月25日、東西悲田院の病者や貧窮者に義倉物を与えた(同)。 『続日本後紀』845年(承和12年)11月14日条に「鴨河悲田」とある(同)。 1017年(寛仁1年)7月2日、鴨川が氾濫して悲田院の病者300人以上が流されたというが東悲田院のことと思われる(左経記)。 1165年(永万1年)3月11日、錦小路・高小路で発生した火災で京極寺と悲田院が焼失。この頃は三条京極にあったと推定されている。 1168年(仁安3年)2月13日にも千手堂・京極寺・悲田院が焼失した。 1213年(建保1年)10月15日の火災では、大火が姉小路北・富小路西を経て悲田院を焼き鴨川の河原に出た。 1284年(弘安7年)、一遍が三条悲田院で一夜を過ごした(一遍上人絵伝)。 1287年(弘安10年)11月2日、伊勢国鳥羽の遍智という僧が京極悲田堂で死去したという。 1317年(文保1年)10月7日、伏見上皇35日忌に際して東悲田院・上悲田院(西悲田院)などで温室を布施。

1504年(永正1年)閏3月8日、中御門宣胤が因幡堂を参詣したとき、悲田院の近くに多数の餓死者がいたところを目撃しており(宣胤卿記)、1506年(永正3年)6月11日、雷が悲田寺と下京の小家に落ちたとの記録(実隆公記)があることから、東悲田院の後身が下京五条に存在したとみられている。上杉本『洛中洛外図屏風』にも「ひんてん寺」との記載がある。

東西悲田院のどちらか不明だが、1546年(天文15年)11月、悲田院雑掌が祠堂銭の免税を訴えており、また1573年(天正1年)4月4日、織田信長の上京焼き討ちで、ケイガ院、悲田院、シンシエイの念仏堂、シバノ薬師が焼失した(フロイス日本史)。

東悲田院はその後廃絶した。

(日本歴史地名大系)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%B1%E6%82%B2%E7%94%B0%E9%99%A2」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール