ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

東泉院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年5月17日 (日)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
 
(間の3版分が非表示)
1行: 1行:
-
'''東泉院'''は駿河国富士郡の[[富士山]]麓にあった[[富士信仰]]の[[真言宗]]寺院。下方五社([[富知六所浅間神社]]・[[富士・瀧川神社|瀧川神社]]・[[今宮浅間神社]]・[[入山瀬浅間神社]]・[[日吉浅間神社]])の別当。'''弘法寺'''とも称し、[[村山浅間神社]]別当の[[興法寺]]と元来は一体だったという説もある。山号は富士山。
+
'''東泉院'''[[富士山]]麓、駿河国富士郡(静岡県富士市今泉)にあった[[富士信仰]]の[[真言宗]]寺院。下方五社([[富知六所浅間神社]]・[[富士・瀧川神社|瀧川神社]]・[[今宮浅間神社]]・[[入山瀬浅間神社]]・[[日吉浅間神社]])の別当。'''弘法寺'''とも称し、[[村山浅間神社]]別当の[[興法寺]]と元来は一体だったという説もある。日吉浅間神社に隣接していた。吉原公園が跡地。山号は富士山。
== 歴史 ==
== 歴史 ==
-
1646年7月、醍醐寺報恩院の末寺となるか
+
今川家支配時代には興法寺を拠点とする村山修験の影響下にあった。大鏡坊頼秀との関係があった。
 +
1572年(元亀3年)には[[久能寺]]の末寺だったらしい。ただし明確に真言宗となったのは1568年(永禄11年)の武田軍の駿河侵攻以降という。
 +
1646年(正保3年)7月29日、[[醍醐寺報恩院]]の末寺となるか。
 +
将軍徳川家茂が上京する際、1863年(文久3年)と1865年(慶応1年)に宿泊。1871年(明治4年)には廃絶した。寺跡は六所家の屋敷となった。1882年(明治15年)12月、御霊屋が「改作」された。2006年(平成18年)から六所家旧蔵資料の総合調査が行われている。2015年(平成27年)、東泉院跡が公園として整備された。1857年(安政4年)再建の宝蔵のみが現存する。
 +
 
 +
==境内==
 +
*本堂
 +
*歓喜堂
 +
*東照宮
 +
*護摩堂
 +
*[[日吉浅間神社|日吉社]]
== 組織 ==
== 組織 ==
-
===歴代住職===
+
===歴代住職1===
 +
*1頼恵
 +
*2妙行
-
*1雪山頼恵()<>:村山興法寺の出身という。本山派の修験僧。今川家の使僧も務めた。
+
===歴代住職2===
 +
*1雪山頼恵()<>:中興。駿河出身。村山興法寺の出身という。[[本山派]]の修験僧。今川家の使僧も務めた。「中興大納言」。
*(長仁)()<>:雪山の子か。歴代に数えず。
*(長仁)()<>:雪山の子か。歴代に数えず。
-
*2快印()<1600->:真言宗僧。久能寺から転任。
+
*2快印(?-1624)<1600->:快印を中興とする史料もある。駿河出身。真言宗僧。[[久能寺]]から転任。1624年(寛永1年)死去。智勝坊。
-
*3快温()<>:建穂寺青華院から転任。
+
*3快温(?-1647)<>:遠江出身。[[建穂寺]]青華院から転任。1647年(正保4年)死去。俊能坊。
-
*4快盛()<>:大山寺宝集院、三島大社愛染院を経て転任。
+
*4快盛(1609-1665)<>:遠江出身。大山寺宝集院、[[三島大社]][[愛染院]]を経て転任。1665年(寛文5年)死去。57歳。松秋房。
-
*5快筭()<>
+
*5快筭(1620-1665)<>:駿河出身。1665年(延宝1年)死去。46歳。
-
*6快真()<>
+
*6快真(1649-1674)<>:駿河出身。1674年(延宝2年)死去。26歳。
-
*7快雅(?-1685)<>
+
*7快雅(?-1685)<>:駿河出身。1685年(貞享2年)死去。
-
*8覚胤()<>
+
*8覚胤(?-1691)<>:1691年(元禄4年)死去。
-
*9円成()<>:高野山正智院の宥専の弟子。
+
*9円成(?-1714)<>:[[高野山正智院]]の宥専の弟子。1714年(正徳4年)死去。
-
*10精海(1652-<1704->:円真とも。隆光の配下として代理を務めるなど、活動を支えた。多くの聖教を残す。護持院子院の大聖院、同月輪院に住す、
+
*10精海(1652-1709)<1704->:円真とも。[[隆光]]の配下として代理を務めるなど、活動を支えた。多くの聖教を残す。[[江戸・護持院|護持院]]子院の大聖院、同月輪院に住す。1709年(宝永6年)死去。
-
*11光盛()<>:仁和寺最勝院を兼務。
+
*11光盛(?-1759)<>:[[仁和寺最勝院]]を兼務。1759年(宝暦9年)死去。勧栄房。
-
*12賢盛()<>:入寺せず。
+
*12賢盛(?-1757)<1756-1757>:入寺せず。1756年(宝暦6年)12月、後継者に決まるが、翌年死去。
-
*13覚雅()<>
+
*13覚雅(?-1766)<>:1766年(明和3年)死去。
-
*14淳盛()<>
+
*14淳盛(?-1796)<1766->:賢盛の甥。1766年(明和3年)12月15日入寺。1796年(寛政8年)死去。
-
*15隆尊()<>
+
*15隆尊(?-1791)<1782->:武蔵国出身。1752年(宝暦2年)高野山に学ぶ。のち[[高野山知足院]]。1781年(天明1年)から高野山江戸番所。1782年(天明2年)東泉院住職。1791年(寛政3年)死去。
-
*16尊淳()<>
+
*16尊淳(?-1815)<>:1815年(文化12年)死去。
-
*17隆応()<>
+
*17隆応(?-1819)<>:1819年(文政2年)死去。
-
*18慈舩()<>:護摩堂などの伽藍や下方五社の社殿を整備。
+
*18慈舩(?-1864)<>:護摩堂などの伽藍や下方五社の社殿を整備。1864年(元治1年)死去。
-
*19義厳()<>:
+
*19義厳(?-1832)<>:[[浅間大社]]別当の宝幢院の住職。1832年(天保3年)死去。
-
*20義勝()<>:
+
*20義勝(?-1851)<>:[[高野山]]で学ぶ。1851年(嘉永4年)死去。
-
*21蘂雄()<>:還俗して神職となり六所良邑を名乗る。
+
*21蘂雄(?-1886)<1850-1868>:出雲国神門郡出身。[[醍醐寺報恩院]]、[[仁和寺真乗院]]、[[高野山]]で学ぶ。1850年(嘉永3年)4月に東泉院に入寺。1868年(明治1年)還俗して神職となり六所良邑を名乗る。同年8月、[[白川家]]に入門。東泉院歴代に霊神号を贈り、御霊屋に祀った。1886年(明治19年)10月23日死去。
-
([http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/rokusyoke10.pdf]
+
([http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/rokusyoke10.pdf]
 +
==資料==
 +
*『六所家総合調査だより』[http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/index.html]
 +
*『六所家総合調査報告書 埋蔵文化財1』[https://sitereports.nabunken.go.jp/44717]
 +
*『六所家総合調査報告書 埋蔵文化財2』[https://sitereports.nabunken.go.jp/44827]
[[Category:静岡県]]
[[Category:静岡県]]

2020年5月17日 (日) 時点における最新版

東泉院富士山麓、駿河国富士郡(静岡県富士市今泉)にあった富士信仰真言宗寺院。下方五社(富知六所浅間神社瀧川神社今宮浅間神社入山瀬浅間神社日吉浅間神社)の別当。弘法寺とも称し、村山浅間神社別当の興法寺と元来は一体だったという説もある。日吉浅間神社に隣接していた。吉原公園が跡地。山号は富士山。

目次

歴史

今川家支配時代には興法寺を拠点とする村山修験の影響下にあった。大鏡坊頼秀との関係があった。 1572年(元亀3年)には久能寺の末寺だったらしい。ただし明確に真言宗となったのは1568年(永禄11年)の武田軍の駿河侵攻以降という。 1646年(正保3年)7月29日、醍醐寺報恩院の末寺となるか。 将軍徳川家茂が上京する際、1863年(文久3年)と1865年(慶応1年)に宿泊。1871年(明治4年)には廃絶した。寺跡は六所家の屋敷となった。1882年(明治15年)12月、御霊屋が「改作」された。2006年(平成18年)から六所家旧蔵資料の総合調査が行われている。2015年(平成27年)、東泉院跡が公園として整備された。1857年(安政4年)再建の宝蔵のみが現存する。

境内

  • 本堂
  • 歓喜堂
  • 東照宮
  • 護摩堂
  • 日吉社

組織

歴代住職1

  • 1頼恵
  • 2妙行

歴代住職2

  • 1雪山頼恵()<>:中興。駿河出身。村山興法寺の出身という。本山派の修験僧。今川家の使僧も務めた。「中興大納言」。
  • (長仁)()<>:雪山の子か。歴代に数えず。
  • 2快印(?-1624)<1600->:快印を中興とする史料もある。駿河出身。真言宗僧。久能寺から転任。1624年(寛永1年)死去。智勝坊。
  • 3快温(?-1647)<>:遠江出身。建穂寺青華院から転任。1647年(正保4年)死去。俊能坊。
  • 4快盛(1609-1665)<>:遠江出身。大山寺宝集院、三島大社愛染院を経て転任。1665年(寛文5年)死去。57歳。松秋房。
  • 5快筭(1620-1665)<>:駿河出身。1665年(延宝1年)死去。46歳。
  • 6快真(1649-1674)<>:駿河出身。1674年(延宝2年)死去。26歳。
  • 7快雅(?-1685)<>:駿河出身。1685年(貞享2年)死去。
  • 8覚胤(?-1691)<>:1691年(元禄4年)死去。
  • 9円成(?-1714)<>:高野山正智院の宥専の弟子。1714年(正徳4年)死去。
  • 10精海(1652-1709)<1704->:円真とも。隆光の配下として代理を務めるなど、活動を支えた。多くの聖教を残す。護持院子院の大聖院、同月輪院に住す。1709年(宝永6年)死去。
  • 11光盛(?-1759)<>:仁和寺最勝院を兼務。1759年(宝暦9年)死去。勧栄房。
  • 12賢盛(?-1757)<1756-1757>:入寺せず。1756年(宝暦6年)12月、後継者に決まるが、翌年死去。
  • 13覚雅(?-1766)<>:1766年(明和3年)死去。
  • 14淳盛(?-1796)<1766->:賢盛の甥。1766年(明和3年)12月15日入寺。1796年(寛政8年)死去。
  • 15隆尊(?-1791)<1782->:武蔵国出身。1752年(宝暦2年)高野山に学ぶ。のち高野山知足院。1781年(天明1年)から高野山江戸番所。1782年(天明2年)東泉院住職。1791年(寛政3年)死去。
  • 16尊淳(?-1815)<>:1815年(文化12年)死去。
  • 17隆応(?-1819)<>:1819年(文政2年)死去。
  • 18慈舩(?-1864)<>:護摩堂などの伽藍や下方五社の社殿を整備。1864年(元治1年)死去。
  • 19義厳(?-1832)<>:浅間大社別当の宝幢院の住職。1832年(天保3年)死去。
  • 20義勝(?-1851)<>:高野山で学ぶ。1851年(嘉永4年)死去。
  • 21蘂雄(?-1886)<1850-1868>:出雲国神門郡出身。醍醐寺報恩院仁和寺真乗院高野山で学ぶ。1850年(嘉永3年)4月に東泉院に入寺。1868年(明治1年)還俗して神職となり六所良邑を名乗る。同年8月、白川家に入門。東泉院歴代に霊神号を贈り、御霊屋に祀った。1886年(明治19年)10月23日死去。

[1]

資料

  • 『六所家総合調査だより』[2]
  • 『六所家総合調査報告書 埋蔵文化財1』[3]
  • 『六所家総合調査報告書 埋蔵文化財2』[4]
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%9D%B1%E6%B3%89%E9%99%A2」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール