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桃園市忠烈祠
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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+ | 桃園県の忠烈祠。入祀烈士は265員である(2010年現在。資料B)。民国35年(1946年)6月17日、植民地時代の県社[[桃園神社]]の社殿をそのまま流用して「新竹県忠烈祠」が創建された(当時の資料『新竹県忠烈祠奉安典礼紀念留影』が現存しているという(資料C)。)。民国39年(1950年)10月25日、桃園県設置にともない、「桃園県忠烈祠」となった(その後、新竹県忠烈祠は現在に到るまで創建されていない。)。各地で神社転用忠烈祠の建て替えが進むなかで、当祠だけは建て替えが行われず、神社建築が用いられてきた。 | ||
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+ | 桃園市の東北郊外の虎頭山の麓に位置する。流造の本殿、入母屋造の拝殿、神門がある。社務所も現存している。民国83年(1994年)2月15日、国家第三級古蹟に指定された。海外植民地創建神社建築で完全に近い形で現存している唯一の例である。地方政府管理の忠烈祠としては、中型のものである。春祭は3月29日の革命先烈紀念日に行われ、秋祭は9月3日の軍人節(日中戦争日本降伏日)に行われている(資料C)。 | ||
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+ | (資料A:ウェブサイト国防部後備司令部『祠祀葬〓』[http://afrc.mnd.gov.tw/martyr/](2011/05/02閲覧)、資料B:内政部資料2011年1月「忠烈祠祀概況」、資料C:蔡錦堂2008「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」) | ||
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ファイル:Toen churetsushi 01.jpg|桃園県忠烈祠 社標(新竹県から桃園県へ改刻された) | ファイル:Toen churetsushi 01.jpg|桃園県忠烈祠 社標(新竹県から桃園県へ改刻された) |
2011年6月8日 (水) 時点における版
桃園県の忠烈祠。入祀烈士は265員である(2010年現在。資料B)。民国35年(1946年)6月17日、植民地時代の県社桃園神社の社殿をそのまま流用して「新竹県忠烈祠」が創建された(当時の資料『新竹県忠烈祠奉安典礼紀念留影』が現存しているという(資料C)。)。民国39年(1950年)10月25日、桃園県設置にともない、「桃園県忠烈祠」となった(その後、新竹県忠烈祠は現在に到るまで創建されていない。)。各地で神社転用忠烈祠の建て替えが進むなかで、当祠だけは建て替えが行われず、神社建築が用いられてきた。
桃園市の東北郊外の虎頭山の麓に位置する。流造の本殿、入母屋造の拝殿、神門がある。社務所も現存している。民国83年(1994年)2月15日、国家第三級古蹟に指定された。海外植民地創建神社建築で完全に近い形で現存している唯一の例である。地方政府管理の忠烈祠としては、中型のものである。春祭は3月29日の革命先烈紀念日に行われ、秋祭は9月3日の軍人節(日中戦争日本降伏日)に行われている(資料C)。
(資料A:ウェブサイト国防部後備司令部『祠祀葬〓』[1](2011/05/02閲覧)、資料B:内政部資料2011年1月「忠烈祠祀概況」、資料C:蔡錦堂2008「褒揚及忠烈祠祀栄典制度之研究」)