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榎原神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
榎原神社
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'''榎原神社'''(よわら・じんじゃ)は宮崎県日南市南郷町榎原甲(日向国那珂郡)にある神社。祭神は[[天照大神]]・[[天忍穂耳命]]・[[彦火瓊瓊杵命]]・[[彦火火出見命]]・[[鵜〓草葺不合命]]・[[神日本磐余彦命]]。[[県社]]。[[鵜戸神宮]]の分社という。'''榎原大権現'''。創始者を祀る'''桜井大権現'''と合わせて'''両社大権現'''とも呼ばれた。榎原大権現別当として[[日向・地福寺]]と[[日向・慈尊院]]が、桜井大権現別当として[[神生寺]]があった。 ==歴史== 1640年(寛永17年)、内田万寿(寿法院)という巫女が鵜戸山大権現参詣を済ませた帰路、神託が下り、地福寺の北隣に分霊を祀って創建。鵜戸山大権現神宮寺[[仁王護国寺]]別当の実融(実祐)と地福寺住職の精能が盛んに喧伝して信仰を広めた。1641年(寛永18年)には神託で山王社神主の森山伊豆掾という人物が神職となった。飫肥藩3代藩主伊東祐久の正室が万寿に帰依。1656年(明暦2年)、藩主伊東祐久や家老伊東勘解由らが参詣。1658年(万治1年)、4代藩主伊東祐由が社殿を本格的に造営した。ところが家老矢野儀一は万寿を民衆を惑わす者として弾圧。一時、信仰は下火になるが、1670年(寛文10年)、万寿が死去すると、1674年(延宝2年)、万寿は桜井大権現として祀られ、再び信仰が盛んとなった。鵜戸山権現再誕の地として信者が集まるようになった。 神領を寄進され1681年(天和1年)28石だったが、1790年(寛政2年)には100石となった。 1809年(文化6年)150石となった 1676年(延宝4年)、万寿を祀る御影堂を建立。 1769年(明和6年)御影堂(御霊屋)再建。 1797年(寛政9年)本殿再建。 1808年(文化5年)護摩堂再建。天満宮創建。 1816年(文化13年)楼門造営。 1852年(嘉永5年)社殿大改修。 明治の神仏分離で、3寺は廃絶。桜井大権現は榎原神社の境内社となった。 1930年(昭和5年)8月、県社列格(神道史大辞典)。 (日本歴史地名大系) [[category:宮崎県]]
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