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歴史も教義も制度も無視して、用語も正しく理解しようとせず、「宗教専門新聞」を称しているのは恥ずかしい。ましてや記者の暴力や差別発言や脅迫的発言は論外。
「殺してやる」「お前の脳みそは腐っている」「お前は強姦殺人犯のようだ」。これが「葬式をしない」代わりの21世紀劈頭の「ともいき」の宣言なのか。
「読売新聞では暴力は当たり前だ」(真偽は不明)と何度言われても、本願にはほど遠い。「俺は神戸で人が燃えているのを見てきたからな」と自慢するのが「一流のジャーナリスト」か。
宗教団体・大学・メディアは「平和憲法を守れ」と主張する以前に、自ら刑法を侵さず、労働基準法を守るべきだ。「愚者の自覚」「智者のふるまいをしない」を言い訳とせず、人権同和活動を閉鎖せず、総本山警備員の集団リンチ傷害事件の隠蔽をやめるべきだ。国民の税金も使われた上で、血が流れた事件を曖昧にして落慶法要を行うつもりか。「お前を人権侵害で訴える」というなら早く訴えたらいかがか。
宗教界、言論界から暴力や差別が無くなるにはまだ無量年かかるのか。まあ無理か。

榎原神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2020年3月24日 (火) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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榎原神社(よわら・じんじゃ)は宮崎県日南市南郷町榎原甲(日向国那珂郡)にある神社。祭神は天照大神天忍穂耳命彦火瓊瓊杵命彦火火出見命鵜〓草葺不合命神日本磐余彦命県社鵜戸神宮の分社という。榎原大権現。創始者を祀る桜井大権現と合わせて両社大権現とも呼ばれた。榎原大権現別当として日向・地福寺日向・慈尊院が、桜井大権現別当として神生寺があった。

歴史

1640年(寛永17年)、内田万寿(寿法院)という巫女が鵜戸山大権現参詣を済ませた帰路、神託が下り、地福寺の北隣に分霊を祀って創建。鵜戸山大権現神宮寺仁王護国寺別当の実融(実祐)と地福寺住職の精能が盛んに喧伝して信仰を広めた。1641年(寛永18年)には神託で山王社神主の森山伊豆掾という人物が神職となった。飫肥藩3代藩主伊東祐久の正室が万寿に帰依。1656年(明暦2年)、藩主伊東祐久や家老伊東勘解由らが参詣。1658年(万治1年)、4代藩主伊東祐由が社殿を本格的に造営した。ところが家老矢野儀一は万寿を民衆を惑わす者として弾圧。一時、信仰は下火になるが、1670年(寛文10年)、万寿が死去すると、1674年(延宝2年)、万寿は桜井大権現として祀られ、再び信仰が盛んとなった。鵜戸山権現再誕の地として信者が集まるようになった。

神領を寄進され1681年(天和1年)28石だったが、1790年(寛政2年)には100石となった。 1809年(文化6年)150石となった

1676年(延宝4年)、万寿を祀る御影堂を建立。 1769年(明和6年)御影堂(御霊屋)再建。 1797年(寛政9年)本殿再建。 1808年(文化5年)護摩堂再建。天満宮創建。 1816年(文化13年)楼門造営。 1852年(嘉永5年)社殿大改修。

明治の神仏分離で、3寺は廃絶。桜井大権現は榎原神社の境内社となった。 1930年(昭和5年)8月、県社列格(神道史大辞典)。 (日本歴史地名大系)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%A6%8E%E5%8E%9F%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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