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樺太護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2020年3月1日 (日)

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'''樺太護国神社'''(からふと・ごこく・じんじゃ)は、旧樺太庁豊原支庁豊原市にあった庁内関係の戦没者を祀る[[招魂社]]。内地の[[指定護国神社]]に相当した。廃絶。[[樺太神社]]に隣接していた。
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[[ファイル:樺太護国神社_(4).jpg|thumb|樺太護国神社・社殿|350px]]
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'''樺太護国神社'''(からふと・ごこく・じんじゃ)は、旧樺太庁豊原支庁豊原市にあった庁内関係の戦没者を祀る[[招魂社]][[指定護国神社]]。廃絶。[[樺太神社]]に隣接していた。社殿は護国神社様式ではなかった。[[北海道・樺太の神社]]。
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豊原招魂社。樺太招魂社。
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==祭神==
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[[ファイル:樺太護国神社_(5).jpg|350px|thumb|樺太護国神社・正面]]
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==歴史==
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[[ファイル:豊原市地図1.jpg|thumb|300px|豊原駅の東北に豊原神社と豊原招魂社があった]]
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[[ファイル:豊原市地図2.jpg|thumb|350px|豊原市街地の東の山裾に樺太神社と樺太護国神社があった]]
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===大泊表忠碑の建立===
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日露戦争の樺太最大の激戦地だった大泊に「[[大泊表忠碑]]」建立。1907年(明治40年)10月起工し、1908年(明治41年)11月に竣工した。石造の台座の上に、鹵獲したロシア軍艦「ノーウィック」の砲身を垂直に立てた。独立第13師団の戦没者51柱(81柱とも)を祀る。各地に仮埋葬されていた遺骨や遺灰を合葬した。1925年(大正14年)には皇太子時代の[[昭和天皇]]が「会釈」したという。
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===豊原招魂社の成立===
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1908年(明治41年)7月12日、豊原町神宮遥拝所([[豊原神社]])境内にて日露戦争の招魂祭を執行。7月12日は日露戦争樺太占領記念日であり毎年この日に歴代樺太庁長官が幣帛使を務めて祭典を行った。
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1915年(大正4年)町民会と在郷軍人会の共同の大正大礼記念事業として招魂社創立を諮り、豊原町北豊原北二線の2464坪の地に7月1日に起工。10月23日竣工。24日に西久保豊一郎以下75柱の鎮座祭を行った。この時点では正式な神社ではなかったと思われる。古写真によると碑の前に吹き抜けの神明造の拝殿のみがあり、神社形式ですらなかった可能性もある。
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1917年(大正6年)7月12日、豊原神社境内に遷座した(1921年(大正10年)9月とも)。大泊表魂碑は旧地のまま。豊原招魂社となる。1921年(大正10年)11月16日、樺太庁長官より、豊原神社境内社「樺太招魂社」として創立許可(地第3147号)。初めて正式な神社となった。
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1922年(大正11年)4月、樺太における町制制定により、神饌幣帛料供進神社となる。
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1925年(大正14年)6月9日、樺太庁長官の副申で[[靖国神社]]から特に「御鎮霊の神璽」の下付を受け、7月11日に鎮座祭を行った。さらに年代不詳だが(「同年」とあるが)、
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===昭和の造営===
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1934年(昭和9年)5月9日、祭神増加許可(樺太庁学第1253号)。6月30日、靖国神社で増祀分11柱の神霊の鎮霊祭を執行。7月10日に鎮祭した。
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1935年(昭和10年)5月20日、祭神増加許可(樺太庁学第1264号)。同様に靖国神社で増祀分2柱の鎮霊祭を執行。神璽を下付され、7月11日に招魂社に鎮祭した。
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一方、1934年(昭和9年)6月、樺太庁長官らの発起による樺太招魂社奉賛会を設立。
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1935年(昭和10年)10月15日(1934年(昭和9年)10月?)、樺太庁長官今村武志を会長とする樺太招魂社奉賛会が[[樺太神社]]に隣接して、「樺太招魂社」を創建。招魂社の神霊88柱を遷座した。以後、合祀祭7月24日、例大祭7月25日とされた。
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1939年(昭和14年)4月1日、樺太護国神社と改称(1939年(昭和14年)3月28日の樺太庁令第11号による)。4月1日、樺太庁告示第64号で「樺太庁護国神社」が指定護国神社となる。3月27日には拓務省令第1号 「樺太護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞」が発布されている。
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===ソ連軍侵攻による廃絶===
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ソ連軍の侵攻のため、1945年(昭和20年)8月24日、祭神521柱の昇天の儀を執行。あるいは9月3日に御霊代の焼納を行ったともいう。祭神の数については「神社本庁所蔵樺太引揚資料」には653柱。1945年(昭和20年)8月25日、ソ連兵が殺到し社殿を破壊され、略奪をほしいままにした。
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サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)に狛犬1対が移築されている。
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==北海道護国神社との関係==
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|+ 北海道護国神社における樺太護国神社関係祭神
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[[北海道護国神社]]は1935年(昭和10年)の創建以来、北海道だけでなく樺太関係の戦没者も合祀することになっていたが、1939年(昭和14年)の樺太護国神社の成立で、北海道のみに限定。しかし、ソ連侵攻による樺太護国神社の廃絶で、1948年(昭和23年)から再び樺太関係の戦没者も合祀することになり、同年6月に521柱の合祀祭を行った。その後随時合祀祭を行い、樺太護国神社関係の祭神は1961年(昭和36年)の時点で約4300柱となったという。(1955年(昭和30年)『樺太護国神社沿革史』、『樺太の神社』)
== 組織 ==
== 組織 ==
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===社司===
===社司===
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*伴雄三郎(1873-1942)<>:豊原神社社司。1873年(明治6年)生。1942年(昭和17年)12月24日死去。
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*斎藤富士男()<>:樺太神社宮司。受持神官?
*吉野直人(1877-1944)<1939-1944>:長崎県平戸出身の神職。本務は樺太神社。(略歴は、[[石上神宮#組織]]を参照)
*吉野直人(1877-1944)<1939-1944>:長崎県平戸出身の神職。本務は樺太神社。(略歴は、[[石上神宮#組織]]を参照)
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*大島乙丸(1894-)<>:本務は樺太神社。[[熊野大社]]宮司。1894年(明治27年)生。
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==資料==
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[[ファイル:樺太護国神社_(2).jpg|thumb|樺太護国神社・社殿遠景|200px]]
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[[ファイル:樺太護国神社_(1).jpg|thumb|樺太護国神社・拝殿|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社_(7).jpg|thumb|樺太護国神社・社殿|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社_(6).jpg|thumb|樺太護国神社・正面遠景|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社_(8).jpg|thumb|樺太護国神社・拝殿|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社・『樺太忠魂史』_(2).jpg|thumb|樺太護国神社・正面図|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社・『樺太忠魂史』_(3).jpg|thumb|樺太護国神社・側面図|200px]]
 +
[[ファイル:樺太護国神社・樺太要覧昭和13年.jpg|200px|thumb|樺太護国神社]]
 +
 +
*1935『樺太忠魂史』:祭神名簿がある。[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907886]
 +
*1935『大日本神社大鑑:北海道・樺太版』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1105182/187]
 +
*1955『樺太護国神社沿革史』:『北海道護国神社史』、『樺太の神社』に所収。
 +
*2012『樺太の神社』
[[Category:ロシア連邦サハリン州]]
[[Category:ロシア連邦サハリン州]]

2020年3月1日 (日) 時点における最新版

樺太護国神社・社殿

樺太護国神社(からふと・ごこく・じんじゃ)は、旧樺太庁豊原支庁豊原市にあった庁内関係の戦没者を祀る招魂社指定護国神社。廃絶。樺太神社に隣接していた。社殿は護国神社様式ではなかった。北海道・樺太の神社。 豊原招魂社。樺太招魂社。

目次

祭神

樺太護国神社・正面


歴史

樺太・戦前地図
大泊表忠碑
樺太招魂社の社殿
豊原駅の東北に豊原神社と豊原招魂社があった
豊原市街地の東の山裾に樺太神社と樺太護国神社があった

大泊表忠碑の建立

日露戦争の樺太最大の激戦地だった大泊に「大泊表忠碑」建立。1907年(明治40年)10月起工し、1908年(明治41年)11月に竣工した。石造の台座の上に、鹵獲したロシア軍艦「ノーウィック」の砲身を垂直に立てた。独立第13師団の戦没者51柱(81柱とも)を祀る。各地に仮埋葬されていた遺骨や遺灰を合葬した。1925年(大正14年)には皇太子時代の昭和天皇が「会釈」したという。

豊原招魂社の成立

1908年(明治41年)7月12日、豊原町神宮遥拝所(豊原神社)境内にて日露戦争の招魂祭を執行。7月12日は日露戦争樺太占領記念日であり毎年この日に歴代樺太庁長官が幣帛使を務めて祭典を行った。

1915年(大正4年)町民会と在郷軍人会の共同の大正大礼記念事業として招魂社創立を諮り、豊原町北豊原北二線の2464坪の地に7月1日に起工。10月23日竣工。24日に西久保豊一郎以下75柱の鎮座祭を行った。この時点では正式な神社ではなかったと思われる。古写真によると碑の前に吹き抜けの神明造の拝殿のみがあり、神社形式ですらなかった可能性もある。 1917年(大正6年)7月12日、豊原神社境内に遷座した(1921年(大正10年)9月とも)。大泊表魂碑は旧地のまま。豊原招魂社となる。1921年(大正10年)11月16日、樺太庁長官より、豊原神社境内社「樺太招魂社」として創立許可(地第3147号)。初めて正式な神社となった。 1922年(大正11年)4月、樺太における町制制定により、神饌幣帛料供進神社となる。

1925年(大正14年)6月9日、樺太庁長官の副申で靖国神社から特に「御鎮霊の神璽」の下付を受け、7月11日に鎮座祭を行った。さらに年代不詳だが(「同年」とあるが)、

昭和の造営

1934年(昭和9年)5月9日、祭神増加許可(樺太庁学第1253号)。6月30日、靖国神社で増祀分11柱の神霊の鎮霊祭を執行。7月10日に鎮祭した。 1935年(昭和10年)5月20日、祭神増加許可(樺太庁学第1264号)。同様に靖国神社で増祀分2柱の鎮霊祭を執行。神璽を下付され、7月11日に招魂社に鎮祭した。

一方、1934年(昭和9年)6月、樺太庁長官らの発起による樺太招魂社奉賛会を設立。 1935年(昭和10年)10月15日(1934年(昭和9年)10月?)、樺太庁長官今村武志を会長とする樺太招魂社奉賛会が樺太神社に隣接して、「樺太招魂社」を創建。招魂社の神霊88柱を遷座した。以後、合祀祭7月24日、例大祭7月25日とされた。

1939年(昭和14年)4月1日、樺太護国神社と改称(1939年(昭和14年)3月28日の樺太庁令第11号による)。4月1日、樺太庁告示第64号で「樺太庁護国神社」が指定護国神社となる。3月27日には拓務省令第1号 「樺太護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞」が発布されている。


ソ連軍侵攻による廃絶

ソ連軍の侵攻のため、1945年(昭和20年)8月24日、祭神521柱の昇天の儀を執行。あるいは9月3日に御霊代の焼納を行ったともいう。祭神の数については「神社本庁所蔵樺太引揚資料」には653柱。1945年(昭和20年)8月25日、ソ連兵が殺到し社殿を破壊され、略奪をほしいままにした。

サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)に狛犬1対が移築されている。

北海道護国神社との関係

北海道護国神社における樺太護国神社関係祭神
年度 合祀数 累計
1948年(昭和23年) 521
1949年(昭和24年) 168 689
1950年(昭和25年) 907 1596
1951年(昭和26年) 1083 2679
1952年(昭和27年) 1119 3798
1953年(昭和28年) 351 4149
1954年(昭和29年) 82 4231
1955年(昭和30年) 7 4238
1956年(昭和31年) 2 4240
1957年(昭和32年) 4 4244
1958年(昭和33年) 18 4262
1959年(昭和34年) 3 4265
1960年(昭和35年) 2 4267
1961年(昭和36年) 5 4272
『樺太の神社』より。1953年(昭和28年)の欄に4146とあるが誤記とみられる。

北海道護国神社は1935年(昭和10年)の創建以来、北海道だけでなく樺太関係の戦没者も合祀することになっていたが、1939年(昭和14年)の樺太護国神社の成立で、北海道のみに限定。しかし、ソ連侵攻による樺太護国神社の廃絶で、1948年(昭和23年)から再び樺太関係の戦没者も合祀することになり、同年6月に521柱の合祀祭を行った。その後随時合祀祭を行い、樺太護国神社関係の祭神は1961年(昭和36年)の時点で約4300柱となったという。(1955年(昭和30年)『樺太護国神社沿革史』、『樺太の神社』)

組織

樺太招魂社
樺太招魂社
樺太招魂社の社標

社司

  • 伴雄三郎(1873-1942)<>:豊原神社社司。1873年(明治6年)生。1942年(昭和17年)12月24日死去。
  • 斎藤富士男()<>:樺太神社宮司。受持神官?
  • 吉野直人(1877-1944)<1939-1944>:長崎県平戸出身の神職。本務は樺太神社。(略歴は、石上神宮#組織を参照)
  • 大島乙丸(1894-)<>:本務は樺太神社。熊野大社宮司。1894年(明治27年)生。

資料

樺太護国神社・社殿遠景
樺太護国神社・拝殿
樺太護国神社・社殿
樺太護国神社・正面遠景
樺太護国神社・拝殿
樺太護国神社・正面図
樺太護国神社・側面図
樺太護国神社
  • 1935『樺太忠魂史』:祭神名簿がある。[1]
  • 1935『大日本神社大鑑:北海道・樺太版』[2]
  • 1955『樺太護国神社沿革史』:『北海道護国神社史』、『樺太の神社』に所収。
  • 2012『樺太の神社』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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