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樺太護国神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
樺太護国神社(からふと・ごこく・じんじゃ)は、旧樺太庁豊原支庁豊原市にあった庁内関係の戦没者を祀る招魂社。指定護国神社。廃絶。樺太神社に隣接していた。北海道・樺太の神社。 豊原招魂社。樺太招魂社。
目次 |
祭神
歴史
大泊表忠碑の建立
日露戦争の樺太最大の激戦地だった大泊に「大泊表忠碑」建立。1907年(明治40年)10月起工し、1908年(明治41年)11月に竣工した。石造の台座の上に、鹵獲したロシア軍艦「ノーウィック」の砲身を垂直に立てた。独立第13師団の戦没者51柱(81柱とも)を祀る。各地に仮埋葬されていた遺骨や遺灰を合葬した。1925年(大正14年)には皇太子時代の昭和天皇が「会釈」したという。
豊原招魂社の成立
1908年(明治41年)7月12日、豊原町神宮遥拝所(豊原神社)境内にて日露戦争の招魂祭を執行。7月12日は日露戦争樺太占領記念日であり毎年この日に歴代樺太庁長官が幣帛使を務めて祭典を行った。
1915年(大正4年)10月23日、社殿を造営し鎮座祭を行った。町民会と在郷軍人会の共同の大正大礼記念事業として行った。祭神は西久保豊一郎以下75柱。「大泊表魂碑」の場所か。この時点では正式な神社ではなかったと思われる。古写真によると碑の前に吹き抜けの神明造の拝殿のみがあり、神社形式ですらなかった可能性もある。 1917年(大正6年)7月、豊原神社境内に遷座した(1921年(大正10年)9月とも)。大泊表魂碑は旧地のまま。豊原招魂社となる。1921年(大正10年)11月16日、樺太庁長官より、豊原神社境内社として創立許可。初めて正式な神社となった。 1922年(大正11年)4月、神饌幣帛料供進神社となる。
1925年(大正14年)6月9日、樺太庁長官の副申で靖国神社から特に「御鎮霊の神璽」の下付を受け、7月11日に鎮座祭を行った。さらに年代不詳だが(「同年」とあるが)、6月30日、靖国神社で増祀分11柱の神霊の鎮霊祭を執行。7月10日に鎮祭した。
昭和の造営
1935年(昭和10年)10月15日(1934年(昭和9年)10月?)、樺太庁長官今村武志を会長とする樺太招魂社奉賛会が樺太神社に隣接して、「樺太招魂社」を創建。豊原招魂社88柱を遷座。以後、合祀祭7月24日、例大祭7月25日とされた。
1939年(昭和14年)4月1日、樺太護国神社と改称(1939年(昭和14年)3月28日の樺太庁令第11号による)。4月1日、樺太庁告示第64号で「樺太庁護国神社」が指定護国神社となる。3月27日には拓務省令第1号 「樺太護国神社例祭、鎮座祭及合祀祭祭式及祝詞」が発布されている。
ソ連軍侵攻による廃絶
ソ連軍の侵攻のため、1945年(昭和20年)8月24日、祭神521柱の昇天の儀を執行。あるいは9月3日に御霊代の焼納を行ったともいう。祭神の数については「神社本庁所蔵樺太引揚資料」には653柱。1945年(昭和20年)8月25日、ソ連兵が殺到し社殿を破壊され、略奪をほしいままにした。
サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館)に狛犬1対が移築されている。
北海道護国神社との関係
北海道護国神社は1935年(昭和10年)の創建以来、北海道だけでなく樺太関係の戦没者も合祀することになっていたが、1939年(昭和14年)の樺太護国神社の成立で、北海道のみに限定。しかし、ソ連侵攻による樺太護国神社の廃絶で、1948年(昭和23年)から再び樺太関係の戦没者も合祀することになり、同年6月に521柱の合祀祭を行った。その後随時合祀祭を行い、樺太護国神社関係の祭神は1961年(昭和36年)の時点で約4300柱となったという。(1955年(昭和30年)『樺太護国神社沿革史』、『樺太の神社』)
組織
社司
- 伴雄三郎()<>:豊原神社社司
- 斎藤富士男()<>:樺太神社宮司。受持神官?
- 吉野直人(1877-1944)<1939-1944>:長崎県平戸出身の神職。本務は樺太神社。(略歴は、石上神宮#組織を参照)
- 大島乙丸()<>:本務は樺太神社。