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毛利本家祖霊社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2011年9月16日 (金) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
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概要

毛利本家祖霊社(もうりほんけ それいしゃ)は、山口藩(萩藩)毛利家の歴代当主を祀った祖霊社である。祭神は、天穂日命、毛利家歴代当主である。なお別殿に毛利家功臣を合祀しているという(明治期。現状は不明。)。

1604年(慶長9年)、毛利輝元が萩城に入り、毛利元就神霊を萩の春日神社内に祭ったのが創始だと考えられる(『山口県神社誌』「豊栄神社」)。1607年(慶長12年)3月、霊社を春日神社から城内三の郭に遷座(1933(昭和8)『山口市史』)。1759年(宝暦9年)、宝暦の改革の成功が祈願されている。

1762年(宝暦12年)、毛利重就が二の郭の土地神社を改造して、そこに合祀した。新たに毛利家の祖(土師氏の始祖)である天穂日命をも合祀した(1933(昭和8)『山口市史』)。

1770年(明和7年)9月1日から3日にかけて毛利元就200年祭を執行。新しい祠を造営した。このとき、毛利輝元宝心霊神)、毛利秀就魂帰霊神)を合祀する。洞春寺でも法要が行われている。この200年祭をきっかけに、安芸吉田の毛利元就墓所の修復がなされた。

1824年(文政7年)、毛利元就神霊に仰徳大明神の神号が贈られたという(1933(昭和8)『山口市史』)。

1811年(文化8年)11月29日、白川家より毛利斉房に「斉房神霊」の神号が贈られ、勧請された。ただし、神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』154頁)。

江戸時代末期の1836年(天保7年)、奇しくも毛利斉熙毛利斉元毛利斉広の三藩主が同じ年に立て続けに死去した。毛利斉広にいたっては、藩主だったのはわずか20日間ほどであった。1849年(嘉永2年)4月5日、この三藩主に白川家より「斉熙神霊」、「斉元神霊」、「斉広神霊」の神号が贈られて祭られた。やはり神璽は下されず、巻物に書き加えられた(『白川門人帳』155頁)。

初代毛利元就の子、毛利隆元は嫡子であったが、謎の急死を遂げたため、正式な毛利家歴代には長らく数えられていなかった。しかし、名誉復帰と顕彰の流れが進み、墓地の新造がすでに行われていた。 これを受けて毛利家は白川家に神号を申請し、1853年(嘉永6年)4月24日、白川家より「感徳霊神」の神号が贈られた(岸本論文には「感応霊神」とある。)。斉房ら三代は、巻物に神号を書き加えることによって勧請としていたが、毛利家の願によって元就以下三代と同様に、特に霊神の神号と神璽が下された(『白川門人帳』156頁)。

1864年(元治1年)3月5日には尊皇攘夷の藩論確定の奉告を行なっている。1865年(慶応1年)2月、内乱沈静化に際し、藩内の動揺を収めるため、毛利敬親父子が4藩主とともに参拝した。

藩庁が萩城から山口に移ると、祖霊社も山口に遷座した。山口多賀神社に仮殿を建てたらしい。1869年(明治2年)には毛利元就神霊を遷座(分霊?)して豊栄神社が創建されている。豊栄神社は1871年(明治4年)に現在地に社殿を造営したが、これにともない祖霊社も豊栄神社に遷座したようである。1873年(明治6年)ごろ、祖霊社は毛利家の東京移転により、毛利家東京邸に遷座した。豊栄神社に残された旧殿は毛利敬親を祀る中正社(のちの野田神社)となった。のち明治20年代に毛利家が防府に邸を建設し、移転すると、祖霊社も遷座したらしい。山口の地域社会としての祭祀と、毛利家の祭祀の分離が行われたわけである。以後、防府邸にて祭祀が行われている。東京毛利邸の祖霊社旧殿は、1948年(昭和23年)に善光寺東京別院(宝光山影現寺)本堂として移築され、現存している。 1853年(嘉永6年)から1871年(明治4年)までの殉難者を別殿に合祀しているらしい(山口県公文書館所属目録)。

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