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河内・願得寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
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'''願得寺'''(がんとくじ)は、大阪府門真市御堂町(河内国茨田郡)にある[[浄土真宗]]寺院。[[真宗大谷派]]。[[御坊]]、[[本願寺の院家寺院|院家]]、[[真宗大谷派の別院寺院|別格別院]]だった(日本歴史地名大系)。'''古橋御坊'''、'''古橋御堂'''、'''古橋願得寺'''。[[五箇寺]]の一つ。加賀[[願得寺]]の後身とされる。山号は光明山。(参考:同名寺院[[願得寺_(同名)]]) ==歴史== 門真願得寺の前身の'''古橋坊'''('''古橋道場''')は[[蓮如]]が創建した。願得寺と関連が深い惣物講に蓮如筆の六字名号が伝わる。その年は1478年(文明10年)とも、1492年(明応1年)ともいい、蓮如の拠点の[[光善寺]]周辺で洪水があった後者のほうが可能性が高いという。 1509年(永正6年)の実如下付の惣物講の阿弥陀如来絵像に「普賢寺古橋惣道場」とあり、周辺門徒の総道場だった。古川橋駅(門真市末広町)北側に普賢寺(廃絶)という大規模な密教寺院があり、その周辺にあったとも考えられる。のちに実悟が入り、願得寺となる。 蓮如の子の実悟は1508年(永正5年)頃、加賀国石川郡剣木村清沢の清沢坊に入り、1513年(永正10年)~1522年(大永2年)頃に実如から願得寺の寺号を下付された。1531年(享禄4年)の享禄の錯乱(大小一揆)で、願得寺は[[加賀・本泉寺|本泉寺]]や[[光教寺]]と組んで本願寺・[[超勝寺]]軍と戦った。7月23日に炎上し、敗北した。 実悟は本願寺から処分を受け諸国を放浪したが1550年(天文19年)に赦免され、弟の実孝のいる[[吉野本善寺]]に寄寓。 [[石山本願寺]]に出入りすると共に、1567年(永禄10年)には門真庄にも布教。 この頃、蓮如の開いた古橋坊に入り、'''願得寺'''に改称したとみられる。他にも土居坊([[清沢寺]]。実悟墓がある)や世木坊([[河内・本泉寺]])も創建したという。 願得寺は1576年(天正4年)、勅許で[[本願寺門跡]]の[[院家]]となり、本山運営に関わる。 1594年(文禄3年)検地で免税となる。 東西分派の時には[[東本願寺]]末となる。宣如が東本願寺を継承した時に[[五箇寺]]に列す(1614年(慶長19年)頃か)。 歴代住職の多くは室を[[西園寺家]]から迎え、明治期には[[有栖川宮家]]からも迎えた。 実悟が収集した聖教や著作を多数所蔵する。 (日本歴史地名大系) ==組織== ===歴代住職=== (真宗年表) *1実悟(1492-1583)<>:兼俊。1583年(天正11年)11月25日死去。 *2顕悟()<>:兼佐。1576年(天正4年)8月8日死去。 *3教悟()<>:兼明。1616年(元和2年)12月9日死去。 *4宣悟()<>:兼秀。1676年(延宝4年)9月26日死去。 *5琢悟()<>:兼瑛。1670年(寛文10年)3月3日死去。 *6常悟()<>:兼晴。1674年(延宝2年)9月15日死去。 *7一悟()<>:兼海。1754年(宝暦4年)4月6日死去。 *8真悟()<>:兼性。1768年(明和5年)6月23日死去。 *9従悟()<>:兼超。1762年(宝暦12年)7月4日死去。 *10乗悟()<>:兼遍。1838年(天保9年)7月13日死去。 *11達明()<>:兼朗。1846年(弘化3年)7月25日死去。 *12達縁()<>:朗悟。1845年(弘化2年)7月9日死去。 *13達英()<>:清沢勝寿。1891年(明治24年)2月11日死去。 *14厳英()<>:清沢勝兼。1943年(昭和18年)4月16日死去。 *15現悟()<>:清沢兼円。 *清沢悟 [[Category:大阪府]]
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