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法住寺殿

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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妙法院・豊臣秀吉墓・智積院・方広寺・豊国神社・京都国立博物館・三十三間堂(国土地理院空中写真より)

法住寺殿(ほうじゅうじどの)は、平安京郊外の東山にあった後白河天皇の離宮。

歴史

この地には988年(永延2年)に太政大臣藤原為光が創建した法住寺があったが、1032年(長元5年)に焼失し、やがて廃絶した。その後、信西の屋敷があったが、平治の乱で焼失した。

1158年(保元3年)8月11日に譲位した後白河天皇はこの地に離宮造営を計画。1160年(永暦1年)に新日吉神社新熊野神社を勧請。1161年(応保1年)4月13日、法住寺殿が完成し信西の屋敷跡に、藤原信頼の殿舎を移築して御殿とした。南殿である。続いて1164年(長寛2年)に中心となる御堂蓮華王院三十三間堂が竣工。1167年(仁安2年)1月19日、法住寺殿南殿を取り壊し、新しい殿を建てる。この日上皇が移る。またこの頃には既に七条上御所(東宮御所)、七条下御所(後白河上皇と妃の御所)が付属して設けられていた。1173年(承安3年)、建春門院が最勝光院と最勝光院南御所を建てる。1174年(承安4年)8月10日、上御所と下御所を統合して新造した七条殿に移る。

1179年(治承3年)には福原京遷都で京都を離れるが、1181年(養和1年)2月2日、最勝光院南御所に帰還。閏2月25日、法住寺南殿に戻る。12月13日、荒廃した七条殿に代わり、法住寺新御所を造営し移った。しかし、1183年(寿永2年)11月19日、木曽義仲が法住寺殿を焼き討ちし荒廃。その後再建されるが、上皇は六条西洞院殿を御所とした。

1197年(建久8年)、最勝光院、強風で破損し、1226年(嘉禄2年)に焼失した。


殿舎と御堂

参考文献

  • 高橋昌明編、2006『院政期の内裏・大内裏と院御所』文理閣
http://shinden.boo.jp/wiki/%E6%B3%95%E4%BD%8F%E5%AF%BA%E6%AE%BF」より作成

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