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洞春寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
洞春寺
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'''洞春寺'''(とうしゅんじ)は、山口県山口市水の上町にある[[臨済宗]]寺院。'''[[豊栄神社|毛利元就]]'''の菩提寺。[[臨済宗建仁寺派]]。本尊は[[観音信仰|十一面観音]]である。安芸、広島、萩、山口と遷った。[[十刹]]。[[毛利家祭祀|山口藩(萩藩)毛利家]]における祖霊祭祀の中心であった。山号は正宗山。 == 歴史 == 1573年(天正1年)、'''毛利輝元'''が毛利元就の菩提寺として'''嘯岳鼎虎'''を招いて創建。はじめ吉田郡山城にあった。 現在、吉田郡山城には洞春寺跡のほか、嘯岳鼎虎の墓や、[[毛利家吉田郡山城跡墓地]](毛利元就、毛利隆元、歴代城主の墓)、[[常栄寺]]跡、毛利元就火葬所がある。 その後、毛利家の移転に伴い、広島、山口、萩、山口と点々とした。広島城時代には現在の広瀬神社の位置にあったという。 中世末期には[[五山十刹|十刹]]に列せられている(1587年(天正15年)以後)(太田博太郎「十刹・諸山からみた禅宗建築の発展」)。 1603年(慶長8年)、毛利家の山口入城に伴い、山口に移転。1606年(慶長11年)、毛利家が萩へ移転するとそれに従った。さらに幕末に毛利家が山口に藩庁を移すと、1869年(明治2年)、山口の[[常栄寺]]の地に移転した(常栄寺は[[妙寿寺]]の地に移転して、妙寿寺は廃絶となった)。 さらに明治初年、'''万年寺'''と改称した。これは毛利家が菩提寺を廃止したことに伴ったものではないだろうか。1899年(明治32年)、再び洞春寺と称した。 1851年(嘉永4年)、毛利敬親は古来毛利家に忠節を誓って死を遂げた者を調査を命じ、過去帳を編纂した。これを洞春寺におさめて追善供養を始めた。その後、内外での衝突が増え、国事に身を捧げた者が増加。1867年(慶応3年)、山口藩は1863年(文久3年)の下関戦争以降の戦没者の名前を洞春寺の過去帳に記入を命じ、永遠に弔うように命じた。維新後はこの過去帳は神名帳に改められ[[毛利本家祖霊社]]内に別に神座を設けて祀ったという。(防長歴史暦) 本堂(十一面観音)および観音堂(聖観音)がある。山門は、もともとこの地にあった大内氏菩提寺の[[周防・国清寺]]創建当時(1404年(応永11年))のものだと言われている。 井上馨の墓がある(東京の[[江戸・長谷寺|長谷寺]]にもある)。 <Gallery widths="200" heights="150" perrow="3"> File:洞春寺_(1).jpg| File:洞春寺_(2).jpg| File:洞春寺_(3).jpg| File:洞春寺_(4).jpg| File:洞春寺_(5).jpg| File:洞春寺_(6).jpg| File:洞春寺_(7).jpg| </Gallery> [[category:山口県]]
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