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浄土真宗の皇室関連寺院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月27日 (日)

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浄土真宗の皇室関連寺院
浄土真宗の皇室関連寺院
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日本仏教各派の中でも浄土真宗は他宗と異なる特殊な関係を皇室と結んでいるといえる。
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== 概要 ==
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日本仏教は、勅願寺、祈願寺や菩提寺という形で天皇、皇族、貴族、武家と結びついてきたが、民衆布教を重視してきた浄土真宗は、当初はそのような形での結び付きをあまり持たなかった。しかし、既成宗派に合わせるように、寺院や組織を整えて行く中で、本願寺や専修寺などの真宗寺院も門跡や勅願寺の格式を得るようになり、皇族の住職を迎えることも出てきた。
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日本仏教各派の中でも[[浄土真宗]]は他宗と異なる特殊な関係を皇室と結んでいるといえる。
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さらに僧侶の妻帯を認めた浄土真宗では、大谷家をはじめとする世襲僧侶が次第に貴族化し、公家との婚姻関係を持ちはじめ、やがて天皇皇族とも血縁を結ぶようになった。
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日本仏教は、[[勅願寺]]、祈願寺や菩提寺という形で天皇、皇族、貴族、武家と結びついてきたが、民衆布教を重視してきた浄土真宗は、当初はそのような形での結び付きをあまり持たなかった。しかし、既成宗派に合わせるように、寺院や組織を整えて行く中で、[[本願寺]]や[[専修寺]]などの真宗寺院も[[門跡]]や勅願寺の格式を得るようになり、皇族の住職を迎えることも出てきた。
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結果、法門を司る大谷家、渋谷家、常盤井家、華園家自身が天皇の子孫でもあるという、他宗にはない形で天皇との密接な関係を築くに至った。
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さらに僧侶の妻帯を認めた浄土真宗では、大谷家をはじめとする世襲僧侶が次第に貴族化し、公家との婚姻関係を持ちはじめ、やがて天皇皇族とも血縁を結ぶようになった。結果、法門を司る'''大谷家'''、'''渋谷家'''、'''常盤井家'''、'''華園家'''自身が天皇の子孫でもあるという、他宗にはない形で天皇との密接な関係を築くに至った。
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歴史
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== 歴史 ==
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親鸞と聖徳太子
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===親鸞と聖徳太子===
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親鸞は聖徳太子を観音菩薩の垂迹として厚篤く信仰した。聖徳太子の託宣を受け、法然、念仏との出会いへと導びかれたとされ、日本に仏法を広めた教主と称えた(親鸞はシャーマンだったといえる)。親鸞の太子崇敬の思いは「皇太子聖徳奉讃」という和讃に表れている。
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[[親鸞]]は[[聖徳太子]]を[[観音菩薩]]の垂迹として厚篤く信仰した。聖徳太子の託宣を受け、[[法然]]、念仏との出会いへと導びかれたとされ、日本に仏法を広めた教主と称えた(親鸞はシャーマンだったといえる)。親鸞の太子崇敬の思いは「皇太子聖徳奉讃」という和讃に表れている。
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===親鸞と順徳天皇===
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1207年、親鸞は越後に配流となったが、1211年、[[順徳天皇]]により赦免となった。[[興正寺]]の伝によると、このとき親鸞は京都に戻り一寺を創建し、順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下された。現在の興正寺、[[仏光寺]]であるという。
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親鸞は関東布教にて[[稲田の草庵]]に籠る。ここに順徳天皇の弟の、'''正懐親王'''が訪ねて弟子入りした。高弟[[二十四輩]]の[[善性房]]である。親王は比叡山で出家し'''周観'''と名乗ったが、争いを嫌い、地方に下った。常陸の[[板敷山]]や下総の豊田郡に草庵を結んだ。その後、それぞれ[[大覚寺]]、[[東弘寺]]となった。親鸞が稲田を去るとき、その後を任されて、二世となった。稲田草庵を越後に移し、[[浄興寺]]と名乗ったとされる。
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親鸞と順徳天皇
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飛騨に最初に真宗を広めたのは'''善俊'''とされる。善俊は後鳥羽天皇の第12皇子とも、上記の善性房の子ともいう。伊豆三島で親鸞に師事し、飛騨白川郷に[[真宗大谷派高山別院|照蓮寺]]を創建したという。
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1207年、親鸞は越後に配流となったが、1211年、順徳天皇により赦免となった。
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興正寺の伝によると、このとき親鸞は京都に戻り一寺を創建し、順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下された。現在の興正寺、仏光寺である。
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親鸞は関東布教にて稲田の草庵に篭る。ここに順徳天皇の弟の、正懐親王が訪ねて弟子入りした。高弟二十四輩の善性房である。親王は比叡山で出家し周観と名乗ったが、争いを嫌い、地方に下った。常陸の板敷山や下総の豊田郡に草庵を結んだ。その後、それぞれ大覚寺、東弘寺となった。親鸞が稲田を去るとき、その後を任されて、二世となった。稲田草庵を越後に移し、浄興寺と名乗ったとされる。
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1221年、承久の乱に負けて順徳天皇は佐渡に配流となった。このとき関東布教で東国にいた親鸞に勅使を遣わし、法を請うた。親鸞は正全房を佐渡に送り、法を説いた。天皇は寺院建立を発願し、勝興寺と称した。天皇崩御の後、親鸞は弟子の天皇皇子の彦成王信念を遣わした。佐渡で天皇の火葬塚を護持したという。信念の墓と伝わる西三川陵墓参考地がある。勝興寺はのち名前を越中に移した。羽曳野明教寺も信念の創建とされる。
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1221年、[[承久の乱]]に負けて順徳天皇は佐渡に配流となった。このとき天皇は関東布教で東国にいた親鸞に勅使を遣わし、法を請うた。親鸞は正全房を佐渡に送り、法を説いた。天皇は寺院建立を発願し、[[勝興寺]]と称した。天皇崩御の後、親鸞は弟子で天皇皇子の'''彦成王信念'''を遣わした。佐渡で天皇の[[順徳天皇火葬塚|火葬塚]]を護持したという。信念の墓と伝わる[[西三川陵墓参考地]]がある。勝興寺はのち名前を越中に移した。[[羽曳野・明教寺]]も信念の創建とされる。
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親鸞の足取り
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===勅願寺===
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1226年、親鸞は下野国高田に一寺を建立。善光寺如来を祀ったが、これが後堀河天皇の耳に入り、勅願寺とし「専修阿弥陀寺」の名を下賜した。現在の専修寺である。
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1226年、親鸞は下野国高田に一寺を建立。[[善光寺如来]]を祀ったが、これが後堀河天皇の耳に入り、[[勅願寺]]とし「'''専修阿弥陀寺'''」の名を下賜した。現在の[[専修寺]](のち伊勢に移転)である。
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1238年、親鸞は毘沙門天の神告で近江の地に一寺を創建。天女が舞い降りて錦を織り、仏前に供えたという。この話を聴いた四条天皇は「天神護法錦織之寺」の名を下賜した。錦織寺である。
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1238年、親鸞は[[毘沙門天]]の神告で近江の地に一寺を創建。天女が舞い降りて錦を織り、仏前に供えたという。この話を聴いた四条天皇は「'''天神護法錦織之寺'''」の名を下賜した。[[錦織寺]]である。
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亀山天皇と本願寺
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===亀山天皇と本願寺===
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亀山天皇は、本願寺の庇護者として長年重視される。
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'''亀山天皇'''は、[[本願寺]]の庇護者として長年にわたり重視される。
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1262年、親鸞は京都で死去。その10年後の1272年、影堂が建てられるが、亀山天皇が「久遠実成阿弥陀本願寺」の名前を下賜し、勅願寺とし、のちに本願寺と名乗るようになる。この名は現在の本願寺派西山別院にも下賜され、久遠寺と称したという。久遠寺には天皇の旧殿も下賜移築されたという。さらに、亀山天皇は武蔵善福寺をも勅願寺とした。
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1262年、親鸞は京都で死去。その10年後の1272年、影堂が建てられるが、亀山天皇が「'''久遠実成阿弥陀本願寺'''」の名前を下賜し、勅願寺とし、のちに本願寺と名乗るようになったとされる。(この名は現在の[[本願寺西山別院]]にも下賜され、久遠寺と称したという。久遠寺には天皇の旧殿も下賜移築されたという。さらに、亀山天皇は[[武蔵・善福寺]]をも勅願寺とした。)
東本願寺では近年まで亀山天皇の尊牌を祀っていた。
東本願寺では近年まで亀山天皇の尊牌を祀っていた。
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関東の代表的寺院の一つ、常敬寺は、鎌倉にあったが、7代将軍惟康親王の配慮により、千葉県に移されたという。同寺は越後高田に移されたともいうが、越後常敬寺では後宇多天皇の勅願寺となったと伝えている。
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関東の代表的寺院の一つ、[[常敬寺]]は、鎌倉にあったが、7代将軍惟康親王の配慮により、千葉県に移されたという。同寺は越後高田に移されたともいうが、[[越後常敬寺]]では後宇多天皇の勅願寺となったと伝えている。
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親鸞の子善鸞を迎えて創建された證誠寺では、1304年、後二条天皇は勅して浄如を参内させ、「山元山護念院證誠寺」の勅額を下賜した。
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親鸞の子[[善鸞]]を迎えて創建された[[證誠寺]]では、1304年、後二条天皇は勅して浄如を参内させ、「'''山元山護念院證誠寺'''」の勅額を下賜した。1499年にも参内し、後土御門天皇から上人号を下賜された。さらに御所修理費を献納し、「'''真宗之源親鸞嫡家'''」の綸旨と菊桐の紋章を下賜した。
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1499年にも参内し、後土御門天皇から上人号を下賜された。さらに御所修理費を献納し、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨と菊桐の紋章を下賜した。
 
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[[誠照寺]]は、親鸞が越後に流される途中に立ち寄ったのが起源とされるが、1321年、現在地に移ったときに、後二条天皇から「'''真照寺'''」の勅額を下賜された。また[[中将姫]]作という「一尊十二光仏蓮糸曼荼羅」を天皇から下賜されたという。1437年、後花園天皇より「'''誠照寺'''」の勅額が下賜され、現在の名称となった。
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誠照寺は、親鸞が越後に流される途中に立ち寄ったのが起源とされるが、1321年、現在地に移ったときに、後二条天皇から「真照寺」の勅額を下賜された。また中将姫作という「一尊十二光仏蓮糸曼荼羅」を天皇から下賜されたという。1437年、後花園天皇より「誠照寺」の勅額が下賜され、現在の名称となった。
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[[仏光寺]]の本尊が盗難された夜、[[後醍醐天皇]]は夢枕で東南より光が射し込むのを見た。その方角を調査させたところ、仏光寺の本尊を発見。勅願で「'''阿弥陀仏光寺'''」の名を下賜した。
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仏光寺の本尊が盗難された夜、後醍醐天皇は夢枕で東南より光が射し込むのを見た。その方角を調査させたところ、仏光寺の本尊を発見。勅願で「阿弥陀仏光寺」の名を下賜した。
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1336年、後醍醐天皇は[[吉野]]に遷幸。法然の弟子の念仏坊が建てた堂を行在所としたが、天皇は自ら梅に阿弥陀仏を刻み、本尊とし、[[光遍寺]]と名付けた。天皇の世話をした地元の女性が一男、源光を産み、天皇の言葉に従い、真宗の僧侶となり、当寺の住職となった。1339年、天皇の崩御後、[[後醍醐天皇塚_吉野伝承地|天皇塚]]が築かれた。
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1336年、後醍醐天皇は吉野に遷幸。法然の弟子の念仏坊が建てた堂を行在所としたが、天皇は自ら梅に阿弥陀仏を刻み、本尊とし、仏照山光遍寺と名付けた。天皇の世話をした地元の女性が一男、源光を産み、当寺の住職となった。1339年、天皇の崩御後、天皇塚が築かれた。
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'''綽如'''は、法務を功如に譲り、自ら北陸布教に赴いた。明からの国書が届くが、難解な文章で朝廷は手を焼いていた。そこで[[青蓮院]]が綽如を推薦。綽如はそれを解読した。[[後小松天皇]]は喜び綽如に'''周円上人'''号を下賜。天皇は、綽如に寺院建立のための勧進を許し、勧進状のための紙を寄附。綽如は北陸を勧進し、1390年、後小松天皇の勅願寺として、[[瑞泉寺]]を創建した。
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綽如は、法務を功如に譲り、自ら北陸布教に赴いた。
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後土御門天皇、1478年、[[専修寺]]を皇室の祈願所とし、'''真慧'''に上人号が下賜される。高田専修寺に後柏原天皇皇子と言われる'''常盤井宮'''が入り、'''真智'''と称する。しかし、1512年、真慧が没すると、実子の応真を擁立する勢力が正統を名乗る。天皇や幕府は、どちらを後継者と認めるか、二転三転するが、最終的に応真が高田専修寺を継いだ。天皇は実子を支持しなかったのだろうか。真智は越前に追われ、そこで新たに[[熊坂・専修寺]]を開いた。
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明からの国書が届くが、難解な文章で朝廷は手を焼いていた。そこで青蓮院が綽如を推薦。綽如はそれを解読した。後小松天皇は喜び綽如に周円上人号を下賜。天皇は、綽如に寺院建立のための勧進を許し、勧進状のための紙を寄附。綽如は北陸を勧進し、1390年、後小松天皇の勅願寺として、瑞泉寺を創建した。
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後土御門天皇、1478年、専修寺を皇室の祈願所とし、真慧に上人号が下賜される。
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後柏原天皇はまた[[本願寺]]、[[毫摂寺]]を勅願寺とした。
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高田専修寺に後柏原天皇皇子と言われる常盤井宮が入り、真智と称する。しかし、1512年、真慧が没すると、実子の応真を擁立する勢力が正統を名乗る。天皇や幕府は、どちらを後継者と認めるか、二転三転するが、最終的に応真が高田専修寺を継いだ。天皇は実子を支持しなかったのだろうか。真智は越前に追われ、そこで新たに専修寺を開いた。
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親鸞300回忌を前に、1559年、正親町天皇より本願寺は准[[門跡寺院]]とみとめられ、回忌法要を諸宗の参列を得て実施できた。
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後柏原天皇はまた本願寺、毫摂寺を勅願寺とした。
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===江戸時代===
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桜町天皇は高田専修寺の善光寺如来の京都出開帳に際して、宮中に招き入れ、拝観。模刻仏を作らせ、宮中に祀った。崩御後、桃園天皇は遺詔により模刻仏を[[専修寺京都別院]]に下賜した。
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親鸞300回忌を前に、1559年、正親町天皇より本願寺は准門跡寺院とみとめられ、回忌法要を諸宗の参列を得て実施できた。
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1761年の親鸞500年遠忌を前に、1754年、東西本願寺から朝廷幕府に大師号下賜の申請が内々に行われたが、「崩御した桜町天皇は大師号は容易に勅許されないとの考えだった」と伝えられたため、中止となった。しかし諦めず、1811年の550回忌にむけて、東西本願寺、専修寺、仏光寺が請願するが、[[天台宗]]の反対により、却下された。1861年の600回忌でも画策されるが、稔らなかった。
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江戸時代
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明治になり、9年11月28日、'''見真大師'''を下賜。東西本願寺、専修寺、興正寺、仏光寺、錦織寺が呼び出されたようである。明治12年、東西本願寺に勅額を下賜。翌年、仏光寺、専修寺、興正寺にも下賜された。
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桜町天皇は高田専修寺の善光寺如来の京都出開帳に際して、宮中に招き入れ、拝観。模刻仏を作らせ、宮中に祀った。崩御後、桃園天皇は遺詔により模刻仏を専修寺京都別院に下賜した。
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名前は「慧眼真を見てよく彼岸に度す」に由来すると言われる。明治22年には[[東本願寺]]には御影堂を大師堂と改称した。
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ついで明治15年、明治天皇は[[蓮如]]に'''慧燈大師'''号を下賜。合わせて、山科の蓮如墓地が東西本願寺に下賜された。
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1761年の親鸞500年遠忌を前に、1754年、東西本願寺から朝廷幕府に大師号下賜の申請が内々に行われたが、「崩御した桜町天皇は大師号は容易に勅許されないとの考えだった」と伝えられたため、中止となった。しかし諦めず、1811年の550回忌にむけて、東西本願寺、専修寺、仏光寺が請願するが、天台宗の反対により、却下された。1861年の600回忌でも画策されるが、稔らなかった。
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明治になり、9年11月28日、見真大師を下賜。東西本願寺、専修寺、興正寺、仏光寺、錦織寺が呼び出されたようである。明治12年、東西本願寺に勅額を下賜。翌年、仏光寺、専修寺、興正寺にも下賜された。
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名前は「慧眼真を見てよく彼岸に度す」に由来すると言われる。明治22年には東本願寺には御影堂を大師堂と改称した。
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ついで明治15年、明治天皇は蓮如に慧燈大師号を下賜。合わせて、山科の蓮如墓地が東西本願寺に下賜された。
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以後、大師号宣下の宣旨は東西本願寺交互に保管され、毎年4月1日、宣旨奉送迎の儀が1983年まで行われていた。
以後、大師号宣下の宣旨は東西本願寺交互に保管され、毎年4月1日、宣旨奉送迎の儀が1983年まで行われていた。
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==寺院==
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*仏光寺 順徳天皇勅願寺。後醍醐天皇勅願寺。順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下賜。後醍醐天皇が「阿弥陀仏光寺」の名を下賜。
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*興正寺 同上
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*大覚寺
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*東弘寺
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*浄興寺
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*佐渡勝興寺 順徳天皇勅願寺。順徳天皇が創建。順徳天皇火葬塚を護持。順徳天皇皇子信念が開山。廃絶。
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*伏木勝興寺 順徳天皇勅願寺。佐渡勝興寺を継承。
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*羽曳野明教寺 順徳天皇皇子信念が創建。
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*専修寺 後堀河天皇勅願寺。「専修阿弥陀寺」の名前を下賜。後柏原天皇皇子の真智が住職に就任するが、騒動により追い出される。後土御門天皇が上人号を許可する。
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*錦織寺 四条天皇勅願寺。「天神護法錦織之寺」勅額下賜。
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*西本願寺 亀山天皇勅願寺。「久遠実成阿弥陀本願寺」の名前を下賜。後柏原天皇勅願寺。
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*東本願寺 同上。
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*麻布善福寺 亀山天皇勅願寺。
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*西山御坊 亀山天皇が「久遠実成阿弥陀本願寺」と下賜し、久遠寺。光厳天皇勅願寺。
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*越後常敬寺 後宇多天皇勅願寺。
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*下総常敬寺 後宇多天皇勅願寺?
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*證誠寺 後二条天皇勅願寺。後土御門天皇が「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を下賜。
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*誠照寺 後二条天皇より「真照寺」勅額を下賜。後花園天皇勅願寺となり「誠照寺」の勅額下賜。
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*吉野光遍寺 後醍醐天皇勅願寺。後醍醐天皇仮御所。後醍醐天皇の皇子が住職に就任。後醍醐天皇陵の写しがある。南朝史跡。
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*毫摂寺 光明天皇勅願寺、後柏原天皇勅願寺、後陽成天皇勅願寺。江戸時代は天台宗青蓮院門跡の院家寺院だった。
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*唯念寺 聖武天皇勅願寺。後光厳天皇仮御所で勅額下賜。真宗改宗はそのあとのこと。弥勒信仰
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*越中瑞泉寺 後小松天皇勅願寺。
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*越前専修寺 後柏原天皇皇子の真智が伊勢専修寺を追い出されて代わりに創建。正統を主張する。
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*法雲寺 越前専修寺の後継寺院。
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*専照寺 正親町天皇勅願寺。
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*福田寺 天武天皇勅願寺。その後真宗へ。長澤御坊
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== 天皇・皇族 ==
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*後堀河天皇、専修阿弥陀寺。勅願寺
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*四条天皇 錦織寺に勅額下賜勅願寺
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*亀山天皇:本願寺の名を命名する。善福寺を勅願寺。西山御坊も名前。
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*順徳天皇
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*正懐親王
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*信念
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*後宇多天皇 常敬寺を勅願寺
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*惟康親王 常敬寺
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*後二条天皇:證誠寺に勅額。誠照寺に勅額。
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*後醍醐天皇、仏光寺、興正寺に「阿弥陀仏光寺」の勅号を賜る。吉野潜航時、吉野光遍寺を一時の御所とする。
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*源光 後醍醐天皇皇子
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*光厳天皇、西山御坊を勅願寺
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*光明天皇、毫摂寺を勅願寺
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*後小松天皇 越中瑞泉寺勅願
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*後花園天皇:誠照寺の勅額
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*後土御門天皇:證誠寺に真宗之源親鸞嫡家。専修寺を皇室の祈願所とする綸旨を下し、上人号を許可する。
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*後柏原天皇、毫摂寺を勅願寺。専修寺に皇子を入寺させる。本願寺を勅願寺
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*正親町天皇:専照寺を勅願寺
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*後陽成天皇、毫摂寺を勅願寺
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*江戸時代、皇族が各寺と婚
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*桜町天皇、一光三尊仏をみる
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*明治天皇、見真大師と慧燈大師下賜
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*光厳天皇、西山御坊を勅願寺
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[[Category:系譜記事]]
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光厳天皇、西山御坊を勅願寺
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光明天皇、毫摂寺を勅願寺
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正親町天皇:専照寺を勅願寺
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後陽成天皇、毫摂寺を勅願寺
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江戸時代、皇族が各寺と婚
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⚫︎寺院
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仏光寺 順徳天皇勅願寺。後醍醐天皇勅願寺。順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下賜。後醍醐天皇が「阿弥陀仏光寺」の名を下賜。
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興正寺 同上
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大覚寺
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東弘寺
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浄興寺
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佐渡勝興寺 順徳天皇勅願寺。順徳天皇が創建。順徳天皇火葬塚を護持。順徳天皇皇子信念が開山。廃絶。
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伏木勝興寺 順徳天皇勅願寺。佐渡勝興寺を継承。
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羽曳野明教寺 順徳天皇皇子信念が創建。
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専修寺 後堀河天皇勅願寺。「専修阿弥陀寺」の名前を下賜。後柏原天皇皇子の真智が住職に就任するが、騒動により追い出される。後土御門天皇が上人号を許可する。
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錦織寺 四条天皇勅願寺。「天神護法錦織之寺」勅額下賜。
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西本願寺 亀山天皇勅願寺。「久遠実成阿弥陀本願寺」の名前を下賜。後柏原天皇勅願寺。
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東本願寺 同上。
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麻布善福寺 亀山天皇勅願寺。
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西山御坊 亀山天皇が「久遠実成阿弥陀本願寺」と下賜し、久遠寺。光厳天皇勅願寺。
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越後常敬寺 後宇多天皇勅願寺。
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下総常敬寺 後宇多天皇勅願寺?
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證誠寺 後二条天皇勅願寺。後土御門天皇が「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を下賜。
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誠照寺 後二条天皇より「真照寺」勅額を下賜。後花園天皇勅願寺となり「誠照寺」の勅額下賜。
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吉野光遍寺 後醍醐天皇勅願寺。後醍醐天皇仮御所。後醍醐天皇の皇子が住職に就任。後醍醐天皇陵の写しがある。南朝史跡。
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毫摂寺 光明天皇勅願寺、後柏原天皇勅願寺、後陽成天皇勅願寺。江戸時代は天台宗青蓮院門跡の院家寺院だった。
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唯念寺 聖武天皇勅願寺。後光厳天皇仮御所で勅額下賜。真宗改宗はそのあとのこと。弥勒信仰
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越中瑞泉寺 後小松天皇勅願寺。
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越前専修寺 後柏原天皇皇子の真智が伊勢専修寺を追い出されて代わりに創建。正統を主張する。
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法雲寺 越前専修寺の後継寺院。
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専照寺 正親町天皇勅願寺。
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福田寺 天武天皇勅願寺。その後真宗へ。長澤御坊
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後堀河天皇、専修阿弥陀寺。勅願寺
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四条天皇 錦織寺に勅額下賜勅願寺
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亀山天皇:本願寺の名を命名する。善福寺を勅願寺。西山御坊も名前。
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順徳天皇
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正懐親王
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信念
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後宇多天皇 常敬寺を勅願寺
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惟康親王 常敬寺
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後二条天皇:證誠寺に勅額。誠照寺に勅額。
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後醍醐天皇、仏光寺、興正寺に「阿弥陀仏光寺」の勅号を賜る。吉野潜航時、吉野光遍寺を一時の御所とする。
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源光 後醍醐天皇皇子
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光厳天皇、西山御坊を勅願寺
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光明天皇、毫摂寺を勅願寺
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後小松天皇 越中瑞泉寺勅願
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後花園天皇:誠照寺の勅額
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後土御門天皇:證誠寺に真宗之源親鸞嫡家。専修寺を皇室の祈願所とする綸旨を下し、上人号を許可する。
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後柏原天皇、毫摂寺を勅願寺。専修寺に皇子を入寺させる。本願寺を勅願寺
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正親町天皇:専照寺を勅願寺
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後陽成天皇、毫摂寺を勅願寺
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江戸時代、皇族が各寺と婚
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桜町天皇、一光三尊仏をみる
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明治天皇、見真大師と慧燈大師下賜
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2018年5月27日 (日) 時点における最新版

浄土真宗の皇室関連寺院

目次

概要

日本仏教各派の中でも浄土真宗は他宗と異なる特殊な関係を皇室と結んでいるといえる。 日本仏教は、勅願寺、祈願寺や菩提寺という形で天皇、皇族、貴族、武家と結びついてきたが、民衆布教を重視してきた浄土真宗は、当初はそのような形での結び付きをあまり持たなかった。しかし、既成宗派に合わせるように、寺院や組織を整えて行く中で、本願寺専修寺などの真宗寺院も門跡や勅願寺の格式を得るようになり、皇族の住職を迎えることも出てきた。 さらに僧侶の妻帯を認めた浄土真宗では、大谷家をはじめとする世襲僧侶が次第に貴族化し、公家との婚姻関係を持ちはじめ、やがて天皇皇族とも血縁を結ぶようになった。結果、法門を司る大谷家渋谷家常盤井家華園家自身が天皇の子孫でもあるという、他宗にはない形で天皇との密接な関係を築くに至った。

歴史

親鸞と聖徳太子

親鸞聖徳太子観音菩薩の垂迹として厚篤く信仰した。聖徳太子の託宣を受け、法然、念仏との出会いへと導びかれたとされ、日本に仏法を広めた教主と称えた(親鸞はシャーマンだったといえる)。親鸞の太子崇敬の思いは「皇太子聖徳奉讃」という和讃に表れている。

親鸞と順徳天皇

1207年、親鸞は越後に配流となったが、1211年、順徳天皇により赦免となった。興正寺の伝によると、このとき親鸞は京都に戻り一寺を創建し、順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下された。現在の興正寺、仏光寺であるという。 親鸞は関東布教にて稲田の草庵に籠る。ここに順徳天皇の弟の、正懐親王が訪ねて弟子入りした。高弟二十四輩善性房である。親王は比叡山で出家し周観と名乗ったが、争いを嫌い、地方に下った。常陸の板敷山や下総の豊田郡に草庵を結んだ。その後、それぞれ大覚寺東弘寺となった。親鸞が稲田を去るとき、その後を任されて、二世となった。稲田草庵を越後に移し、浄興寺と名乗ったとされる。

飛騨に最初に真宗を広めたのは善俊とされる。善俊は後鳥羽天皇の第12皇子とも、上記の善性房の子ともいう。伊豆三島で親鸞に師事し、飛騨白川郷に照蓮寺を創建したという。

1221年、承久の乱に負けて順徳天皇は佐渡に配流となった。このとき天皇は関東布教で東国にいた親鸞に勅使を遣わし、法を請うた。親鸞は正全房を佐渡に送り、法を説いた。天皇は寺院建立を発願し、勝興寺と称した。天皇崩御の後、親鸞は弟子で天皇皇子の彦成王信念を遣わした。佐渡で天皇の火葬塚を護持したという。信念の墓と伝わる西三川陵墓参考地がある。勝興寺はのち名前を越中に移した。羽曳野・明教寺も信念の創建とされる。

勅願寺

1226年、親鸞は下野国高田に一寺を建立。善光寺如来を祀ったが、これが後堀河天皇の耳に入り、勅願寺とし「専修阿弥陀寺」の名を下賜した。現在の専修寺(のち伊勢に移転)である。

1238年、親鸞は毘沙門天の神告で近江の地に一寺を創建。天女が舞い降りて錦を織り、仏前に供えたという。この話を聴いた四条天皇は「天神護法錦織之寺」の名を下賜した。錦織寺である。

亀山天皇と本願寺

亀山天皇は、本願寺の庇護者として長年にわたり重視される。 1262年、親鸞は京都で死去。その10年後の1272年、影堂が建てられるが、亀山天皇が「久遠実成阿弥陀本願寺」の名前を下賜し、勅願寺とし、のちに本願寺と名乗るようになったとされる。(この名は現在の本願寺西山別院にも下賜され、久遠寺と称したという。久遠寺には天皇の旧殿も下賜移築されたという。さらに、亀山天皇は武蔵・善福寺をも勅願寺とした。)

東本願寺では近年まで亀山天皇の尊牌を祀っていた。

関東の代表的寺院の一つ、常敬寺は、鎌倉にあったが、7代将軍惟康親王の配慮により、千葉県に移されたという。同寺は越後高田に移されたともいうが、越後常敬寺では後宇多天皇の勅願寺となったと伝えている。

親鸞の子善鸞を迎えて創建された證誠寺では、1304年、後二条天皇は勅して浄如を参内させ、「山元山護念院證誠寺」の勅額を下賜した。1499年にも参内し、後土御門天皇から上人号を下賜された。さらに御所修理費を献納し、「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨と菊桐の紋章を下賜した。


誠照寺は、親鸞が越後に流される途中に立ち寄ったのが起源とされるが、1321年、現在地に移ったときに、後二条天皇から「真照寺」の勅額を下賜された。また中将姫作という「一尊十二光仏蓮糸曼荼羅」を天皇から下賜されたという。1437年、後花園天皇より「誠照寺」の勅額が下賜され、現在の名称となった。

仏光寺の本尊が盗難された夜、後醍醐天皇は夢枕で東南より光が射し込むのを見た。その方角を調査させたところ、仏光寺の本尊を発見。勅願で「阿弥陀仏光寺」の名を下賜した。

1336年、後醍醐天皇は吉野に遷幸。法然の弟子の念仏坊が建てた堂を行在所としたが、天皇は自ら梅に阿弥陀仏を刻み、本尊とし、光遍寺と名付けた。天皇の世話をした地元の女性が一男、源光を産み、天皇の言葉に従い、真宗の僧侶となり、当寺の住職となった。1339年、天皇の崩御後、天皇塚が築かれた。

綽如は、法務を功如に譲り、自ら北陸布教に赴いた。明からの国書が届くが、難解な文章で朝廷は手を焼いていた。そこで青蓮院が綽如を推薦。綽如はそれを解読した。後小松天皇は喜び綽如に周円上人号を下賜。天皇は、綽如に寺院建立のための勧進を許し、勧進状のための紙を寄附。綽如は北陸を勧進し、1390年、後小松天皇の勅願寺として、瑞泉寺を創建した。

後土御門天皇、1478年、専修寺を皇室の祈願所とし、真慧に上人号が下賜される。高田専修寺に後柏原天皇皇子と言われる常盤井宮が入り、真智と称する。しかし、1512年、真慧が没すると、実子の応真を擁立する勢力が正統を名乗る。天皇や幕府は、どちらを後継者と認めるか、二転三転するが、最終的に応真が高田専修寺を継いだ。天皇は実子を支持しなかったのだろうか。真智は越前に追われ、そこで新たに熊坂・専修寺を開いた。

後柏原天皇はまた本願寺毫摂寺を勅願寺とした。

親鸞300回忌を前に、1559年、正親町天皇より本願寺は准門跡寺院とみとめられ、回忌法要を諸宗の参列を得て実施できた。

江戸時代

桜町天皇は高田専修寺の善光寺如来の京都出開帳に際して、宮中に招き入れ、拝観。模刻仏を作らせ、宮中に祀った。崩御後、桃園天皇は遺詔により模刻仏を専修寺京都別院に下賜した。

1761年の親鸞500年遠忌を前に、1754年、東西本願寺から朝廷幕府に大師号下賜の申請が内々に行われたが、「崩御した桜町天皇は大師号は容易に勅許されないとの考えだった」と伝えられたため、中止となった。しかし諦めず、1811年の550回忌にむけて、東西本願寺、専修寺、仏光寺が請願するが、天台宗の反対により、却下された。1861年の600回忌でも画策されるが、稔らなかった。

明治になり、9年11月28日、見真大師を下賜。東西本願寺、専修寺、興正寺、仏光寺、錦織寺が呼び出されたようである。明治12年、東西本願寺に勅額を下賜。翌年、仏光寺、専修寺、興正寺にも下賜された。 名前は「慧眼真を見てよく彼岸に度す」に由来すると言われる。明治22年には東本願寺には御影堂を大師堂と改称した。 ついで明治15年、明治天皇は蓮如慧燈大師号を下賜。合わせて、山科の蓮如墓地が東西本願寺に下賜された。 以後、大師号宣下の宣旨は東西本願寺交互に保管され、毎年4月1日、宣旨奉送迎の儀が1983年まで行われていた。

寺院

  • 仏光寺 順徳天皇勅願寺。後醍醐天皇勅願寺。順徳天皇より「興隆正法」の勅額を下賜。後醍醐天皇が「阿弥陀仏光寺」の名を下賜。
  • 興正寺 同上
  • 大覚寺
  • 東弘寺
  • 浄興寺
  • 佐渡勝興寺 順徳天皇勅願寺。順徳天皇が創建。順徳天皇火葬塚を護持。順徳天皇皇子信念が開山。廃絶。
  • 伏木勝興寺 順徳天皇勅願寺。佐渡勝興寺を継承。
  • 羽曳野明教寺 順徳天皇皇子信念が創建。
  • 専修寺 後堀河天皇勅願寺。「専修阿弥陀寺」の名前を下賜。後柏原天皇皇子の真智が住職に就任するが、騒動により追い出される。後土御門天皇が上人号を許可する。
  • 錦織寺 四条天皇勅願寺。「天神護法錦織之寺」勅額下賜。
  • 西本願寺 亀山天皇勅願寺。「久遠実成阿弥陀本願寺」の名前を下賜。後柏原天皇勅願寺。
  • 東本願寺 同上。
  • 麻布善福寺 亀山天皇勅願寺。
  • 西山御坊 亀山天皇が「久遠実成阿弥陀本願寺」と下賜し、久遠寺。光厳天皇勅願寺。
  • 越後常敬寺 後宇多天皇勅願寺。
  • 下総常敬寺 後宇多天皇勅願寺?
  • 證誠寺 後二条天皇勅願寺。後土御門天皇が「真宗之源親鸞嫡家」の綸旨を下賜。
  • 誠照寺 後二条天皇より「真照寺」勅額を下賜。後花園天皇勅願寺となり「誠照寺」の勅額下賜。
  • 吉野光遍寺 後醍醐天皇勅願寺。後醍醐天皇仮御所。後醍醐天皇の皇子が住職に就任。後醍醐天皇陵の写しがある。南朝史跡。
  • 毫摂寺 光明天皇勅願寺、後柏原天皇勅願寺、後陽成天皇勅願寺。江戸時代は天台宗青蓮院門跡の院家寺院だった。
  • 唯念寺 聖武天皇勅願寺。後光厳天皇仮御所で勅額下賜。真宗改宗はそのあとのこと。弥勒信仰
  • 越中瑞泉寺 後小松天皇勅願寺。
  • 越前専修寺 後柏原天皇皇子の真智が伊勢専修寺を追い出されて代わりに創建。正統を主張する。
  • 法雲寺 越前専修寺の後継寺院。
  • 専照寺 正親町天皇勅願寺。
  • 福田寺 天武天皇勅願寺。その後真宗へ。長澤御坊


天皇・皇族

  • 後堀河天皇、専修阿弥陀寺。勅願寺
  • 四条天皇 錦織寺に勅額下賜勅願寺
  • 亀山天皇:本願寺の名を命名する。善福寺を勅願寺。西山御坊も名前。
  • 順徳天皇
  • 正懐親王
  • 信念
  • 後宇多天皇 常敬寺を勅願寺
  • 惟康親王 常敬寺
  • 後二条天皇:證誠寺に勅額。誠照寺に勅額。
  • 後醍醐天皇、仏光寺、興正寺に「阿弥陀仏光寺」の勅号を賜る。吉野潜航時、吉野光遍寺を一時の御所とする。
  • 源光 後醍醐天皇皇子
  • 光厳天皇、西山御坊を勅願寺
  • 光明天皇、毫摂寺を勅願寺
  • 後小松天皇 越中瑞泉寺勅願
  • 後花園天皇:誠照寺の勅額
  • 後土御門天皇:證誠寺に真宗之源親鸞嫡家。専修寺を皇室の祈願所とする綸旨を下し、上人号を許可する。
  • 後柏原天皇、毫摂寺を勅願寺。専修寺に皇子を入寺させる。本願寺を勅願寺
  • 正親町天皇:専照寺を勅願寺
  • 後陽成天皇、毫摂寺を勅願寺
  • 江戸時代、皇族が各寺と婚
  • 桜町天皇、一光三尊仏をみる
  • 明治天皇、見真大師と慧燈大師下賜
  • 光厳天皇、西山御坊を勅願寺
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