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清朝の陵墓
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清朝の陵墓 |
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概要
清朝の陵墓。 後金時代の首都であった瀋陽周辺の関外三陵と遼陽の東京陵、北京北東125キロに位置する東陵、北京西南120キロに位置する西陵と主に三つのエリアに分かれている。
いずれも歴代の王朝に勝るとも劣らない巨大な規模でできている。長大な神道(参道)、華表、石像、大碑楼、隆恩門、祭祀の中心となる隆恩殿、墳丘に接する明楼、墳丘、そして地下宮殿などが整備されている。地下宮殿には仏教的装飾が施されている。
関外三陵は、永陵、福陵、昭陵の三つである。後金時代の王やヌルハチ、ホンタイジの陵墓である。建築などに民族色が多少見られるのが特徴である。東京陵は一番規模が小さく、皇族が葬られている。
東陵には15基の墳墓があり、皇帝陵5基、皇后陵4基、皇妃園寝5基、皇女の墓1基があり、5人の皇帝、15人の皇后、136人の皇妃が埋葬されている。特に乾隆帝の裕陵と慈禧皇后の定東陵がもっとも壮麗とされる。1928年に軍閥の孫殿英の部隊による大規模な盗掘が行われて被害を被った。昌瑞山の麓にある。
順治帝が狩りに出た時にたまたま昌瑞山の麓にやってきた。馬を止めて眺めると風景に美しさに打たれた。山並みに「王気が青々と茂っている」と思い、弓懸の指輪を空に投げ、家臣に言った。「指輪の落ちたところは、必ずや墓地としてよい地相であるだろう。そこに朕の墓を準備してよいであろうぞ」と。その後、康煕2年(1663)に建造を始めたのが東陵の始まりであるという。
ホンタイジの皇后、孝荘文皇后の陵墓、昭西陵が大紅門の外にある。経緯や立地からして清の陵墓の中でも例外的なものである。皇后はホンタイジの死後、弟ドルゴンの妻となった。羅哲文によるとこれは満州貴族の中では珍しいことではなかったが、中国の歴史の中では希なことであった。ドルゴンは生前、いばりのさばったため、死後、衆人の非難するところとなり、一緒に葬られるのを望まなかった。しかし、弟に嫁した以上、前夫に合わせる顔もない。そこで息子の順治帝の陵墓の側に仮安置するように遺言したということではないかという。昭西陵の名前は、千里隔たったホンタイジの昭陵に対する命名である。
西陵には14基の墳墓がある。皇帝陵4基、皇后陵3基、王公、皇女、妃の墓が7基あり、76人が葬られている。永寧山の麓に広がる。
雍正帝は父の遺言を改竄して皇位を奪った。そのため、心中やましいところがあって、父の陵墓と同じところに葬られたくなかったのだと言われているという。雍正帝は、跡継ぎにも西陵を使うようにさせたかったが、息子の乾隆帝は「風水のよいところを選ぶ」という名目で東陵を選んだ。そのため、その後、東陵か西陵のどちらかに葬られることとなった。
系譜
参考文献
- 羅哲文『中国歴代の皇帝陵』徳間書店