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清水寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
清水寺 きよみずでら | |
概要 | |
奉斎 | 十一面千手千眼観音 |
所在地 | 京都府京都市東山区清水1 |
所在地(旧国郡) | 山城国愛宕郡 |
所属(現在) | 北法相宗 |
格式など | 北法相宗大本山 |
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清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区(山城国愛宕郡八坂郷)にある、清水観音信仰の南都仏教寺院。本尊は十一面千手観音。西国三十三所観音霊場第16番札所で、日本を代表する観音霊場の一つ。全国に同名の寺院がある。有名な「清水の舞台」も観音は崖上に現れるという信仰の表現である。延鎮が坂上田村麻呂を開基として創建。坂上氏の氏寺という説もある。平安時代末から興福寺末となり、一乗院門跡が清水寺別当を兼ねた。そのため興福寺と対立した延暦寺やその末寺の感神院とたびたび戦火を交えた。応仁の乱で焼失。願阿弥という時宗僧の勧進で文明16年に再建。現在の本堂は寛永10年(1633)の再建。幕末には本坊成就院住職だった月照が勤皇僧として活躍した。戦後、大西良慶が独立教団を立て、北法相宗大本山と称す。阿弥陀堂は法然が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、法然上人二十五霊場の第13番札所。境内にある奥院とは別に山科に奥院と伝わる法厳寺がある。鎮守は地主神社。北に八坂神社が近く、南に大谷本廟(西大谷)が接する。清水観音。南観音寺と呼ばれる子島寺に対して北観音寺とも。山号は音羽山。(参考:同名寺院清水寺 (同名))
目次 |
歴史
縁起
『扶桑略記』や『今昔物語集』によると、宝亀9年4月、延鎮(当時は賢心と名乗る)が夢告を得て北に向かうと、一筋の金色の水が流れているのを見つけた。水源を訪ねると、滝の傍に草庵があり、行叡という行者に出会った。「お前を待っていた。ここにある木株で観音を造れ」と言い、姿を消した。後を追うと、山科のある峰に靴だけが落ちていて、行叡が観音の化身だと分かった。その後、坂上田村麻呂の支援で清水寺を創建した。
清水寺境内の奥院が行叡の草庵跡といい、山科区の法厳寺が行叡の靴を延鎮が発見した場所という。
古代
嘉保元年(1094)、興福寺隆禅が復興 興福寺の出張所のような存在となる。
中世
願阿弥が中興。
近世
近代
伽藍
本堂周辺
- 本堂:本尊は十一面千手観音。脇侍として勝敵毘沙門天と勝軍地蔵がある。三尊とも秘仏。その姿を見ることはできないが、一番上の脇手を頭上で組み、化仏を持つ清水式の形を御前立に見ることができる。轟門と回廊でつながる。外縁に出世大黒天を祀る。西脇に塩断ち阿弥陀如来を祀る。
- 朝倉堂:本尊は本堂と同じ。法華三昧堂。朝倉貞景の寄進で建立。回廊の北側にある。
- 開山堂:大本願の坂上田村麻呂夫妻、延鎮、行叡を祀る。田村堂とも。経堂の東にある。
- 中興堂:大西良慶を祀る。
- 春日社:法相宗の守護神春日神を祀る。
- 随求堂:慈心院の本堂。本尊は大随求菩薩。特異な形状の堂宇。胎内めぐりがある。
- 善光寺堂:地蔵院の本堂。本尊は地蔵菩薩。如意輪観音と善光寺如来も祀る。善光寺如来は、明治に合併した奥院の善光寺如来堂のもの。「清水善光寺」。
- 三重塔:本尊は大日如来。
- 経堂:本尊は釈迦三尊。経堂というが経典は現存しない。講堂。三重塔の東に立つ。
- 西門:持国天と増長天を祀る。日想観の聖地だったとみられている。他に類例のない形式で、庇を持つ。三重塔の前に立つ。
- 地主神社:地主神。
- 大講堂:仏舎利と仏足石を祀る。
- 仁王門:金剛力士を祀る。北脇に1875年の基準点標石が残る。
- 水子観音堂:
- 馬駐:
- 弁財天社
- 月照碑
奥院
本堂の西口を出ると、南に曲がる崖が続き、北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥院本堂と並ぶ。奥院本堂は音羽の滝の直上に位置する。
- 奥院本堂:本尊は三面千手観音。脇侍として毘沙門天と地蔵を祀る。他に二十八部衆、風神雷神を祀る。延鎮の草庵の跡という。本堂のミニ版の舞台造。本尊の三面千手観音坐像は本面の左右に大き目の脇面がある。別に頭上に二十四面がある。夜叉神堂が付属する。「奥の千手堂」
- 阿弥陀堂:本尊は阿弥陀如来。法然が常行念仏の道場とした旧跡と伝え、法然上人二十五霊場の第13番札所。
- 釈迦堂:本尊は釈迦如来。
- 石塔:法華塔と刻まれている。阿弥陀堂と奥院本堂の間の奥にある。
- 銅塔:阿弥陀仏が納められている。阿弥陀堂の前にある。
- 百体地蔵堂:多数の石地蔵を祀る。釈迦堂と阿弥陀堂の間の奥にある。
- 西向地蔵堂:
- 宝篋印塔:西向地蔵堂のそばに宝篋印塔2基がある。
- 音羽の滝:行叡が修行していた旧跡
- 滝宮:明治初年に地主神社に合祀された。
- アテルイ・モレ碑:
- 十三重石塔:
その他
- 子安塔:泰産寺の本堂に当たる。本尊は千手観音。
- 経書堂:来迎院の本堂。本尊は聖徳太子。「きょうかくどう」。
- 大日堂:真福寺の本堂。本尊は大日如来。参道沿いにある。
- 姥堂:金性院の本堂。本尊は奪衣婆と愛染明王。経書堂の南向にあった。廃絶。
- 清水寺経塚:1912年出土
子院
諸役
- 成就院:清水寺本願職(勧進職)を務めた。旧本坊。財政を司る。807年の創建。清水寺中興の願阿弥の住房が起源で元は本願院(本願寺)といった。中世、五条橋を管理していた。江戸時代中期以降は子院の輪番。現存。
- 宝性院:清水寺執行職を務めた。現存。
- 慈心院:清水寺目代職を務めた。本堂は随求堂。807年の創建。足利将軍家と関係が深い。1677年、後水尾上皇の勅願所となる。現存。
六坊
- 光乗坊:
- 蓮養坊:寛永年間には廃絶か。
- 義観坊:寛永年間には廃絶か。
- 智文坊:
- 義乗坊:
- 真乗坊:織田信長によって廃絶。
- 円養院:
- 延命院:現存。
その他
- 来迎院:本堂は経書堂。参道沿いの清水坂と三年坂が交わる場所にある。現存。耒迎院。
- 地蔵院:本堂は善光寺堂。法人格はなし。
- 泰産寺:子安塔を管理。現存。
- 真福寺:本堂は大日堂。現存。
- 法成寺:本堂は姥堂。1893年2月に廃絶。金性院、愛染院とも。
- 南蔵院:本尊は虚空蔵菩薩。元は大和国内山(永久寺?)にあり主膳寺と称したという。音羽の滝の下にあった。廃絶。
周辺寺院
参道沿いに多くの寺院がある。
- 宝徳寺:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。浄土宗西山深草派。1667年徳空が創建。あるいは1604年に念仏道場が建てられ、1663年に徳空が寺として伽藍を建てたともいう。山号は霊光山。現存。
- 宝福寺:時宗。鳥辺野墓地ゆかり。廃絶。東山通り沿いに地蔵堂が残る。
- 金剛院:不詳。八坂庚申堂?
- 影向寺:不詳。
- 大漸寺:日蓮宗。本尊は日蓮。1555年創建。元は山科にあった。1742年、日琢が清水坂に移転。初名は桂林庵。山号は宝林山。現存。
- 日体寺:日蓮宗。本尊は釈迦如来。1732年日忍が創建。師の日体を開山とし、名を取って寺号とした。本圀寺末。日蓮宗久遠寺派。山号は常照山。現存。
- 西光寺:浄土宗。本尊は阿弥陀如来。元は山科にあった。空也墓がある。浄土宗知恩院派。現存。
- 西向寺:浄土宗。元は西七条にあった。1894年に移転。浄土宗知恩院派。
- 仲光院:本尊は愛染明王と歓喜天。大日堂の南にあった。
- 北斗堂:謡曲「熊野」に登場。廃絶。
- 観持庵:臨済宗。本尊は阿弥陀如来。南禅寺末。山号は大梅山。善応寺とも。廃絶。
- 花蔵院:臨済宗。柏厳が創建。廃絶。
- 定水庵:廃絶。
- 常楽庵:廃絶。
- 松林庵:禅宗。1521年、宗胤が創建。元は音羽の滝の下にあった。のちに清水坂に移転。廃絶。
- 満福寺:臨済宗。廃絶。
- 慈願寺:本尊は釈迦如来。1498年創建。廃絶。
- 滝尾不動堂:『源平盛衰記』に1165年焼失とある。
- 晴尾観音寺:同上。
- 本願院:成就院のことか??
- 一心庵:日蓮宗。本尊は釈迦如来。1690年に日観が創建とも、1673年に馬町に創建され1759年に尼知光が移転とも。1907年4月、本山京都・本法寺に合併して廃絶。
組織
清水寺別当
- 報恩(?-795):延鎮の師。古代の備前などで活躍したとされる伝説的な僧侶。吉野で修行。報恩大師。報恩大師創建四十八寺が著名。
- 延鎮(生没年不詳):開山。
- 願預():
- 安興():
- 隆原():
- 〓宗():
- 寿曜():
- 道歴?():
- 興法():
- 名誉():
- 〓源():
- 禅連?():
- 真寵():
- 長代():
- 増延():
- 康信():
- 朝源():
- 康尚():「康成」とも。
- 定朝(?-1057):仏師。
- 定源():
- 定範():
- 定俊():
- 定深():祇園神人に危害を加える事件を起こす。
- 勝快():
- 永縁(1048-1125):興福寺別当31世。円勢就任に反発が起こったため就任。
- 有禅():興福寺僧。
- 無円():興福寺僧。
- 長円(?-1150):天台系の仏師。円勢の子。大治4年(1129)別当に就任。
- 隆覚(1074-1158):興福寺別当35世。
- 定耀():興福寺僧。
- 恵信(1124-1171):興福寺別当39世。「覚継」とも称す。
- 乗範():西大寺別当50世。興福寺権別当。
- 玄縁(?-1179):興福寺別当43世。
- 範玄(?-1199):興福寺別当46世。
- 勝朝():
- 舜覚():
- 円長():興福寺僧。
- 範玄(?-1199):再任。
- 信家():興福寺僧。元興寺別当。
- 玄信():興福寺僧。
- 円経():興福寺僧。元興寺別当。
- 範信():興福寺僧。
- 玄信():再任。
- 基円():興福寺僧。
- 経円():興福寺僧。
- 定玄(?-1247):興福寺別当60世。
- 経円():再任。
- 定玄():再任。
- 親縁(生没年不詳):興福寺別当67世。
- 定玄():再任。
- 円憲():興福寺僧。元興寺別当。
- 良盛(1196-1262):興福寺別当68世。
- 尋性():興福寺僧。
- 頼円(生没年不詳):興福寺別当71世。
- 宗懐(?-1289):興福寺別当79世。
- 〓範():興福寺僧。
- 〓遍():
(以上、清水寺別当次第[1])
- 清範(962-999):文殊菩薩の化身と言われた。
- 円勢(?-1134):天台系の仏師。永久元年(1113)に別当に任命されると、清水寺の激しい反発が起こり、強訴まで行われたことから辞退。
- 円玄:経円の直前にいたらしいが別当次第にない。(大日本史料総合DB)
- 俊円:東北院。法隆寺別当。(大日本史料総合DB)
- 光政:俊円の後任。(大日本史料総合DB)
- 隆秀:(大日本史料総合DB)
- 兼雅:興福寺松林院。隆秀の後任。(大日本史料総合DB)
- 任円:興福寺浄法院。兼雅の後任。(大日本史料総合DB)
- 一乗院真敬親王:1665年(寛文5年)就任。(大日本史料総合DB)
近代
- 園部忍慶(1842-1890)<1875-1890>:清水寺の僧侶。月照の弟子。明治元年、成就院住職。明治8年清水寺住職。(以上、法隆寺辞典)明治14年8月29日から(『法隆寺年表』)、一度廃絶した興福寺を兼務し、その復興にも尽力した。明治20年7月、法相宗管長(法隆寺辞典)。明治23年2月22日死去(『法隆寺年表』、『日本仏教基礎講座』「法相宗興福寺」。23日とする資料も)。49歳。
- 千早定朝(1823-1899)<1890-1891>:本務は法隆寺。園部の死去で明治23年3月23日から翌年2月16日まで兼務。(法隆寺年表では23年6月30日まで)。(略歴は、法隆寺#組織を参照)
- 雲井良海(1836-1894)<1891-1894>:郡山藩足立家の出身。興福寺一同と共に還俗。雲井春影と名乗る。明治11年東大寺東南院で得度。高志大了に密教を学ぶ。同年、豊山に入る。明治21年長徳寺住職。明治24年2月16日、興福寺住職兼清水寺住職に就任(法隆寺年表では明治23年7月1日清水寺住職となり翌年2月16日に興福寺住職・法相宗管長)。明治27年5月19日死去(『法隆寺年表』、『日本仏教基礎講座』「法相宗興福寺」)(20日とする資料も)。清水寺のトラブルの責任感から自害という。
- 千早定朝(1823-1899)<1895-1899>:明治28年4月14日再任(『法隆寺年表』)。本務は法隆寺。
- (佐伯寛応)(1853-1930)<1895-1897?>:明治28年?住職代理に就任。法隆寺辞典に79歳死去とある。
- (楓実賢)<1897-1899>:明治30年11月、住職代理に就任。明治32年3月に千早定朝に死去したが、5月6日から引き続き「寺務管理」に就任。
- 楓実賢(1837-1907)<1899-1907>:元は法隆寺の僧侶。明治32年5月、興福寺の要請で清水寺住職に就任。法隆寺内宗源寺、同興善院の住職を兼務。明治40年10月9日死去。
- 井坊忍教(1873-1914):
- 大西良慶(1875-1983)<1914-1983>:清水寺中興。奈良県出身。明治8年12月21日生。父は妙楽寺智光院の僧侶。明治22年、興福寺に入寺。園部忍慶に師事。法隆寺勧学院で佐伯定胤に学ぶ。明治32年(1899)興福寺住職。日露戦争に従軍。大正3年(1814)、清水寺住職を兼務。昭和17年(1942)、興福寺住職を退任して清水寺住職に専念。昭和40年(1965)、北法相宗を設立して初代管長。昭和58年2月15日死去。
- 松本大円(1922-2012)<1983-1988>:北法相宗2代管長。古都税紛争中、拝観を再開しようとして反発を受け、辞職に追い込まれる。平成24年8月18日死去。
- 森清範(1940-)<1988->:北法相宗3代管長。
画像
参考文献
- 国史大事典
- 日本歴史地名大系
- 図録『京都清水寺』2013
- 清水寺ウェブサイト
資料
- 『清水寺成就院日記』