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無量光寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
無量光寺
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'''無量光寺'''(むりょうこうじ)は、神奈川県相模原市南区にある、[[時宗]]の[[時宗の本山寺院|本山寺院]]。かつての[[時宗当麻派]]の拠点寺院。現在は一般寺院。[[一遍]]の住房を起源とするという。[[他阿真教旧跡]]。'''当麻山金光院無量光寺'''。'''当麻道場'''。相模国高座郡。神奈川県相模原市当麻578。(参考:同名寺院[[無量光寺_(同名)]]) ==歴史== 当麻という地名の由来は2説あり、一遍が大和国の当麻(当麻寺がある)を慕って名付けたという説(麻山集)と、源範頼家臣の当麻太郎(吾妻鏡に登場)がこの地を領したためという説(新編相模国風土記稿)がある。 一遍がこの地に来たことを示す史料はないが一遍聖絵は弘安4年を欠いておりこの時に訪れた可能性がある。 一遍留錫の跡地に金光院という庵が建てられ、嘉元元年に真教が遊行をやめて留まり、金光院を整備して、阿弥陀如来の十二光の第一である無量光から無量光寺と名付けたという。 真教は生涯留まり、鎌倉幕府や京都と折衝して寺院の反映に尽力した。 同年12月に恒例の別時念仏が開かれたが、大勢の貴賤道俗が集まったという(絵詞伝)。 鎌倉将軍久明親王の帰依を受け、30石を寄進され、守護不入の特権を与えられた。 寮舎20軒が建てられた。 == 伽藍 == *仮本堂 *歴代住職墓地 *お髪塚:墳丘。五輪塔2基。徳川家康の祖先の世良田有親と松平親氏の親子が剃髪した時の髪を収めたとされる。のち2人とも埋葬されたとも。1963年に発掘調査が行われたが遺物などは検出されなかった。 == 子院 == 全て廃絶。 *金光院: *地蔵院: *西光院: *成就院: *智光院: *清徳院: *宝寿院: *宝珠庵: *龍花庵: *長蔵庵: *善徳庵: *東花庵: ==組織== ===歴代住職=== *36世まで『時衆年表』、60世まで『高座郡歴史』[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763806/29] {|class="wikitable" |+ !style="width:5%;"|世数 !style="width:10%;"|名 !style="width:10%;"|生没 !style="width:10%;"|在職 !style="width:65%;"|略歴 |- |1 |[[一遍]] |1239-1289 |1261-1289 |1261年(弘長1年)、無量光寺住職。1289年(正応2年)死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |2 |[[他阿真教]] |1237-1319 |1297-1304 |実質的な開山。1237年(嘉禎3年)生。1297年(永仁5年)から1304年(嘉元2年)まで無量光寺住職。1319年(元応1年)死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |3 |他阿智得 |1261-1320 |1304-1320 |1261年(弘長1年)生。1304年(嘉元2年)、無量光寺住職。1320年(元応2年)7月1日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |4 |他阿真光 |1280-1333 |1320-1332 |当麻派の開祖。自坊は妙庫院。呑海と対立。1280年(弘安3年)生。九州瑞光寺。1320年(元応2年)、無量光寺住職。1332年(元弘2年/正慶1年)5月8日死去。54歳。内阿弥陀仏。 |- |5 |他阿慈光 |?-1344 |1332-1344 |自坊は千葉来迎寺。1332年(元弘2年/正慶1年)、無量光寺住職。1344年(興国5年/康永3年)10月2日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |6 |他阿融西 |?-1348 |1344-1348 |自坊は宝台寺。1344年(興国5年/康永3年)、無量光寺住職。1348年(正平3年/貞和4年)4月26日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |7 |他阿真空 |?-1361 |1348-1361 |武蔵・乗願寺を創建。1348年(正平3年/貞和4年)、無量光寺住職。1361年(正平16年/康安1年)10月2日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |8 |他阿良光 |?-1371 |1361-1371 |自坊は来迎寺。徳川家の祖の世良田有親、松平親氏が落ち延びて出家し、良光に師事したという伝説がある。 1361年(正平16年/康安1年)、無量光寺住職。1371年(建徳2年/応安4年)3月16日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |9 |他阿知運 |?-1387 |1371-1387 |自坊は会津東明寺。1371年(建徳2年/応安4年)、無量光寺住職。1387年(元中4年/嘉慶1年)3月16日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |10 |他阿願故 |?-1395 |1387-1395 |自坊は千葉寺。1387年(元中4年/嘉慶1年)、無量光寺住職。1395年(応永2年)10月16日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |11 |他阿道空 |?-1406 |1395-1406 |自坊は千葉来迎寺。乗願寺住職。1395年(応永2年)、無量光寺住職。1406年(応永13年)死去。 |- |12 |他阿西光 |?-1407 |1406-1407 |自坊は千葉来迎寺。1406年(応永13年)、無量光寺住職。1407年(応永14年)死去。 |- |13 |他阿良観 |?-1419 |1407-1419 |自坊は千葉来迎寺。1407年(応永14年)、無量光寺住職。1419年(応永26年)8月15日死去。住職墓地に墓碑あり。 |- |14 |他阿良遵 |?-1445 |1419-1445 |自坊は千葉来迎寺。1419年(応永26年)、無量光寺住職。1445年(文安2年)1月18日死去。良尊とも。住職墓地に墓碑あり。 |- |15 |他阿了然 |?-1446 |1445-1446 |自坊は千葉来迎寺。1445年(文安2年)、無量光寺住職。1446年(文安3年)1月16日死去。良然とも。住職墓地に墓碑あり。 |- |16 |他阿愚秀 |?-1452 |1446-1452 |自坊は井上長徳寺。1446年(文安3年)、無量光寺住職。1452年(享徳1年)死去。愚禿とも。 |- |17 |他阿称念 |?-1468 |1452-1468 |自坊は千葉来迎寺。1452年(享徳1年)、無量光寺住職。1468年(応仁2年)死去。 |- |18 |他阿忍空 |?-1468 |1468-1468 |小山出身。1468年(応仁2年)、無量光寺住職。1468年(応仁2年)死去。 |- |19 |他阿尊順 |?-1490 |1469-1490 |自坊は千葉来迎寺。1469年(文明1年)、無量光寺住職。1490年(延徳2年)死去。『新撰菟玖波集』入選。 |- |20 |他阿恵酬 |?-1494 |1490-1494 |自坊は千葉来迎寺。1490年(延徳2年)、無量光寺住職。1494年(明応3年)死去。恵州とも。 |- |21 |他阿源法 |?-1499 |1494-1499 |自坊は伊勢道場。1494年(明応3年)、無量光寺住職。1499年(明応8年)死去。源亮とも。 |- |22 |他阿尊照 |?-1504 |1499-1504 |自坊は千葉来迎寺。1499年(明応8年)、無量光寺住職。1504年(永正1年)死去。 |- |23 |他阿明信 |?-1506 |1504-1506 |自坊は岩槻真照寺。1504年(永正1年)、無量光寺住職。1506年(永正3年)死去。 |- |24 |他阿念空 |?-1507 |1506-1507 |自坊は勝沼乗願寺。1506年(永正3年)、無量光寺住職。1507年(永正4年)死去。 |- |25 |他阿一声 |?-1526 |1508-1526 |自坊は千葉来迎寺。新田義宗の孫。1508年(永正5年)、無量光寺住職。1526年(大永6年)死去。 |- |26 |他阿智明 |?-1530 |1526-1530 |自坊は千葉来迎寺。1526年(大永6年)、無量光寺住職。1530年(享禄3年)死去。 |- |27 |他阿智光 |1499-1549 |1530-1549 |自坊は千葉来迎寺。1499年(明応8年)生。裏松重実の子 。1530年(享禄3年)、無量光寺住職。1549年(天文18年)死去。明堂智光。 |- |28 |他阿良元 |?-1551 |1549-1551 |自坊は千葉来迎寺。1549年(天文18年)、無量光寺住職。1551年(天文20年)死去。亨峰良光とも。亨峰良元。 |- |29 |他阿称故 |?-1561 |1551-1561 |自坊は会津東明寺。1551年(天文20年)、無量光寺住職。1561年(永禄4年)死去。 |- |30 |他阿観応 |?-1585 |1561-1585 |自坊は駿河一華堂。1561年(永禄4年)、無量光寺住職。1585年(天正13年)死去。 |- |31 |他阿円鏡 |?-1606 |1585-1606 |自坊は宮蔵金蓮院。1585年(天正13年)、無量光寺住職。1606年(慶長11年)6月25日死去。77歳。 |- |32 |他阿慈教 |?-1614 |1606-1614 |自坊は大倉向徳寺。1606年(慶長11年)、無量光寺住職。1614年(慶長19年)1月19日死去。67歳。 |- |33 |他阿願愚 |?-1617 |1614-1617 |自坊は温水専念寺。1614年(慶長19年)、無量光寺住職。1617年(元和3年)死去。 |- |34 |他阿夢幻 |?-1642 |1617-1642 |自坊は伊奈正光寺。1617年(元和3年)、無量光寺住職。1642年(寛永19年)6月27日死去。夢宅正蓮社。清浄光寺への対抗上、当麻派の僧侶は浄土宗檀林で学ぶようになる。 梦幻とも。 |- |35 |他阿慈眼 |?-1652 |1642-1652 |自坊は妙庫院。1642年(寛永19年)、無量光寺住職。1645年(正保2年)8月23日、『当麻山拾遺記』を編纂(『麻山集』の原史料となる)。善蓮社伝誉。 1652年(承応1年)死去。夢宅慈眼。 |- |36 |他阿誠古 |?-1685 |1652-1685 |増上寺から晋山。1652年(承応1年)、無量光寺住職。1685年(貞享2年)死去。日庭誠故、日庭誠古とも。善連社。 |- |37 |他阿行往 |?-1682 |1673-1682 |自坊は江戸宗林寺。1673年(延宝1年)、無量光寺住職。1682年(天和2年)死去。大蓮社鏡誉智円。 |- |38 |他阿是名 |?-1697 |1682-1697 |自坊は浅草浄念寺。1682年(天和2年)、無量光寺住職。1691年(元禄4年)『麻山集』を編纂。「狂風散人廬峰」を名乗る。 1697年(元禄10年)死去。 |- |39 |他阿一行 |?-1699 |?-1699 |自坊は妙庫院。入寺年不詳。1699年(元禄12年)死去。 |- |40 |他阿尊階 |?-1707 |1699-1707 |自坊は下総海隣寺。1699年(元禄12年)、無量光寺住職。1707年(宝永4年)死去。 |- |41 |他阿栄龍 | | | |- |42 |他阿門英 | | | |- |43 |他阿天霊 | | |自坊は下総海隣寺。 |- |44 |他阿弁応 | | | |- |45 |他阿白善 | | |(1745年(延享2年)12月19日に『当麻派末寺帳』を提出した「他阿碧善」か) |- |46 |他阿祐玄 | | |自坊は下総海隣寺。 |- |47 |他阿楽玄 | | | |- |48 |他阿万的 | | | |- |49 |他阿智隆 | | |1779年(安永8年)無量光寺住職。1789年(寛政1年)6月死去。 |- |50 |他阿唄潮 | | |自坊は下総海隣寺。 |- |51 |他阿仙雄 | | | |- |52 |他阿霊随 |1764-1835 | |俳人。1764年(明和1年)生。1795年(寛政7年)増上寺から晋山。教主霊随。明蓮社。南謨。1835年(天保6年)死去。 |- |53 |他阿隆苗 | | |俳人。自坊は更埴市屋代生蓮寺。1820年(文政3年)無量光寺住職。1829年(文政12年)8月3日死去。71歳。宮本虎杖(1741-1823)門下の俳人で、六不応吐丈と号す。著書『春夏秋冬』『おほむかし』『小昔』『俳諧十二カ月』。 |- |54 |他阿智静 | | | |- |55 |他阿鸞及 | | | |- |56 |他阿至実 | | |河野至実。 |- |57 |他阿霊輪 | | | |- |58 |他阿宥全 | | | |- |59 |他阿大賢 | | | |- |60 |他阿覚誠 | | |飯田覚誠。自坊は乗願寺。 |- |61 |他阿弁栄 |1859-1920 |1918-1920 |山崎弁栄。[[光明主義]]の創始者。1859年(安政6年)生。1884年(明治17年)9月、筑波山で奇瑞を感得。光明主義を広める。1918年(大正7年)10月、無量光寺住職。1920年(大正9年)12月4日死去。 |- |62 |他阿戒浄 |1874-1937 |1920-? |笹本戒浄。1874年(明治7年)生。浅草出身。河田米次郎の三男。1884年(明治17年)1月、樹下信戒について出家。浄土宗学本校、第四高校、東京帝国大学に学び、心理学を専攻。1906年(明治39年)宗教大学講授。天台宗大学でも教える。1904年(明治37年)4月横浜慶運寺住職。1913年(大正2年)1月、山崎弁栄に出会い師事。光明主義の宣布に努める。1920年(大正9年)無量光寺住職。1935年(昭和10年)2月、全国光明会統監。1937年(昭和12年)7月26日死去。墓所は慶運寺。 |- |63 |他阿大道 | | |長島大道。自坊は府中称名寺。 |- |64 |他阿覚念 |1860-1944 | |伊東覚念。1860年(万延1年)生。1869年(明治2年)から無量光寺で修行。1880年(明治13年)桑原塾に学ぶ。小学校で教師を務め、1900年(明治33年)初代高座郡視学に命じられ、教育行政に携わる。郡教育会幹事長。1910年(明治43年)から1933年(昭和8年)まで横浜市戸部小学校長。その後無量光寺住職。光明学園長。1944年(昭和19年)1月15日死去。住職墓地に墓碑。 |- |65 |他阿大道 | | |再任 |- |66 |他阿祐善 | | |清水祐善。 |- |67 |他阿昭善 | | |清水昭善。 |- |68 |他阿覚隆 | | |飯田覚隆。 |} [[category:神奈川県]]
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