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玄奘旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
玄奘旧跡
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'''玄奘'''(げんじょう)(602-664)は、唐代の渡印僧・訳経僧。陳氏。現在の河南省出身。三蔵法師。[[法相宗]]の開祖ともされる(弟子の[[基]]を開祖とすることが多い) 629年、出発。645年帰国。忌日法要を、三蔵会、玄奘会、玄奘三蔵会という。 == 一覧 == ===修行時代=== *[[洛陽・玄奘寺]]:玄奘の生誕地にある寺院。洛陽市偃師市〓氏鎮。 *[[洛陽・浄土寺]]:玄奘が出家した寺院。 *[[大荘厳寺]]:長安 *[[空慧寺]]:蜀の寺院 *[[荊州・天皇寺]] *[[長安・大覚寺]]: ===渡印=== *[[ナーランダー寺院]]:戒賢(シーラバドラ)に学ぶ。 *[[アクベシム寺院]] *クマーラ王の王宮 *戒日王の王宮 ===帰国後=== *[[長安・弘福寺]]:最初の訳経所 *[[長安・弘法院]] *[[長安・西明寺]]:玄奘が創建。 *[[大慈恩寺]] *[[玉華寺]] ==墓所など== *白鹿原 *[[長安・興教寺]] *[[建初寺]]:中国南京。長安から頂骨が改葬された。 *[[武蔵・慈恩寺]] *[[薬師寺]] *[[台南・玄奘寺]] ==門下== *神昉(生没年不詳):上足四人の一人。 *嘉尚(生没年不詳):上足四人の一人。 *普光(生没年不詳):上足四人の一人。 *円測(613-696):新羅の僧。新羅の王族。窺基とは異なる流れを作ったという。 *慧立(615-?): *懐素(624-697): *道昭(629-700):日本の入唐僧。法相宗の初伝。 *窺基(632-682):上足四人の一人。基。慈恩大師。 *慧昭(650-714):玄奘、窺基に学ぶ。法相宗第二祖。 *義寂(生没年不詳):新羅の僧。 *智達(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。 *智通(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。 *弁機(生没年不詳): *彦悰(): *(孫悟空): *(沙悟浄): *(猪八戒): ==年譜== ===生涯=== *607年:誕生。誕生年は異説あり。 *614年:出家。 *618年:洛陽から長安に移り、荘厳寺に滞在。 *619年:成都に移住。 *622年:成都で具足戒を受戒。 *623年:長安に戻り、大覚寺に滞在。 *629年:インドに旅立つ。 *633年:マガダ国に到着。ナーランダ寺院で戒賢に師事。 *642年:西インドを巡った後、ナーランダ寺院に戻る。 *645年1月:帰国。 *645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。 *646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。 *648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。 *649年:太宗が崩御。高宗が即位。 *653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。 *653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。 *657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。 *663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。 *664年2月5日:玉華寺で死去。 ===死後=== *664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。 *669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。 *672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。 *688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。 *821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。 *831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。 *839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。 *875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明? *1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。 *12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。 *1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。 *明末:『西遊記』成立。 *1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。 ===死後(日本)=== *764年(天平宝字8年):薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。 *813年(弘仁4年):興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。 *12世紀末:玄奘への関心が高まる。 *1251年(建長3年):西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 *14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。 *1461年(寛正2年):興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。 *1492年(明応1年):大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。 [[category:人物旧跡]]
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