ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。 |
玄奘旧跡
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
2020年7月15日 (水) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
玄奘(げんじょう)(602-664)は、唐代の渡印僧・訳経僧。陳氏。現在の河南省出身。三蔵法師。法相宗の開祖ともされる(弟子の基を開祖とすることが多い)
629年、出発。645年帰国。忌日法要を、三蔵会、玄奘会、玄奘三蔵会という。
目次 |
一覧
修行時代
渡印
帰国後
墓所など
門下
- 神昉(生没年不詳):上足四人の一人。
- 嘉尚(生没年不詳):上足四人の一人。
- 普光(生没年不詳):上足四人の一人。
- 円測(613-696):新羅の僧。新羅の王族。窺基とは異なる流れを作ったという。
- 慧立(615-?):
- 懐素(624-697):
- 道昭(629-700):日本の入唐僧。法相宗の初伝。
- 窺基(632-682):上足四人の一人。基。慈恩大師。
- 慧昭(650-714):玄奘、窺基に学ぶ。法相宗第二祖。
- 義寂(生没年不詳):新羅の僧。
- 智達(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
- 智通(生没年不詳):日本の入唐僧。法相宗第二伝。
- 弁機(生没年不詳):
- 彦悰():
- (孫悟空):
- (沙悟浄):
- (猪八戒):
年譜
生涯
- 607年:誕生。誕生年は異説あり。
- 614年:出家。
- 618年:洛陽から長安に移り、荘厳寺に滞在。
- 619年:成都に移住。
- 622年:成都で具足戒を受戒。
- 623年:長安に戻り、大覚寺に滞在。
- 629年:インドに旅立つ。
- 633年:マガダ国に到着。ナーランダ寺院で戒賢に師事。
- 642年:西インドを巡った後、ナーランダ寺院に戻る。
- 645年1月:帰国。
- 645年3月:勅命により弘福寺で経典翻訳を始める。
- 646年:太宗の命で『大唐西域記』全12巻を編纂。玄奘の記録と口述から弟子の弁機が編纂した。
- 648年:皇太子時代の高宗が亡き母の菩提のため、大慈恩寺を創建し、玄奘が弘福寺から移る。
- 649年:太宗が崩御。高宗が即位。
- 653年10月15日:大慈恩寺に「大唐太宗文皇帝製三蔵聖教序」碑を建立。
- 653年12月10日:大慈恩寺に「大唐三蔵聖教序記」(高宗撰)碑を建立。
- 657年:河南の招提寺に「聖教序」「聖教序記」碑を建立。
- 663年:陝西省大〓に大慈恩寺の碑の模刻として「同州聖教序碑」を建立。
- 664年2月5日:玉華寺で死去。
死後
- 664年4月15日:長安東郊の白鹿原に埋葬。
- 669年4月8日:勅命で長安南郊の興教寺に改葬。墓塔を建立。
- 672年:弘福寺に「大唐三蔵聖教序」碑を建立。太宗、高宗の碑文と玄奘訳般若心経が刻まれる。
- 688年:『大慈恩寺三蔵法師伝』全10巻が成立。貞観末に前半5巻を慧立が記し、後半5巻を彦悰が増補した。ともに弟子。
- 821-824年頃:義林が興教寺の玄奘墓塔を修復。
- 831年:再び興教寺の玄奘墓塔を修復。
- 839年:義林の遺言により弟子の令撿が興教寺の玄奘墓塔の銘文を刻す。劉軻の撰文。
- 875-884年頃:黄巣の乱を避けるため、可成が頂骨を長安から避難。場所は不明?
- 1027年2月5日:玄奘頂骨が、南京の建初寺の東岡に埋葬。改葬前の所在は不詳。
- 12-13世紀:『宋版三蔵取経詩話』刊行。玄奘を主人公とする物語の古形。杭州周辺か。
- 1386年:玄奘頂骨、建初寺の東岡から南岡に改葬。
- 明末:『西遊記』成立。
- 1942年:日本軍が南京郊外で石棺に入った玄奘遺骨を発見。
死後(日本)
- 764年(天平宝字8年):薬師堂西院の正堂障子に玄奘絵像が描かれる。
- 813年(弘仁4年):興福寺南円堂扉絵に玄奘絵像が描かれる。
- 12世紀末:玄奘への関心が高まる。
- 1251年(建長3年):西大寺叡尊、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
- 14世紀前半:『玄奘三蔵絵』が制作される。大乗院門跡に伝わる。
- 1461年(寛正2年):興福寺の三蔵会のため、南都絵所吐田座に玄奘御影を描かせる。
- 1492年(明応1年):大乗院門跡の尋尊が、玄奘相伝の舎利など、舎利31所分を納めるための「四方殿舎利厨子」を製作。この舎利は玄奘が頂明尊王から入手し、太宗に献上。のち天台山の道邃に渡り、義真が受け日本に将来。天台宗に相伝され、後白河法皇から宇治の御堂に納められ、さらに粉河寺円光房に渡り、幾人か経て龍華院懐継が受け、四恩院十三重塔に納められた。そして1460年7月13日、尋尊は四恩院を兼務した修南院光憲から舎利5粒を譲られた。