Warning: Parameter 3 to GoogleMaps::render16() expected to be a reference, value given in /home/users/2/boo.jp-shinden/web/wiki/includes/parser/Parser.php on line 3333
生国魂神社 - SHINDEN

ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

生国魂神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年7月1日 (土)

移動: 案内, 検索
生国魂神社
いくくにたま じんじゃ
Ikukunitama-jinja 004.jpg

通称「生国魂造」の複雑な屋根を持つ本殿

概要 日本の国土の神霊を祀る神社。
奉斎 生島神、足島神
(土岐昌訓論文)
所在地 大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9
所在地(旧国郡) 摂津国東成郡
所属(現在) 神社本庁
格式など 式内社名神大社朱印地拝領神社官幣大社別表神社
関連記事 生国魂神社旧跡国魂信仰八十島祭関連旧跡

左下が本社


目次

概要

生国魂神社(いくくにたま・じんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区にある、日本の国土の神霊を祀る国魂信仰の神社。八十島祭関連旧跡。本町橋に行宮が、大阪城に元宮跡(御旅所跡)がある。神宮寺として法案寺とその塔頭の生玉十坊があった。中世には接して石山本願寺が建てられた。

奉斎

  • 生島大神
  • 足島大神
  • 相殿:大物主大神[1]

生島神、足島神は、日本の国土の神霊とされる[2]。『古語拾遺』に「生島。是、大八州の霊なり。今生島の巫の斎ひ奉れるなり。」(岩波文庫版 35P) とある。この神は古代、天皇即位の翌年に実施されていた八十島祭の主祭神であり、宮中の神殿にも祀られていた王権に関わる重要な神である。八十島祭は難波津の島々を日本列島と見做して、国土の神霊を祀り、国土の生成発展と治世の安泰を願う、一世一代の祭りである。

生島神については「共に生気満ち諸事足らざるなきを讃美する称辞」[3]といい、「生国魂神」と同一視され、足島神の「たる」は「事物の完全充足」を意味し、「足国魂神」「咲国魂神」と同一視されている。

本地は薬師如来とされる。

歴史

神武天皇が東征の際、難波津に上陸して祭ったのが創始とされる[4]

伝説はともかく、生島神、足島神を祀る神社であるなら、八十島祭の祭場が起源だという見方もできるが、意外にもこの見解はあまり見られない。いずれにしても、古くは現在の大阪城辺りにあったらしい。

文献上の初出は、『日本書紀』「孝徳天皇紀」である。孝徳天皇は、当社の樹を伐採したため、「仏法を尊び、神祇を軽んじた」と評価された。樹の伐採は難波宮造営のためだと考えられている。

飛鳥時代、聖徳太子が生国魂神社の奇瑞を感じて、法案寺を創建、当社の別当となったとされる[5]

『延喜式』「神名帳」には「難波坐生国咲国魂神社二座」として記載され、四時祭には「難波大社」と書かれた。

中世、石山本願寺が創建されたのは当社の隣地であり別当寺の法案寺の境内地だったという。法案寺は浄土真宗となり、 森祐光寺と称したが、別に南寺を建て別当を相続した。

石山合戦で焼失し、1585年(天正13年)、大阪城の築城のため、現在地に遷座した。近世、生玉十坊という10ケ寺の社僧があった。法案寺のほか、医王院、観音院、桜本院、新蔵院、遍照院、曼陀羅院(以上、参道北側)、地蔵院、覚園院、持宝院(以上、参道南側。生玉公園のあたり)があった。

明治時代、神仏分離によって別当が廃止となった。社格制度が制定されると、知名度や規模を超えて、最高社格である官幣大社に列格したが、国土の神霊を奉斎し、天皇の即位儀礼に関係のある神社としての意義を認められたからだと思われる。

1912年(大正1年)の「南の大火」、1945年(昭和20年)の空襲により焼失。1950年(昭和25年)のジェーン台風により倒壊。1956年(昭和31年)に再建。

境内

  • 鴫野神社
    • 弁天社。かつて弁天島(現在の大阪ビジネスパークのあたり)にあった。淀姫が崇敬。淀姫の没後、淀姫神社が傍らに祀られた。用地買収により、生国魂神社境内に遷座。
  • 浄瑠璃神社
    • 近松門左衛門など文楽関係物故者を合祀。
  • 家造祖神社
  • 鞴神社
  • 生国魂神社行宮
  • 生国魂神社元宮跡

生玉十坊

  • 法案寺:南坊。
  • 医王院:青蓮寺となる。
  • 観音院:正祐寺となる。
  • 桜本院:生駒市の円正寺となる。桜本坊。
  • 新蔵院:正祐寺となる。
  • 遍照院:青蓮寺となる。
  • 曼陀羅院:持明院に合併。
  • 地蔵院:藤次寺に合併。
  • 覚園院:宗恵院となる。
  • 持宝院:三津寺に合併。

組織

神主

  • 松下将監()<>:[1]
  • 松下義宣(1664-1719)<>:松下将監の養子。枚岡神社水走忠純の子。1664年(寛文4年)生。1719年(享保4年)死去。松下三河守。[2]
  • 松下隆元(?-1795)<>:1795年(寛政7年)死去。玄櫛霊神[3]。松下出雲守。
  • 松下相摸()<>:1799年(寛政11年)在職か[4]
  • 松下采女()<>:1801年(享和1年)在職か[5]
  • 松下陸奧守()<>:1837年(天保8年)在職か[6]
  • 松下筑前守()<>:1864年(元治1年)在職か[7]

大宮司・宮司

代数 生没年 在職年 略歴
1 松園尚嘉 1840-1903 1872-1873 男爵松園家初代。九条尚忠の次男。大乗院門跡門主。興福寺別当237世。薬師寺別当。1840年(天保11年)生。僧名は隆芳。還俗して春日大社神職。1872年(明治5年)6月26日、生国魂神社大宮司兼広田神社大宮司[8]。7月20日、教導職権少教正[9]。1873年(明治6年)3月4日、丹生川上神社大宮司。1903年(明治36年)死去。
2 戸田玄成 1829-1879 1873-1879 福岡藩士。1829年(文政12年)生。1865年(慶応1年)勤王派の弾圧で投獄。1868年(明治1年)赦免。奥羽征討の軍監を務める。福岡藩権少参事。神祇官教部省に出仕。1873年(明治6年)3月4日、安房神社大宮司[10]。1873年(明治6年)3月31日、生国魂神社大宮司[11]。11月9日、権少教正[12]。1874年(明治7年)11月25日、少教正[13]大阪府中教院詰。1878年(明治11年)1月29日、制度改正で宮司[14]。1878年(明治11年)12月26日、中教正[15]。神道事務局大阪分局長。1879年(明治12年)7月2日、遠江新所村で客死[16]。51歳。コレラという。平之允、鋤とも名乗る。著書『葬祭事略』。(江島茂逸雜纂4[17]
3 西川吉輔 1816-1880 1879-1880 1879年(明治12年)9月1日から1880年(明治13年)1月7日まで生国魂神社宮司[18][19]。辞任して赴任せず。(略歴は、日吉大社#組織を参照)
4 松下隆和 生没年不詳 1880-1886 旧社家。1872年(明治5年)3月生国魂神社禰宜。1880年(明治13年)1月7日、生国魂神社宮司兼権少教正[20]。1885年(明治18年)大阪府皇典講究分所長。1886年(明治19年)11月13日まで[21]。著書『神事乃里登作例』[22][23]、『生国魂神社御神徳略記』。
5 藤井千尋 1837-1900 1886-1900 尊王志士。上野国群馬郡出身。1837年(天保8年)生。1869年(明治2年)弾正台大巡察。三条実美に仕える。堺県参事。1873年(明治6年)11月19日、奈良県権令[24]。1876年(明治9年)奈良県廃止と共に隠宅。1886年(明治19年)11月13日、生国魂神社宮司[25]。1900年(明治33年)5月7日退任[26]。8月15日死去[27]
6 生駒正臣 ?-1901 1900-1901 福岡藩出身。1869年(明治2年)外務省大録。1874年(明治7年)頃、茨城県中属。1881年(明治14年)頃、陸軍裁判所中録事。1882年(明治15年)審事補。1888年(明治21年)愛媛県並大分県副典獄。1900年(明治33年)5月7日、生国魂神社宮司[28]。1901年(明治34年)10月1日死去[29]。9月30日とも[30]
7 中川武俊 1846-1902 1901-1902 梨木神社宮司。金刀比羅宮宮司。弥彦神社宮司を経て1901年(明治34年)10月7日、生国魂神社宮司[31]。1902年(明治35年)8月10日、在職で死去[32]。(略歴は、八坂神社#組織を参照)
8 野田菅麻呂 1857-1945 1902-1917 四條畷神社宮司を経て1902年(明治35年)9月29日、生国魂神社宮司。1917年(大正6年)1月22日、熱田神宮宮司[33]。(略歴は、熱田神宮#組織を参照)
9 村上義雄 1850-1919 1917-1919 熊本藩出身。内務官僚。徳島県・台中県・新竹県・台北県・石川県の知事を歴任。錦鶏間祇候。1917年(大正6年)1月22日、生国魂神社宮司[34]。1919年(大正8年)6月12日死去[35]。70歳[36]
10 石川赳夫 1863-? 1919-1926 内務官僚。下野国下都賀郡赤麻村出身。1863年(文久3年)生[37]。1883年(明治16年)高知県属。1895年(明治28年)内務省臨時検疫局書記。1896年(明治29年)拓殖務省の属。1897年(明治30年)10月時点で、内務省社寺局寺院課・教務課に勤務[38]。1901年(明治34年)4月時点で神社局に勤務。1905年(明治38年)10月、新潟県三島郡長[39]。1906年(明治39年)4月、東頸城郡長[40]。1907年(明治40年)10月新潟県南魚沼郡長[41]。1908年(明治41年)6月、千葉県東葛飾郡長。1913年(大正2年)3月から5月まで千葉郡長。1916年(大正5年)5月30日、井伊谷宮宮司[42]。1919年(大正8年)9月5日、生国魂神社宮司[43]。1926年(昭和1年)5月13日退任[44]。共著『現行神社法令』[45]、『坂川治水記要』。
11 吉川頼易 生没年不詳 1926-1933 京都府久世郡出身。賀茂御祖神社禰宜。1913年(大正2年)9月8日、井伊谷宮宮司。1916年(大正5年)5月30日、大和神社宮司。1924年(大正13年)3月12日、長崎諏訪神社宮司[46]。1926年(昭和1年)5月13日生国魂神社宮司[47]。1933年(昭和8年)4月4日退任[48]。同年、10月13日から1936年(昭和11年)2月まで佐山村長[49][50]。著書『言霊の花』[51][52][53][54]、「稲作肥料試験成績」[55]
12 生田長浩 1878-1943 1933-1943 敢国神社宮司。生田神社宮司。宇佐神宮宮司。1933年(昭和8年)4月4日生国魂神社宮司[56]。1943年(昭和18年)1月7日、在職中死去。(略歴は宇佐神宮#組織を参照)
13 二宮正彰 1894-1981 1943-1978 神社本庁長老。富山県出身。1894年(明治27年)生。1916年(大正5年)国学院大学師範部卒。1917年(大正6年)宮内省式部職に出仕。1924年(大正13年)橿原神宮禰宜。1925年(大正14年)6月30日、橿原神宮権宮司。1929年(昭和4年)3月5日から1932年(昭和7年)4月16日まで藤島神社宮司。1932年(昭和7年)4月16日から1933年(昭和8年)6月10日まで函館八幡宮宮司。1933年(昭和8年)皇典講究所主事。1936年(昭和11年)12月、吉田神社宮司。1943年(昭和18年)2月5日[57]から1978年(昭和53年)3月31日まで生国魂神社宮司。1973年(昭和48年)神社本庁長老。京都国学院院長。1981年(昭和56年)5月16日死去。遺稿集『神万物心道万行源』『かみさまのおはなし』。
14 二宮正彦 1930-1989 1978-1989 二宮正彰の子。1930年(昭和5年)生。1958年(昭和33年)関西大学大学院文学研究科修了。1962年(昭和37年)生国魂神社権禰宜。禰宜、1971年(昭和46年)権宮司。1978年(昭和53年)3月31日、生国魂神社宮司。1980年(昭和55年)大阪芸文協会会長。1989年(平成1年)4月2日、在職で死去。著書『古代の神社と祭祀』
15 森岡一良 1924- 1989-1999 兵庫県出身。1924年(大正13年)生。1941年(昭和16年)京都国学院卒。1953年(昭和28年)賀茂御祖神社権禰宜。1959年(昭和34年)賀茂御祖神社禰宜。1971年(昭和46年)生国魂神社禰宜。1983年(昭和58年)生国魂神社権宮司。1989年(平成1年)6月1日から1999年(平成11年)6月30日まで生国魂神社宮司。
16 津江正孝 生没年不詳 1999-2001 1978年(昭和53年)生国魂神社に奉職。今宮戎神社権禰宜、禰宜。1993年(平成5年)生国魂神社権宮司。1999年(平成11年)7月1日から2001年(平成13年)1月19日まで生国魂神社宮司。
17 中山幸彦 1946- 2001- 1946年(昭和21年)生。皇学館大学卒。1969年(昭和44年)靖国神社宮掌。1972年(昭和47年)熱田神宮宮掌。1974年(昭和49年)大神神社権禰宜、禰宜。奈良県神道青年会長。1983年(昭和58年)大阪天満宮権禰宜、禰宜を経て2001年(平成13年)1月20日、生国魂神社宮司。



少宮司

  • 杉浦直樹()<>:
  • 藤江卓三(1845-1887)<>:龍野藩の儒官。播磨出身。江戸で塩谷宕陰に学ぶ。戊辰戦争で越後に赴き、新潟県判事となる。のち生国魂神社宮司。1876年(明治9年)8月29日、権少教正[58]
  • 法藤卓蔵()<>:[59]

画像

資料

  • 『古事類苑』「生国魂神社」[60]
  • 『大阪府神社史資料』[61]
  • 「生国魂神社古図」[62]:寛文年間
  • 古絵図[63]:1098年(承徳2年)のものという。
  • 1930『大阪府官幣社現行特殊慣行神事』[64]
  • 1941『官国幣社特殊神事調』「生国魂神社」[65]


  • 生国魂神社由緒書
  • 『真言密教聖典』
  • 野田菅麿1919『官幣大社生国魂神社誌』[66]
  • 天坊幸彦 1947「生国魂神社と宮中二十三座神」[67]
  • 1965『難波宮址の研究』「難波宮と生国魂神社」[68]
  • 1985『大阪城西界隈小史』「生国魂神社行宮」[69]
  • 仁木宏1994「法安寺と生玉社」[70]
  • 菊岡倶也1998「大阪・生国魂神社の家造祖神社社殿」[71]
  • 山下聡一2008「近世大坂生玉神社における社家仲間」[72]
  • 山下聡一2013「近世大坂生玉神社の境内と門前町」『身分的周縁と地域社会』
  • 山下聡一2016「生玉神社社家株と泉州泉郡池田下村百姓佐五兵衛」『歴史科学』224
  • 伊藤純2019「難波での祭祀からうかがえる平安朝廷の歴史観」[73]
  • 廣岡幸義2020「生國魂神社の大正期再建における小川敬吉の役割」『建築歴史・意匠』
  • 廣岡幸義2017「生國魂神社の大正期における境内整備と社殿再建について」『建築歴史・意匠』


脚注

  1. 以上、由緒書による
  2. ただし、生国魂神社の祭神を生島神、足島神とすることを記した古典籍はないようである。
  3. 『神道大辞典』
  4. 由緒書
  5. 『真言密教聖典』48ページ
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%94%9F%E5%9B%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール