ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

白雲神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

2020年8月30日 (日) 時点におけるWikiSysopKARASUYAMA (トーク | 投稿記録)による版
移動: 案内, 検索
京都御苑・白雲神社

白雲神社は、京都府京都市の京都御苑内にある弁財天信仰の神社。祭神は市杵島姫命。元は西園寺の妙音堂で、のち西園寺家邸の鎮守となった。西園寺家は琵琶の家元であり、楽神として信仰されている。かつては秘曲伝授がこの妙音堂で行われたという特殊性からなのか、京都御苑の中に残されている。別称は妙音弁財天西園寺妙音堂

歴史

藤原公経(西園寺公経)が北山邸と西園寺の造営にあたり、第一に建立した妙音堂が起源。1224年(元仁1年)12月、安嘉門院(皇后邦子内親王)臨席して西園寺子院の成就心院が別当となり開眼した。藤原師長の念持仏と伝わる二臂の琵琶弾奏形の弁才天坐像が神像として現存し、鎌倉時代の作だと考えられている[1]。西園寺家と盛衰を共にし、のち真言宗京極寺に遷座。以降、たびたび妙音講が営まれた記録が貴族の日記類に残る。成就心院は15世紀中頃には宝泉寺という寺院が兼務していた。

1769年(明和6年)、現在地の西園寺邸に西園寺賞季が再興。京極寺の僧侶が成就心院を兼務した(成就心院の堂舎はなく名前だけか)。皇室の祈祷所とされた。長日祈祷を行い、御所に巻数を献上した。

1788年(天明8年)1月、火災。 1800年(寛政12年)巳日講の初見。 1840年(天保11年)修復。皇室より寄付があった。拝殿を新築した。 1846年(弘化3年)修復。1854年(安政1年)火災。 1857年(安政4年)に社殿修復。この時も皇室から寄付があった。 明治維新で西園寺家は東京に移転。 1874年(明治7年)式部寮、西園寺家所有の楽器を預かる(1877年(明治10年)11月2日に返却)。 1876年(明治9年)10月、蔵林寺が妙音弁財天像を預かる。11月、巳日講が遷座差し止めを求める。 1877年(明治10年)、妙音像を従来通り祀ることを願う。4月、仏堂として京都府が認可し巳日講に委任。 1878年(明治11年)、竹生島の都久夫須麻神社を勧請する形で、白雲神社と改称した。白雲の名は蛤御門周辺の村名による。 1883年(明治16年)、社務所を新築するが宮内省から撤去命令が出る。 1885年(明治18年)、境内地が御料地となる。 1890年(明治23年)1月14日、前拝所を造成。 1894年(明治27年)3月26日、本殿再建 大正年間、遙拝所建立。 1951年(昭和26年)10月、境内地無償譲渡。 2008年(平成20年)社殿修復。


分社として西園寺流琵琶を相伝した伏見宮家出町妙音堂がある。現西園寺にも弁天堂がある。

(由緒書、「西園寺家の妙音天信仰について」ほか)

境内

京都御苑(国土地理院空中写真より)

資料

  • 「西園寺家文書」:「西園寺家の妙音天信仰について」[2]所収。
  • 荻野三七彦1981「西園寺の妙音天像」『古文書研究』17・18合併号
  • 石原康夫1990『私考弁才天記』
  • 西田かほる1999「西園寺家の妙音天信仰について」[3]
  • 五味文彦2000『芸能の中世』
  • 土屋紀慶2003「中世における妙音天:楽と信仰の面から」[4]
  • 猪瀬千尋2011「弁才天を記す基礎文献についての分析:西園寺妙音堂本尊の究明に向けて」『名古屋大学比較人文学研究年報』8
  • 猪瀬千尋2012「西園寺北山第妙音堂と琵琶秘曲伝授:空間の復元と儀礼の再現を通して」『芸能史研究』197
  • 猪瀬千尋2018「妙音堂について」『中世王権の音楽と儀礼』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール