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真宗大谷派姫路船場別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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真宗大谷派姫路船場別院(しんしゅうおおたには・ひめじせんば・べついん)は、兵庫県姫路市にある真宗大谷派別院。寺号は本徳寺船場御坊姫路御坊船場本徳寺。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院本徳寺御山廟所がある。

目次

歴史

蓮如創建の坊舎が起源とされる。本願寺の東西分立のとき、本徳寺住職代務となっていた住職夫人の顕妙尼(証如の娘)は、東本願寺に付くことを希望したが、姫路藩主池田輝政が領内の末寺は全て西本願寺に付くように命じたため、本徳寺は西派の寺院となり(亀山・本徳寺)、東派の拠点は失われた。

池田家が転封し、東派門徒で教如とも親しかった本多忠政が姫路藩主となると、元和4年(1618)、忠政は寺地を寄進し東本願寺末の本徳寺創建を許可した。寛文3年(1663)船場御坊となり、享保3年(1718)に現在の本堂を再建した。平成20年(2008)、神戸別院を合併した。近年まで連枝が住職に就任した全国でも珍しい別院という。

組織

歴代

  • 5教珍(?-1657)<-1618-?>:寿継。能登本念寺1世顕珍(飯貝本善寺の後継者だったが東西分裂で退去)の子。1618年(元和4年)住職。大和郡山に隠居。1657年(明暦3年)死去。顕浄院と号す。
  • 6宣純(?-1663)<>:従継。宣澄とも。教珍の子。1663年(寛文3年)死去。浄沢院と号す。
  • 7琢玄(?-1709)<1663-1787>:瑛白。東本願寺14世琢如の子。1663年(寛文3年)住職。1683年(天和3年)越前本瑞寺を兼務。1709年(宝永6年)死去。演慈院と号す。
  • 8一玄(?-1728)<1687-1723>:海澄。東本願寺一如の子。1687年(貞享4年)住職。越中善徳寺住職を兼務。1718年(享保3年)本堂再建。1723年(享保8年)隠居。1728年(享保13年)死去。聞光院と号す。
  • 9真純()<>:一玄の子。早世。欣浄院と号す。
  • 10真澄()<>:一玄の子。早世。恩重院と号す。
  • 11敬証(?-1775)<>:真澄の内室。大通寺出身。1775年(安永4年)死去。誓好院と号す。
  • 12乗証()<>:遍珍。
  • 13
  • 14
  • 15達相(?-1859)<>:朗眼。1859年(安政6年)死去。超勝院と号す。
  • 16達威(?-1904)<>:大谷達子。達相の内室。達如の娘。1904年(明治37年)死去。真香院と号す。
  • 17大谷勝珍(1854-1924)<>:厳継。達相と達威の子。1854年(安政1年)生。幼名は亀丸。1924年(大正13年)死去。顕明院と号す。
  • 18大谷瑩心(?-1937)<>:大信寺住職。大谷勝尊の子。1937年(昭和12年)11月5日死去。広開院。
  • 19大谷暢心(?-2008)<?-2008>:2008年(平成20年)12月28日死去。78歳。


  • 大谷昭仁()<>:流通科学大学教授。


  • 一応(1684-1756)<1738->:長浜大通寺4世。超絶院。東本願寺16世一如の五男。海徳。
  • 真央(1721-1791)<1762->:長浜大通寺5世。一応の子。横超院。性徳。含山と号す。
  • 達照()<>:浄行院。

参考文献

  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E8%88%B9%E5%A0%B4%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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