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真宗大谷派姫路船場別院

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2023年7月1日 (土)

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真宗大谷派姫路船場別院(しんしゅうおおたには・ひめじせんば・べついん)は、兵庫県姫路市にある真宗大谷派別院。寺号は本徳寺船場御坊姫路御坊船場本徳寺。別格別院だった(大谷派寺院録)。(参考:同名寺院本徳寺御山廟所がある。

目次

歴史

蓮如創建の坊舎が起源とされる。本願寺の東西分立のとき、本徳寺住職代務となっていた住職夫人の顕妙尼(証如の娘)は、東本願寺に付くことを希望したが、姫路藩主池田輝政が領内の末寺は全て西本願寺に付くように命じたため、本徳寺は西派の寺院となり(亀山・本徳寺)、東派の拠点は失われた。

池田家が転封し、東派門徒で教如とも親しかった本多忠政が姫路藩主となると、元和4年(1618)、忠政は寺地を寄進し東本願寺末の本徳寺創建を許可した。寛文3年(1663)船場御坊となり、享保3年(1718)に現在の本堂を再建した。平成20年(2008)、神戸別院を合併した。近年まで連枝が住職に就任した全国でも珍しい別院という。

伽藍

  • 本堂
  • 大玄関
  • 白書院
  • 明治天皇行在所
  • 志士墓地:官修墳墓
  • 御山廟所
  • 西南戦争慰霊碑:沿革、碑文[1]

組織

歴代住職

  • 諸家分脈系図[2]
世数 法号 法諱 院号 生没年 在職年 略歴
1 蓮如 兼寿 信証院 1415-1499 不詳 兼寿。信証院。
2 実玄 兼珍 1497-1515 不詳 兼珍。実如の第五子。1515年(永正12年)3月1日死去。19歳。
3 実円 兼澄 1498-1555 不詳 兼澄。実如の第六子。1555年(弘治1年)12月8日死去。58歳。(東別院では実勝は歴代に数えず)
4 証専 教什 1540-1573 不詳 教什。実勝の子。1573年(天正1年)10月5日死去。34歳。
5 教珍 寿継 顕浄院 ?-1657 1618-? 寿継。能登本念寺1世顕珍(飯貝本善寺の後継者だったが東西分裂で退去)の子。1618年(元和4年)7月、船場本徳寺住職。寛永年間、大和郡山の南来寺(廃絶)に隠居。1657年(明暦3年)1月、死去。顕浄院、二位と号す。
6 宣純 従継 浄沢院 ?-1663 不詳 教珍の子。母は教妙。初めは宣澄、従円と称したが、のち宣純、従継と名乗る。1623年(元和9年)得度。1661年(寛文1年)巡讃。1663年(寛文3年)2月死去。浄沢院と号す。
7 琢玄 瑛白 演慈院 1648-1709 1663-1697? 瑛白。東本願寺14世琢如の子。1648年(慶安1年)生。幼名は漸丸。16歳で得度。1663年(寛文3年)本徳寺住職。1683年(天和3年)4月12日、本瑞寺を兼務。同月、越前百カ寺騒動。1692年(元禄5年)本瑞寺本堂再建。1697年(元禄10年)本徳寺を引退し、本瑞寺の専任となる。1709年(宝永6年)5月9日死去。62歳。演慈院と号す。初名は琢純。
8 一玄 海澄 聞光院 1675-1728 1687-1723 海澄。東本願寺一如の子。琢玄の婿養子。1687年(貞享4年)本徳寺住職。1688年(元禄1年)得度。1703年(元禄16年)から1707年(宝永4年)まで善徳寺住職を兼務。1718年(享保3年)本堂再建。1723年(享保8年)隠居。1728年(享保13年)1月13日死去。54歳。聞光院と号す。
9 真純 性澄 欣浄院 生没年不詳 1720- 性澄。一玄の子。初名は真玄。幼名は安丸。東本願寺17世真如の猶子。連枝となる。1719年(享保4年)8月得度。9月巡讃。11月導師。1720年(享保5年)4月、本徳寺入寺。1735年(享保20年)4月鍵役。某年(同三とある)9月8日死去。33歳。欣浄院と号す。
一応 海徳 超絶院 1684-1756 1738- 海徳。長浜大通寺4世。東本願寺16世一如の五男。超絶院と号す。歴代に数えず。
10 真澄 性珍 恩重院 1724-1758 1742-1758 性珍。一玄の子。幼名は乙丸。室は敬証。初めは聖安寺の法嗣となる。1733年(享保18年)11月得度。内陣。1736年(元文1年)素絹。1737年(元文2年)賜一字。1739年(元文4年)助音。1740年(元文5年)本徳寺看職。1742年(寛保2年)正式に本徳寺住職となる。4月巡讃。1749年(寛延2年)11月、連枝格。1750年(寛延3年)11月導師。1758年(宝暦8年)7月4日死去。35歳。恩重院、兵部卿と号す。真證とも。
真央 性徳 横超院 1721-1791 1762- 性徳。長浜大通寺5世。一応の子。横超院、含山と号す。歴代に数えず。
11 敬証 真澄 誓好院 ?-1775 不詳 真澄の内室。一応の娘。真央の妹。長浜大通寺の出身。宇多尾子、律子。1759年(宝暦9年)閏7月落飾。真央の辞任後、乗証の就任まで本徳寺看職にあった。1775年(安永4年)4月14日死去。誓好院と号す。
12 乗証 遍珍 得遇院 1764-1781 不詳 遍珍。真央の子。幼名は利与丸。東本願寺19世乗如の猶子。連枝。1773年(安永2年)2月得度。同月助音、巡讃。1776年(安永5年)導師。1781年(天明1年)3月18日死去。18歳。得遇院と号す。
13? 真高 性栄 常護院 1736-1788 1784-1788 性栄。美濃・願証寺6世。善徳寺12世真源の子。1784年(天明4年)連枝となり、本徳寺住職となる。1788年(天明8年)5月20日死去。53歳。常護院と号す。
14? 達照 朗慧 浄行院 ?-1828 ?-1827 朗慧。1827年(文政10年)9月隠居(謹慎?)。1828年(文政11年)9月8日、謹慎停止。9月17日死去。浄行院、至静閣と号す。
15 達相 朗厳 超勝院 ?-1859 1829-1859 朗厳。朗眼。幼名は良丸。1829年(文政12年)7月得度[3]。1859年(安政6年)10月2日死去。超勝院と号す。
16 達威 真香院 ?-1904 1866- 大谷達子。達相の内室。達如の娘。1866年(慶応2年)8月25日、薙髪。本徳寺を相続。1904年(明治37年)10月30日死去[4]。真香院と号す。雪子。
17 厳継 大谷勝珍 顕明院 1854-1924 ?-1924 厳継。達相と達威の子(大谷光勝の子とも)。1854年(安政1年)生。幼名は亀丸。1862年(文久2年)10月29日得度[5](27日とも[6])。権少教正。1872年(明治5年)本山事務執綱補。1873年(明治6年)4月、東京宗務局勤務。1882年(明治15年)11月から1883年(明治16年)9月まで参務。1896年(明治29年)12月から1897年(明治30年)1月まで本山執事。1924年(大正13年)4月9日死去[7]。顕明院と号す。
18 大谷瑩心 広開院 1898-1937 1924-1937 大信寺9世。大谷勝尊の子。1924年(大正13年)本徳寺住職。1937年(昭和12年)11月5日死去。広開院と号す。(略歴は八尾別院#組織を参照)
19 大谷暢心 1930-2008 1952-2008 1930年(昭和5年)生。1952年(昭和27年)大谷大学文学部卒。同年、船場別院住職[8]。2008年(平成20年)12月28日死去。78歳。

画像

資料

  • 「姫路船場本徳寺開基略記」[9]
  • 「英賀御坊来由并貞照院殿御帰参之事」[10]
  • 木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9C%9F%E5%AE%97%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E6%B4%BE%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E8%88%B9%E5%A0%B4%E5%88%A5%E9%99%A2」より作成

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