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真宗大谷派高山別院
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
真宗大谷派高山別院
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'''真宗大谷派高山別院'''(しんしゅうおおたには・たかやま・べついん)は、岐阜県高山市にある[[真宗大谷派]]の[[真宗大谷派の別院寺院|別院]]。寺号は'''照蓮寺'''。 == 歴史 == [[親鸞]]弟子の'''嘉念坊善俊'''が創建したとされる。善俊は、[[後鳥羽上皇]]の第12皇子とも、[[浄興寺]][[善性房]]の子で上皇の皇孫とも言われる。伊豆三島で京都に向かう親鸞に出会い、弟子となったという。 飛騨国白川郷鳩ケ谷に入り、'''照蓮寺'''を創建した。飛騨に真宗が伝わった最初という。まもなく飯島に移転した。善俊は弘安5年(1282)に没した。 長享2年(1488)、白川郷に拠点を置く幕府の内ヶ島為氏は、加賀一向一揆の一国支配に脅威を抱き、照蓮寺を焼き討ちした。10代住職'''明教'''は自害したという。 その遺児'''明心'''は[[永平寺]]で育てられ、15歳で大坂に[[蓮如]]を、山科に実如を訪ね、照蓮寺再興の許しを得た。実如の仲介で内ヶ島氏と和睦して帰国。永正元年(1504)、白川郷中野に本堂を立てた。明心と13代了教は周辺地域に40ケ所以上の道場を開いたという。 天正13年(1585)、[[豊臣秀吉]]の命で飛騨に侵攻した金森長近は照蓮寺と協調する姿勢を取り、高山に寺地を寄進して本堂を立てた。石山合戦では教如を支持し、分立の際には[[東本願寺]]に従った。 のち金森家から'''従純'''が入り、東本願寺13代宣如六女の'''佐奈姫'''を娶った。飛騨、美濃、越中、信濃に末寺90寺を抱えた触頭となったが、金森家が転封になると庇護を失い、末寺との軋轢が表面化した。17代'''一乗'''は元禄16年(1703)、本山に献上し、'''高山御坊'''となった。 旧地の白川郷中野には掛所として'''心行坊'''が置かれていた。現存最古の浄土真宗建築という。明治になり、本寺と同じく'''照蓮寺'''と称した。戦後、ダム建設のため水没することになり、昭和36年(1961)、高山市内に移転した。[[堀端・照蓮寺]]。善俊の墓もある。 == 参考文献 == *木場明志監修、2012『別院探訪』真宗大谷派宗務所出版部 [[Category:岐阜県]]
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