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石山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
石山寺
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'''石山寺'''(いしやまでら)は、滋賀県大津市にある、[[観音信仰]]の[[真言宗]]寺院。[[西国三十三所観音霊場]]第13番札所。[[東寺真言宗]]。本尊は[[如意輪観音]]。[[良弁旧跡]]。[[東大寺関連旧跡]]。 別格本山から大本山に昇格したらしい。山号は石光山。 == 歴史 == 749年(天平感宝1年/天平勝宝1年)、良弁が小堂を築いたのが起源とされる。 本格的な整備は奈良時代、造東大寺司の配下に造石山寺所が設置されてからのこと。761年(天平宝字5年)12月から翌年8月にかけて本堂、法堂、鐘楼、経蔵、僧房、食堂、写経所などが建設された。石山寺の創建は[[孝謙上皇]]の[[保良宮]]造営と関連すると考えられている。保良宮は759年(天平宝字3年)11月に建設が始められ、761年(天平宝字5年)10月に上皇が御幸している。 平安時代から貴族がたびたび参詣した。紫式部が『源氏物語』を石山寺で起筆したと伝える。917年(延喜17年)、[[宇多上皇]]が御幸。 石山寺に設置された写経所は平安時代末まで機能したらしく、ここで書写・収集された経典は「石山寺一切経」として現存。730年(天平2年)の『瑜伽師地論』が最古。正倉院聖語蔵の経典と並ぶ国内の最古級の写経群とされる。 鎌倉時代、[[源頼朝]]が伽藍を整備。 1336年(延元1年/建武3年)、[[後醍醐天皇]]軍と[[足利尊氏]]軍が近くで対峙した時、兵が寺庫を破ったという。 1573年(天正1年)、将軍足利義昭軍と[[織田信長]]軍が衝突し、伽藍が焼失した。 江戸時代には[[仁和寺宮]]の管轄となる。 秘仏となった本尊の開帳がたびたび行われた。33年ごとを基本として天皇即位の臨時開帳もあった。 == 伽藍 == *本堂:奈良時代建立。1078年(承暦2年)、本堂焼失。1097年(承徳1年)本堂再建。奈良時代の平面を維持しているという。1602年(慶長7年)礼堂(1599年とも)を改築。[[如意輪観音]]像は平安時代のもので1097年(承徳1年)再建時の造立と考えられている。「日本唯一の勅封秘仏」という。33年ごとと天皇即位の翌年に開帳。正面に懸け造りの礼堂が接続する。 *多宝塔:金剛界[[大日如来]]を祀る。1194年(建久5年)建立。大きく改造された天野山の塔(平安時代末)を除けば日本で現存最古の多宝塔という。 *護摩堂:廃絶。 *東大門:金剛力士像を祀る。山門、総門。源頼朝が寄進。淀殿が全面的に改修したという。 *御影堂:[[空海]]と淳祐を祀る。元は法華堂だったが、普賢院で行われていた御影供を普賢院廃絶のため法華堂に移してから御影堂になったという。良弁も祀られていたが現在はないらしい。淳祐像は1398年造立。 *三十八所権現社:[[天智天皇]]までの歴代天皇38人を祀るという。吉野蔵王権現の眷属の三十八所権現と関係あるかもしれない。石山要記では二十八部衆と十羅刹という。近江輿地誌略では十六善神と十二神将とする。拝殿と共に1602年に再建。 *金龍龍王社: *[[比良明神影向石]]:[[比良明神]]が出現した磐座。良弁が吉野蔵王権現の神示で石山を訪れた時、この石の上に翁がおり、石山寺の創建につながった。この翁が比良明神だったという。 *龍蔵権現社: *八大龍王社:歴海が龍穴で孔雀経を読誦すると[[龍王]]が現れたという。 *観音堂:[[西国霊場]]の三十三観音を合祀する。 *毘沙門堂:[[兜跋毘沙門天]]、[[吉祥天]]、[[善〓師童子]]を祀る。1773年建立。 *宝篋印塔:南北朝時代の石塔。[[四国霊場]]のお砂踏みがある。 *[[石山寺蓮如堂|蓮如堂]]:[[蓮如]]を祀る。元来は三十八所権現社の拝殿。近代になって蓮如堂とされた。 *経蔵: *鐘楼: *宝蔵:1808年建築 *紫式部塔:類例のない宝篋印塔を三重に重ねた石塔。寄せ集めで作られたものではないという。 *淳祐供養塔。宝塔。鎌倉時代後期。 *宝塔:めかくし石と呼ばれる。 *三重宝篋印塔 *源頼朝塔:宝篋印塔。[[源頼朝]]を祭る。 *亀谷禅尼塔:宝篋印塔。亀谷禅尼は源頼朝の次女の乳母という。 *悪源太塔:宝篋印塔 *心経堂:1990年(平成2年)建立。如意輪観音を祀り、奉納された写経を収める。 *豊浄殿:宝物館 *光堂:本尊は[[阿弥陀如来]]。鎌倉時代に存在した同名の堂を石山を発祥とする東レが2000年(平成12年)に寄進。 *霊仙碑:日本人僧侶で唯一人、三蔵法師の号を中国皇帝から認められた[[霊仙]]を称える。霊仙三蔵碑。 *閼伽井屋: *大黒天堂: *大湯屋:1665年もしくは1733年の再建、 *朗澄碑:経典整備に尽力した朗澄を記念する碑。死後は鬼となって経典を守護すると遺言したことから鬼の姿で彫られている。「朗澄律師大徳遊鬼境」の中にある。1999年(平成11年)に建てられた。 == 子院 == 院家、塔頭ともいう。門内には八つ。本坊を成就院と称したというが不詳。 *普賢院:淳祐の住房。 *勝南院:[[毘沙門天]]。[[源頼朝]]の乳母が隠棲した。 *西本坊: *中西坊: *湖月坊: *多聞坊: *東池坊: *梅本坊: *岸本坊: *宝性院:現存。石山寺寺務所となっている。近世の庫裡と書院、式台玄関が現存。 *明王院:現存。 *吉祥院:現存。 *自性院: *密蔵院:現存。1893年(明治26年)、島崎藤村が滞在。 *持宝院:旧称は宝幢院。 *世尊院:1075年(承保2年)には存在していた。1877年(明治10年)焼失して廃絶。1979年(昭和54年)に発掘調査されている。復興? *円乗院: *法輪院:現存。近世の庫裡と書院、式台玄関が現存。持仏堂がある。 ==開帳== 33年ごとの開帳の他、天皇即位記念開帳などがある。 *1603年(慶長8年)3月17日:再建にともなう開帳? *1613年(慶長18年)3月18日:後水尾天皇即位?33年相当 *1643年(寛永20年)4月17日: *1687年(貞享4年)6月11日:譲位にともない開帳。院使が参向。白銀50両 *1743年(寛保3年)3月7日:「御代始の例」で開帳。28日、桜町上皇の使として皇太后宮権大夫庭田重熙が参向。 *1764年(明和1年)3月27日:開帳。前権大納言飛鳥井雅香が代参。 *1781年(天明1年)4月27日:即位にともない開帳。前参議梅小路定福が参向。 *1848年(嘉永1年)4月22日:開帳。即位時?勅使として権中納言東坊城聡長が参向。 *1961年(昭和36年): *1991年(平成3年):平成即位 *2002年(平成14年): *2020年(令和2年):令和即位 == 組織 == ===歴代座主(古代中世)=== {|class="wikitable" |- !style="width:5%" |世数 !style="width:10%" |名 !style="width:10%" |生没年 !style="width:10%" |在職年 !style="width:65%" |略歴 |- | |[[良弁]] |689-773 | |石山寺開山。[[東大寺]]開山。 |- |1 |[[聖宝]] |832-909 | |[[醍醐寺]]開山。 |- |2 |観賢 |854-925 | |聖宝の弟子。[[仁和寺]]別当。[[東寺]]長者。[[醍醐寺]]座主。[[金剛峰寺]]座主。[[東大寺]]検校か。925年(延長3年)6月11日死去。 |- |3 |淳祐 |890-953 | |石山寺中興。[[菅原氏]]。[[菅原道真]]の孫。通称は石山内供、普賢院内供。 |- |4 |寛忠 |906-977 | |敦固親王の王子。906年(延喜6年)生。祖父[[宇多法皇]]のもとで出家。大安寺に住す。双岡我覚寺(池上寺)を開く。954年(天暦8年)2月13日、[[禅林寺]]座主(歴代外)・観心寺座主。石山寺も兼務。東寺長者。977年(貞元2年)4月2日死去。72歳。通称は池上僧都。 |- |5 |深覚 |955-1043 | |右大臣藤原師輔の子。955年(天暦9年)生。[[勧修寺]]長吏。東大寺別当。東寺長者。977年(貞元2年)2月20日、[[禅林寺]]5世・観心寺座主。石山寺も兼務。1043年(長久4年)9月14日死去。 |- |6 |深観 |1001-1050 | |[[花山天皇]]の第四皇子。1001年(長保3年)生または1003年(長保5年)生。深覚の弟子。1022年(治安2年)10月7日、禅林寺6世・観心寺座主。石山寺も兼務。1046年(永承1年)、東寺長者27世。1050年(永承5年)6月15日死去。金剛峰寺座主。東大寺別当73世。禅林寺、坐禅院と号す。 |- |7 |良深 |1025-1077 |1049-1077 |昭登親王王子。花山天皇の皇孫。深観の甥。1025年(万寿2年)生。1049年(永承4年)、禅林寺座主(歴代外)・観心寺・石山寺と神護寺の座主となる。1074年(承保1年)10月27日、東寺長者。1077年(承暦1年)8月24日死去。 |- |8 |覚仁 |生没年不詳 |1077- |内大臣藤原能長の子。定賢、良深から付法。1077年(承暦1年)8月13日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。覚任。 |- |9 |実意 |生没年不詳 |1110- |春宮大夫藤原公実の子。覚仁に入室。寛助から付法。1110年(天永1年)、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。同年7月27日官符。 |- |10 |公祐 |1134-1196 |1152- |内大臣三条公教の子。1134年(長承3年)生。実意に入室。禎喜から付法。内大臣僧都。1152年(仁平2年)8月16日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。1196年(建久7年)死去。 |- |11 |範賢 |1164-? |1179- |中納言藤原成範の子。1164年(長寛2年)生。字は浄光。叔父の醍醐寺勝賢に入室。1179年(治承3年)8月15日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。没年不詳。良範も同一人物か。通称は中納言僧都。 |- |12 |公深 |?-1217 |1197-1217 |左大臣三条実房の子。[[仁和寺]]4世の覚法法親王の弟子。範賢から付法。1197年(建久8年)6月7日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。1217年(建保5年)8月18日死去。 |- | |(長厳) |1152-1228 |1217-1221 |歴代外?[[紀氏]]。1152年(仁平2年)生。[[後鳥羽天皇]]護持僧。真言僧でありながら1204年(元久1年)、[[熊野三山]]検校となる。1209年(承元3年)12月18日、[[新熊野]]検校。1217年(建保5年)9月1日、石山寺座主に補任。1218年(建保6年)、禅林寺・石山寺・神護寺・観心寺の4カ寺を管領する。教深が継ぐべきところを割って入り、認められた。1221年(承久3年)の承久の乱で陸奥に配流。1228年(安貞2年)7月16日、配所で死去。通称は刑部僧正。鎌倉[[新宮神社]]祭神とも。 |- | |(能意) |生没年不詳 |1221-? |歴代外?1221年(承久3年)9月26日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺・神護寺の座主。まもなく死去。 |- | |(真恵) |1163-1239 |1222-1222 |源通能の子。1163年(長寛1年)生。延杲に学び、能意の弟子となる。仁和寺金剛幢院に住す。1198年(建久9年)東寺凡僧別当。教深と競望し、1222年(貞応1年)座主。1229年(寛喜1年)東寺三長者。1236年(嘉禎2年)11月4日東大寺別当。1239年(延応1年)1月21日死去。 |- |13 |教深 |生没年不詳 |1222-1234 |正親町三条公氏の子。成賢に入壇。東院、勝南院、奥院、林泉坊に住す。1204年(元久1年)5月12日、範賢の契状で公深の後任と定められるが、長厳、能意が割って入る。1222年(貞応1年)12月19日、禅林寺・観心寺・石山寺・神護寺の座主。 |- |14 |実位 |1212-? |1234- |正親町三条公氏の子。1212年(建暦2年)生。教深の弟か。醍醐寺憲深に付法。勝南院、青龍院に住す。1234年(文暦1年)4月17日、禅林寺座主(歴代外)、観心寺座主、石山寺座主(神護寺は含まれない)。1245年(寛元3年)3月2日、石山寺本尊を修復。吉田に隠居。石山法印と称す。 |- |15 |公遍 |生没年不詳 |1254- |正親町三条実蔭の子。1254年(建長6年)10月11日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺の座主。1256年(康元1年)6月2日宣旨。 |- | |(長能) |生没年不詳 |1257- |歴代外?1257年(正嘉1年)5月1日、禅林寺(歴代外)・観心寺・石山寺の座主の院宣。 |- |16 |守恵 |?-1313 |1262- |左大臣洞院実雄の子。仁和寺法助から付法。[[仁和寺成就院]]に住す。1262年(弘長2年)11月17日、3カ寺の座主。石山寺に移ったあとと成就院と称し、以後、石山寺本坊を成就院と呼ぶことが多くなる。1291年(正応4年)再任。1297年(永仁5年)3月26日、東寺長者。1298年(永仁6年)5月20日、東寺長者退任。1299年(正安1年)7月19日再任。1313年(正和2年)9月23日死去。 |- | |(道朝) |1224-? |1286- |歴代外?久我通光の子。1224年(元仁1年)生。長能の弟子。1286年(弘安9年)、3カ寺の座主。配流。 |- | |(道耀) |1234-1304 |1298- |歴代外?1234年(文暦1年)生。1284年(弘安7年)4月22日、東寺長者。1284年(弘安7年)11月14日、東寺長者退任。1298年(永仁6年)8月28日、3カ寺の座主。1304年(嘉元2年)12月2日死去。 |- |17 |益守 |生没年不詳 |1313- |左大臣洞院実泰の子。守恵の弟子。禅守から受法。[[仁和寺真光院]]3世の禅助から付法。仁和寺成就院に住す。1313年(正和2年)10月5日、3カ寺の座主。1332年(元弘2年)1月2日、東寺長者。『石山寺縁起絵巻』制作に深く関与。 |- |18 |杲守 |生没年不詳 | |太政大臣洞院公賢の子。益守に入室し付法。[[仁和寺真光院]]4世の成助から重ねて受法。仁和寺成就院に住す。東寺長者。現存の絵巻の詞書を執筆。寺僧と対立し、1368年(正平23年/応安1年)6月13日、幽閉される。 |- |19 |守快 |?-1405 | |太政大臣洞院公賢の子。杲守の弟で付法の弟子。仁和寺成就院に住す。1399年(応永6年)9月15日、[[相国寺]]塔供養に出仕。1393年(明徳4年)、後七日御修法に出仕。1405年(応永12年)6月9日死去。 |- |20 |良守 |生没年不詳 | |権大納言西園寺公兼の子。守快から付法。仁和寺真光院5世の禅守から重ねて付法。仁和寺成就院に住す。初名は兼守。 |- |21 |禅信 |1400-1467 | |仁和寺真光院6世。権大納言洞院実信の子。仁和寺門跡16世の永助法親王から付法。また禅守から付法。仁和寺成就院に住す。1467年(応仁1年)11月8日死去。 |- |22 |守存 |生没年不詳 | |出自不詳。禅信の弟子。教王院、成就院と号す。 |- |23 |守鑁 |1416-1483 | |仁和寺真光院7世。権大納言中院通守の子。1416年(応永23年)生。禅信より付法。仁和寺成就院に住す。1475年(文明7年)7月17日、初めて石山寺に入寺。1483年(文明15年)6月20日、東寺長者。1483年(文明15年)12月21日死去。 |- |24 |守誉 |1446-1484 | |左大臣洞院実熙の子。1446年(文安3年)生。守鑁の弟子。仁和寺成就院に住す。1484年(文明16年)3月10日死去。39歳。 |- |25 |尊海 |1472-1543 | |仁和寺真光院8世。久我通博の子。1472年(文明4年)生。仁和寺成就院に住す。初名は尋守。土佐[[金剛福寺]]住職。1543年(天文12年)土佐で死去。72歳。 |} ===歴代座主(近世)=== 『石山寺座主伝記』によると、尊海の後、1609年に仁和寺門跡の覚深法親王(1588-1648)が石山寺の寺務を継ぎ、以後は仁和寺の兼務となったとあるが、『仁和寺諸院家記』では尊海に続けて禅海、寛海、覚恵、聖助を石山寺座主とする。 *禅海(1567-1598)<>:仁和寺真光院9世。中山孝親の子。1598年(慶長3年)8月28日死去。32歳。 *寛海(1602-1629)<>:仁和寺真光院10世。大炊御門頼国の子。1629年(寛永6年)死去。28歳。 *覚恵(1604-?)<>:仁和寺真光院11世。大覚寺大勝院、興福寺東北院、興福寺修南院を経て仁和寺真光院に入る。没年不詳。 *聖助(生没年不詳)<>:仁和寺真光院12世。大炊御門頼兼の子。1636年(寛永13年)入室。1640年(寛永17年)得度。1641年(寛永18年)法眼。寛永31年少僧都。1647年(正保4年)大僧都。 *46尊賢(1749-1829)<>:1749年(寛延2年)生。晩年は宝性院の一画に知足庵を建てて隠棲。一切経整備。1829年(文政12年)死去。著書『石山要記』『石山寺年代記録』『石山寺僧宝伝』『石山座主伝記』など。通称は知足院僧正。 *47 ===歴代座主(近代)=== {|class="wikitable" |- !style="width:5%" |世数 !style="width:10%" |名 !style="width:10%" |生没年 !style="width:10%" |在職年 !style="width:65%" |略歴 |- |48 |菅原円照 |?-1890 |?-1890 |1882年(明治15年)在職。1890年(明治23年)2月死去。 |- |49 |菅原真照 |生没年不詳 |1890-? |密蔵院住職。1890年(明治23年)石山寺座主。 |- |50 |鷲尾光遍 |1879-1967 |1910-? |1879年(明治12年)9月16日生。京都出身。父は[[伊勢神宮]]大宮司の三室戸和光。10歳で石山寺に入寺して円照に師事(月照は誤りか)。1889年(明治22年)得度。1901年(明治34年)[[古義真言宗大学]]卒業。1910年(明治43年)、石山寺座主に就任。1920年(大正9年)、鷲尾男爵家を継ぐ。(『大津市人物名鑑』) |- |51 |鷲尾隆輝 |1917-2004 |1967-2004 |初代[[東寺真言宗]]管長。石山寺座主。1917年(大正6年)12月17日生。男爵鷲尾光遍の子。曽祖父は1866年(慶応2年)12月、突如、勤王志士を引き連れて高野山に登った鷲尾隆聚(のち伯爵)。1967年(昭和42年)、石山寺座主。1974年(昭和49年)東寺真言宗管長。2004年(平成16年)10月15日死去。88歳。西国三十三所札所会会長。 |- |52 |鷲尾遍隆 |1946-2021 |2004-2021 |滋賀県出身。1946年(昭和21年)生。1969年(昭和44年)[[同志社大学]]卒。商社勤務。1975年(昭和50年)7月、東寺で鷲尾隆輝のもと得度。1977年(昭和52年)3月、東寺で西院流を四度加行。12月、仁和寺て西院流により伝法灌頂。1978年(昭和53年)3月、[[種智院大学]]卒。石山寺副座主を経て2004年(平成16年)石山寺座主。2021年(令和3年)12月17日死去。 |- |53 |鷲尾龍華 |1987- |2021- |1987年(昭和62年)生。2001年(平成13年)得度。2010年(平成22年)、同志社大学卒。東レ勤務。2013年(平成25年)、東寺で伝法灌頂。2015年(平成27年)、種智院大学卒。法輪院住職。2021年(令和3年)12月21日座主。 |} *『石山寺座主伝記』[https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100301661/viewer/1][https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100301662/viewer/1] *「石山寺座主并禅林・観心両寺座主相承次第」[http://hyakugo.kyoto.jp/contents/detail.php?id=29467] == 資料== ===古典籍=== *『石山寺縁起』:鎌倉時代の絵巻。正中年間の成立。全7巻。33段。 *『石山寺資料叢書』 **聖教篇 **史料篇 **寺誌篇:『石山要記』『石山寺年代記録』『石山寺僧宝伝』 **文学篇 **近世文書集成 *『石山寺の研究』 **一切経篇 **校倉聖教・古文書篇 **深密蔵聖教篇 *『石山寺古経集影』 *『石山寺の古建築』 *奈良国立博物館 石山寺本尊如意輪観音像内納入品 *奈良国立博物館 観音のみてら石山寺 *日本の絵巻 石山寺縁起 *国宝石山寺本堂修理工事報告書 *重要文化財石山寺鐘楼修理工事調査報告書 *伝法記とその紙背文書 *日本建築史基礎資料集成12塔婆2 [[category:滋賀県]]
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