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石津太神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年12月8日 (土)

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== 歴史 ==
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神代、蛭子命が浜辺に漂着して携えてきた「五色の神石」を置いたことから「石津」の地名が生まれたという。[[孝昭天皇]]の時代に社殿を創建して蛭子命を祀った。1736年(元文1年)成立の『石津大社略記』があり、「恵美酒神」を祀るとする。日本最初のえびす神社と称したことから、1768年(明和5年)、摂津の[[西宮神社]]と争論となった。具体的には石津太神社の神札頒布を巡って、西宮神社が差し止めを[[寺社奉行]]に訴えたが、幕府は河内・和泉の旦那場配札を往古からの慣例として認めた。1769年(明和6年)には[[江戸]]の[[湯島天満宮]]で石津太神社のえびす神が出開帳をしている。官社「石津太神社」に比定されるが、他の候補地として[[石津神社]]がある。
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神代、蛭子命が浜辺に漂着して携えてきた「五色の神石」を置いたことから「石津」の地名が生まれたという。[[孝昭天皇]]の時代に社殿を創建して蛭子命を祀った。1736年(元文1年)成立の『石津大社略記』があり、「恵美酒神」を祀るとする。日本最初のえびす神社と称したことから、1768年(明和5年)、摂津の[[西宮神社]]と争論となった。具体的には石津太神社の神札頒布を巡って、西宮神社が差し止めを[[寺社奉行]]に訴えたが、幕府は河内・和泉の旦那場配札を往古からの慣例として認めた。1769年(明和6年)には[[江戸]]の[[湯島天満宮]]で石津太神社のえびす神が出開帳をしている。官社「石津太神社」に比定されるが、他の候補地として東南1kmに[[石津神社]]がある。
主祭神を祀るのは北殿。一方、南殿には北殿には近代以降に合祀した[[建御名方富命]]、[[靱大神宮]]を祀る([[誉田別命]]も?)。
主祭神を祀るのは北殿。一方、南殿には北殿には近代以降に合祀した[[建御名方富命]]、[[靱大神宮]]を祀る([[誉田別命]]も?)。
合祀前の北殿と南殿の関係は一考の余地がある。
合祀前の北殿と南殿の関係は一考の余地がある。
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石津川北岸に[[石津太神社御旅所|御旅所]]があり最初にえびす神が漂着した信仰の発祥の地という。(日本歴史地名大系ほか)
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西500mに位置する石津川北岸に[[石津太神社御旅所|御旅所]]がある。最初にえびす神が漂着した信仰の発祥の地という。
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(日本歴史地名大系ほか)
[[Category:大阪府]]
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2018年12月8日 (土) 時点における最新版

石津太神社(いわつた・じんじゃ)は大阪府堺市西区浜寺石津町中にあるえびす信仰の神社。祭神は蛭子命・天穂日命八重事代主命官社論社。村社。

歴史

神代、蛭子命が浜辺に漂着して携えてきた「五色の神石」を置いたことから「石津」の地名が生まれたという。孝昭天皇の時代に社殿を創建して蛭子命を祀った。1736年(元文1年)成立の『石津大社略記』があり、「恵美酒神」を祀るとする。日本最初のえびす神社と称したことから、1768年(明和5年)、摂津の西宮神社と争論となった。具体的には石津太神社の神札頒布を巡って、西宮神社が差し止めを寺社奉行に訴えたが、幕府は河内・和泉の旦那場配札を往古からの慣例として認めた。1769年(明和6年)には江戸湯島天満宮で石津太神社のえびす神が出開帳をしている。官社「石津太神社」に比定されるが、他の候補地として東南1kmに石津神社がある。

主祭神を祀るのは北殿。一方、南殿には北殿には近代以降に合祀した建御名方富命靱大神宮を祀る(誉田別命も?)。 合祀前の北殿と南殿の関係は一考の余地がある。

西500mに位置する石津川北岸に御旅所がある。最初にえびす神が漂着した信仰の発祥の地という。

(日本歴史地名大系ほか)

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