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石淵寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2019年7月20日 (土)

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'''石淵寺'''(いわぶちでら)は、[[平城京]]東郊にあったとされる[[古代寺院]]。[[勤操]]が創建したという。[[大和・白毫寺]]はその一院の後身ともいう。[[新薬師寺]]の十二神将は石淵寺から遷されたと伝わる。'''岩淵寺'''。
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'''石淵寺'''(いわぶちでら)は、[[平城京]]東郊にあったとされる[[古代寺院]]。[[勤操]]が創建したという。法華八講の発祥地とされる。[[大和・白毫寺]][[帯解寺]]や奈良市鹿野園町の梵福寺(廃絶)はその一院の後身ともいう。'''岩淵寺'''。
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==歴史==
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創建不詳。延暦12年(793)、勤操が法華経を書写し、8日にわたり講じた。これが各宗派で行われる法華八講の起源という。寛弘7年(1010)、「法華八講縁起」成立。鎌倉時代後期まで存続したと考えられている。廃絶になる事件については江戸時代の伝承があり、[[天地院]]と争いが生じて、合戦となり、互いに火を放って両寺とも焼失し、廃絶になったという(『和州旧跡幽考』)。あるいは[[伴寺]]と合戦したともいう(『奈良坊目拙解』)。
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跡地は白毫寺周辺とみられるが、確定していない。[[新薬師寺]]の十二神将は石淵寺から遷されたと伝わる。
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(日本歴史地名大系)
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[[category:奈良県]]
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2019年7月20日 (土) 時点における最新版

石淵寺(いわぶちでら)は、平城京東郊にあったとされる古代寺院勤操が創建したという。法華八講の発祥地とされる。大和・白毫寺帯解寺や奈良市鹿野園町の梵福寺(廃絶)はその一院の後身ともいう。岩淵寺

歴史

創建不詳。延暦12年(793)、勤操が法華経を書写し、8日にわたり講じた。これが各宗派で行われる法華八講の起源という。寛弘7年(1010)、「法華八講縁起」成立。鎌倉時代後期まで存続したと考えられている。廃絶になる事件については江戸時代の伝承があり、天地院と争いが生じて、合戦となり、互いに火を放って両寺とも焼失し、廃絶になったという(『和州旧跡幽考』)。あるいは伴寺と合戦したともいう(『奈良坊目拙解』)。

跡地は白毫寺周辺とみられるが、確定していない。新薬師寺の十二神将は石淵寺から遷されたと伝わる。 (日本歴史地名大系)

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