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神奈川県護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年6月6日 (日)

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横浜市慰霊塔。神奈川県護国神社の境内跡地を踏襲しているようにみえる

神奈川県護国神社(かながわけん・ごこくじんじゃ)は、神奈川県横浜市神奈川区の三ツ沢公園に建てられる予定だった、県内の戦没者などを祀る招魂社内務大臣指定護国神社に指定見込みだったと思われるが、造営中に未鎮座のまま焼失した。類似の性格を持つ施設として神奈川県戦没者慰霊堂(同市港南区)がある。予定地跡地には横浜市慰霊塔がある。豊顕寺に隣接する。

目次

祭神

靖国神社祭神のうち、明治維新以来の神奈川県下の戦没者を合祀する予定であった。合祀予定者は、1941年(昭和16年)11月の時点では3095柱、翌年1月の時点では3402柱となっているが、1945年(昭和20年)の時点での予定数は不明である。合祀予定者は、神奈川県社寺兵事課の担当者が靖国神社に出張してリストアップした。他の護国神社同様に祭神名簿が調製された。祭神名簿の筆頭は戊辰戦争で官軍として戦死した荻野山中藩(小田原藩支藩)の藩士小野木守三幸寛であった。

歴史

創建計画

神奈川県には招魂社が創建されてこなかった。この要因としては、以下の3点が指摘されている。

  • 現在の神奈川県にあった諸藩においては、幕末維新期に官軍戦死者をあまり出さなかった。
  • 歩兵連隊、連隊区司令部がなかった(軍港はあったが、海軍と招魂社の結びつきは非常に薄かった)。
  • 靖国神社に近い。

1934年(昭和9年)11月、一県一社の招魂社創建が政府の内部方針として決定する。それが1939年(昭和14年)2月には護国神社制度として具体化し、動き出した。同年4月に護国神社制度が開始されたが、神奈川県においては同年6月に知事の働きかけにより創建の動きが具体化した。創建運動が始まると、他県同様に県内各地で誘致運動が起こった。神奈川県の場合は、横浜、小田原、大磯(平塚市と提携)、横須賀などが特に大きな運動をした。このうち小田原は幕末国事殉難者を出している。横須賀は軍港があり、1934年(昭和9年)の時点で招魂社創建の内務省による候補地になっていたという。しかし、各市町村の運動とは別に、神奈川県としては県庁所在地である横浜市に早々に内定していた。8月に県会に護国神社造営予算案が提出され、一度削除されたが復活し、11月には予算が成立した。12月には県会で護国神社造営が承認された。11月28日には造営事業を実行する組織として「神奈川県護国神社創建会」が設立された。 しかし、造営組織はできたが、敷地選定が難航した。敷地決定に1年、買収に1年かかり、創建会設立から整地作業開始までに2年間かかった。様々な事情があったが、結局のところ、他県の護国神社と違って、陸軍施設などの敷地選定の基準となる要素が市内になかったことが遅延させた要因だと指摘されている。創建会は、岸根、三ツ沢、野毛山、下永谷、保土谷の候補地を挙げ、横浜市は岸根を押したが、1940年(昭和15年)10月28日、三ツ沢に決定した。その1年後の1941年(昭和16年)9月30日、用地買収完了し、11月1日に整地作業が開始された。しかしながら、この遅延は神奈川県護国神社の行く末に影響を与えることとなった。

1941年(昭和16年)11月に始められた整地作業は、1943年(昭和18年)3月末まで続いた。整地作業は県および市によって行われた。県民による勤労奉仕も行われ、約41000人が動員された。また献木運動も行われたがこれは順調に進まなかった。 造営事業は物資不足の中、遅滞が続いた。1942年(昭和17年)12月23日に起工したが、当初は3月起工の予定であった。この間、7月27日、内務省から「神奈川県護国神社」の創立許可を得た(30日付 昭和17年内務省告示530号)。すでに「県」を付しているように指定護国神社になることの内諾を得ていた。1943年(昭和18年)11月25日に上棟式が行われ、工事が続いたが、竣工予定日の1944年(昭和19年)9月22日を過ぎても完成しなかった。当初、神奈川県より護国神社造営費30万円の予算が組まれたが、物資不足による物価の高騰により1943年(昭和18年)11月の時点で94万円に膨れ上がっており、それでもなお不足した。さらに実際の支出も順調に行われなかった。このこともまた造営事業を遅らせる結果となった。横浜市は造営費のうち敷地買収・整備費を賄うこととなり、その予算26万円を募金により募った。 本殿、拝殿および参道は1945年(昭和20年)1月には完成していた。あとは鳥居や植樹などが残るのみであったが、物資不足の中、工事は延びに延びた。そして、同年5月29日の横浜大空襲にて竣工直前であった神奈川県護国神社の社殿は焼失した。鎮座前に焼失したため、戦災神社への補助金も認められず、これ以後、再建されることはなかった。1947年(昭和22年)6月25日、神奈川県護国神社予定地は、横浜市に払い下げられた。

戦後の動向

神奈川県社寺兵事課の公文書は占領軍の進駐前に全て焼却されたため、護国神社に関する公文書もほとんど残らなかった。戦後は、靖国神社に近いこともあって、護国神社再建運動は起こらなかった。護国神社創建過程においてもし敷地選定の遅延がなければ、造営時期が物資困窮期にあたることもなくいち早く創建することが可能だったかも知れない。一度、創建されていれば、復興の可能性も閉ざされることはなかっただろう。 護国神社は廃絶したが、ただ、計画に盛り込まれていた外苑は戦後も引き継がれて、1949年(昭和24年)、バレーボールコートが設けられて三ツ沢公園が設置された。Jリーグ開幕を経て、プロチームのホームスタジアムが造営されて、横浜を代表する運動公園となっている。

1893年(明治26年)9月に講和条約が発効すると、公共団体による慰霊活動も許可されるようになった。神奈川県では慰霊塔建設が計画された。候補地には護国神社跡地が挙がったが、既に横浜市に払い下げられているうえ、横浜市が横浜市の慰霊塔を護国神社跡地に建設することとしたので、神奈川県慰霊施設の創建は別地で行われることになった。上大岡に創建された神奈川県戦没者慰霊堂は他県とは異なり、社寺を意識した建築となっている。他県に比べても大規模な施設となっている。

護国神社跡地の横浜市慰霊塔は、1930年(昭和5年)に保土ケ谷公園に建立された「横浜市忠魂碑」(忠霊塔)に始まる。戦後、占領軍によって撤去されて総持寺に位牌が遷された。そのため、これを納める施設が必要となった。1952年(昭和27年)6月4日、護国神社跡地に慰霊塔を建設することを決定し、10月に着工。1953年(昭和28年)3月21日に竣工した。護国神社は再建されなかったが、慰霊空間というこの地の性質は慰霊塔に継承された。

境内

本殿、拝殿、および祝辞殿(祝詞殿)、帛殿(幣殿)などから構成されている。いわゆる護国神社様式と呼ばれる社殿様式で、拝殿の左右には翼舎が連結し、翼を広げるような形で、拝殿前の広場に向き合っている。現存する完成予想図によると、本殿は流造で、拝殿は入母屋造となっている。設計は神祇院造営課長角南隆の指導の下、国粋建築研究所の二本松孝蔵が行った。二本松孝蔵は福岡県護国神社栃木県護国神社の造営も手がけた。施行は他の多くの護国神社と同じく大阪の山田組による。

護国神社外苑として、射的場、乗馬、水泳場、野球場、テニスコートなどを設置する予定であった。神社の外苑として娯楽施設を設置する構想は、明治神宮外苑を継承するものである。この外苑計画は戦後に受け継がれて、横浜市営三ツ沢公園が設置された。

資料

  • 坂井久能1999「神奈川県護国神社の創建と戦没者慰霊堂」(上・下)
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

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