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神武天皇聖蹟
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
神武天皇聖蹟
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{|class="wikitable" style="width:800px;margin:0 auto;" |- | style="text-align:center;background-color:#ededed"|'''神武天皇旧跡''' |- | *[[目次#日本編|日本編]] >> [[目次#神道|神道]] >> [[目次#制度・機関・官社|制度・機関・官社]] >> [[歴代天皇旧跡]] >> [[神武天皇旧跡]] >> [[神武天皇聖蹟]] <!-- |- |style="text-align:center;"| [[ファイル:|300px]] [[ファイル:|300px]]<br> 左: 右: |- | <googlemap version="0.9" lat="34.488448" lon="132.824707" type="map" zoom="6" width="800" height="500" controls="large"> http://maps.google.co.jp/maps/ms?hl=ja&ie=UTF8&vps=1&jsv=327b&brcurrent=h3,0x34674e0fd77f192f:0xf54275d47c665244&msa=0&output=nl&msid=208806612508013451037.00049d0477a8ef1823383 </googlemap> --> |} ==概要== '''神武天皇聖蹟'''は、紀元2600年記念事業として、紀元二千六百年奉祝会が定めた[[神武天皇旧跡]]。 21箇所が指定され、18件19箇所に顕彰碑が建立された。 鹿児島県が指定した[[神代並神武天皇聖蹟]]や宮崎県が指定した[[顕彰聖蹟]]も参照。 == 経過 == 1940年(昭和15年・神武天皇即位紀元2600年)の紀元2600年を迎えるにあたって、政府は記念事業を行うことを決め、1935(昭和10)10月より、内閣に準備委員会を設置して、準備を進めた。1936年(昭和11年)7月、「紀元二千六百年祝典評議委員会」が設置され、内閣には「紀元二千六百年祝典事務局」が設置された。同年11月、評議委員会は、6件の2600年記念事業の実施を決定した。 *[[橿原神宮]]境域及[[畝傍山東北陵]]参道の拡張整備 *神武天皇聖蹟の調査保存 *御陵参拝道路の改良 *日本万国博覧会の開催 *国史館(仮称)の建設 *日本文化大観(仮称)の編纂出版 *[[宮崎神宮]]境域の拡張整備(1938(昭和13)7月追加) 日本社会が戦時体制に移行するなか、神武天皇を始めとする過去の天皇の顕彰と、国家の歴史の叙述、そして、万国博覧会が計画された。神武天皇聖蹟の顕彰も、この紀元二千六百年記念事業の一環として計画された。 翌年4月、官民の協力のもとで、記念事業の主催となるべく紀元二千六百年奉祝会を結成した(7月には財団法人となる)。上記の「日本万国博覧会の開催」以外の事業は奉祝会が事業主体となり、必要に応じて、奉祝会から行政官庁や公共団体に委嘱する形をとることになった。 神武天皇聖蹟顕彰事業は文部省が担当することとなり、1938年(昭和13年)6月、紀元二千六百年奉祝会より正式に委嘱された。予算は10万円とされた。文部省内部では、宗教局保存課が担当することとなった。同課が史蹟文化財行政を管轄していたためだろう。すでに宗教局は1936年(昭和11年)9月に神武天皇に関する史蹟があると思われる宮崎県、大分県、広島県、岡山県、大阪府、奈良県、和歌山県、三重県に、それらについての県下の状況の報告を求めた(1939(昭和14)2月に鹿児島にも)。その結果、約150箇所におよぶ報告があった。それらを踏まえて、1938年(昭和13年)11月、文部省は実地の予備調査を行った(翌年3月まで)。 同年12月、勅令第784号をもって、「神武天皇聖蹟調査委員会官制」を公布し、神武天皇聖蹟調査委員会を設置した。同委員会は、文部大臣の諮問機関の形をとり、会長1人、委員20人、幹事4人からなる。大臣からの諮問に応じて、以下の事柄を調査審議する。 *聖蹟及其の名称の決定 *保存顕彰の方法に関する意見 *其の他聖跡に関する重要事項 調査および決定の流れは、次のような順序による。文部省による文献調査、文部省による実地調査(90箇所ほど調査)、委員会による実地調査、大臣から委員会に諮問、委員会で審議して決議となっている。 神武天皇聖蹟調査委員会では次のような調査決定方針が定められた。 *(イ)聖蹟として決定すべきものは、重要なる文献及土地の状態に付凡そその地点又は地域を指定し得るものたること **1地点又は地域に関し凡そ江戸時代を降らざる時代に於て記載せられた口碑伝説を存し且価値ありと認めらるゝもの **2斯く如き口碑伝説は存しないが其の地点又は地域に関し価値ある学説を存し又は価値ある資料に拠って遂行し得るもの *(ロ)前項の外凡そ左の標準に依る決定を認むること *(ハ)異説あるものは已むを得ざる場合に限り二箇所以上を認むること *(ニ)聖蹟たることが既に国家的に直接又は間接に確認せられたものについては更めて聖蹟の決定をなさず且保存顕彰施設を考慮せざること (後略) などが方針とされた。 1939年(昭和14年)5月の第二回総会で、36件を調査することを決定し、調査が行われた。 その結果、18件19箇所を決定し、場所に応じて、伝説地・推考地などの称をつけた。[[橿原宮]]と[[竃山]]は既に聖蹟として、認められているとして改めて指定することはしなかった。 過去何度も論議を引き起こした[[高千穂宮]]についてはついに不明のままとなった。同様に速吸之門、一柱騰宮、岡田宮、血沼海・天磐盾、熊野荒坂津、吉野、国見丘、忍坂邑、腋上〓間丘、高佐士野については決定しがたいとして見送られた。調査事業を終えた1941年(昭和16年)4月1日に調査会は廃止された。 調査が完了すると顕彰碑の建立が行われた。1940年(昭和15年)7月、[[大阪天満宮]]で顕彰碑の起工式が行われ、各地に次々と建立された。「神武天皇聖蹟埃宮・多祁理宮伝説地顕彰碑」の前で顕彰碑の竣功式が行われ、事業はすべて終了した。 ==旧跡一覧== *01[[神武天皇聖蹟橿原宮]] *02[[神武天皇聖蹟竃山]] *03[[神武天皇聖蹟菟狭推考地]] *04[[神武天皇聖蹟崗水門]] *05[[神武天皇聖蹟埃宮・多祁理宮伝説地]] *06[[神武天皇聖蹟高嶋宮伝説地]] *07[[神武天皇聖蹟難波之碕]] *08[[神武天皇聖蹟盾津推考地]] *09[[神武天皇聖蹟孔舎衛坂伝説地]] *10[[神武天皇聖蹟雄水門伝説地]] *11[[神武天皇聖蹟男水門伝説地]] *12[[神武天皇聖蹟名草邑推考地]] *13[[神武天皇聖蹟狭野]] *14[[神武天皇聖蹟熊野神邑]] *15[[神武天皇聖蹟菟田穿邑]] *16[[神武天皇聖蹟菟田高倉山伝説地]] *17[[神武天皇聖蹟丹生川上]] *18[[神武天皇聖蹟磐余邑推考地]] *19[[神武天皇聖蹟鵄邑]] *20[[神武天皇聖蹟狭井河之上推考地]] *21[[神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤伝説地]] ==参考文献== *文部省宗教局、昭和17『神武天皇聖蹟調査概要』 *文部省宗教局保存課,昭和17『神武天皇聖蹟調査報告』 ==脚注== <references/> [[category:系譜記事]]
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