ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

神社行幸旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2018年5月27日 (日)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(ページの作成:「 天慶5年(942)4月、承平天慶の乱平定の感謝のための、朱雀天皇の賀茂社行幸が起源という。円融天皇の時代に、石清水行幸...」)
 
(間の1版分が非表示)
1行: 1行:
-
 
天慶5年(942)4月、承平天慶の乱平定の感謝のための、朱雀天皇の賀茂社行幸が起源という。円融天皇の時代に、石清水行幸、平野行幸が始まり、一条天皇の時代に七社行幸が成立する。後三条天皇の時代にさらに増え、十社行幸となった。鎌倉時代後期から激減し、後醍醐天皇の時代に中絶した。のち約500年ぶりに江戸時代末に孝明天皇が攘夷祈願のための賀茂行幸、石清水行幸を行い復興された。
天慶5年(942)4月、承平天慶の乱平定の感謝のための、朱雀天皇の賀茂社行幸が起源という。円融天皇の時代に、石清水行幸、平野行幸が始まり、一条天皇の時代に七社行幸が成立する。後三条天皇の時代にさらに増え、十社行幸となった。鎌倉時代後期から激減し、後醍醐天皇の時代に中絶した。のち約500年ぶりに江戸時代末に孝明天皇が攘夷祈願のための賀茂行幸、石清水行幸を行い復興された。
14行: 13行:
*十社行幸・代始行幸
*十社行幸・代始行幸
**[[賀茂神社]]、[[石清水八幡宮]]、[[春日大社]]、[[平野神社]]、[[大原野神社]]、[[松尾大社]]、[[北野天満宮]]、[[日吉大社]]、[[伏見稲荷大社]]、[[八坂神社|祇園社]]
**[[賀茂神社]]、[[石清水八幡宮]]、[[春日大社]]、[[平野神社]]、[[大原野神社]]、[[松尾大社]]、[[北野天満宮]]、[[日吉大社]]、[[伏見稲荷大社]]、[[八坂神社|祇園社]]
-
 
+
*熊野御幸(上皇・法皇のみ)
 +
**[[熊野三山]]
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*岡田莊司、2010『日本神道史』吉川弘文館
*岡田莊司、2010『日本神道史』吉川弘文館
 +
[[Category:系譜記事]]

2018年5月27日 (日) 時点における最新版

天慶5年(942)4月、承平天慶の乱平定の感謝のための、朱雀天皇の賀茂社行幸が起源という。円融天皇の時代に、石清水行幸、平野行幸が始まり、一条天皇の時代に七社行幸が成立する。後三条天皇の時代にさらに増え、十社行幸となった。鎌倉時代後期から激減し、後醍醐天皇の時代に中絶した。のち約500年ぶりに江戸時代末に孝明天皇が攘夷祈願のための賀茂行幸、石清水行幸を行い復興された。

神社行幸と呼ぶが、天皇が直接、神社に参拝するのではなく、神前から離れたところの常設あるいは仮設の御殿に参籠し、そこから勅使を派遣し、代参する定めとなっていた。これは神社臨時祭を丁重にした形式という。一度、退位し、上皇となれば、自由に神前に赴くことができた。孝明天皇以降は、直接参拝する形を取っている。 直接の参拝が禁忌とされた理由について岡田莊司氏は「天皇は皇祖神天照大神の祭り主であり、諸神社の神々を直接出かけて親祭する立場にはなかった。飽くまでも勅使差遣の祭祀が天皇による天神地祇祭祀の原則であり、天照大神以外の個々の神社への天皇親祭はありえないという根本観念が存在して貫かれていた」と述べている。天皇祭祀と氏族祭祀は互いに不可侵・不介入の関係で成り立っていたのだという。


系譜

参考文献

  • 岡田莊司、2010『日本神道史』吉川弘文館
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E8%A1%8C%E5%B9%B8%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール