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神道大成教

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2024年1月22日 (月)

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大成教(たいせいきょう)は、元幕臣平山省斎(1815-1890)が設立した、東京都渋谷区に本部を置く神道系教団教派神道の一つ。

目次

歴史

幕末に幕府の重臣として外交交渉に当たった平山省斎が明治前期に設立。キリスト教の国内進出への危機意識を背景に禊教淘宮術俳諧心学などの諸教会を集結し組織した。 省斎の死後は、先細りした。明治中期には蓮門教事件で打撃を受ける。禊教の門人らが運営を支え、華族、神道学者が管長を歴任するも教勢は回復しなかった。本部は、設立から敗戦まで小石川の平山邸に置かれていたが、1945年(昭和20年)5月24日の空襲で焼失。本部の呼称は「教務庁」(1916(大正5)文部省宗教局編『宗教要覧』、 1937年(昭和12年)『東京府史 行政篇』(1932年(昭和7年)現在))。現在は湯河原に天照山神社を創建した天善教会の門人が運営を支えているようだ。

1878年(明治11年)9月、大成教会設立。1882年(明治15年)5月15日、神道大成派として独立。11月6日、神道大成教と改称。 1947年(昭和22年)2月25日、宗教法人令による宗教法人。1952年(昭和27年)7月7日、宗教法人法による宗教法人となる。 教派神道連合会には所属していない。

機関誌として戦前、『みそぎ』が発行されていたという(河野省三『神道大綱』)

一覧

組織

執行部

管長、総監、教務局長、礼典局長、会計局長が置かれ、管長が法人の代表役員、他の4人が責任役員を務めている(平成14年現在)。他に監査委員2人を設置。

歴代管長

神道大成教の歴代管長
歴代 名前 生没年 在職年 略歴
1 平山省斎 1815-1890 1882-1890 幕臣出身の神職・神道家。外国奉行。名は敬忠。日枝神社宮司、氷川神社大宮司を歴任。御嶽教初代管長を兼任。文化12年2月19日生。陸奥国三春藩出身。藩士黒岡活円斎の子。江戸に出て、桑原北林、安積艮斎に師事。1850年(嘉永3年)小普請の平山源太郎の養子となる。1855年(安政2年)岩瀬忠震に同行して長崎へ。外交に奔走し、江戸と京都を往復すること14回。維新の時には徳川慶喜の側近として随従。1868年(明治1年)1月、若年寄を仰せ付けられるが辞職する。1872年(明治5年)、稲葉正邦の勧めで神官教導職となり官社の宮司として氷川神社の改築や日枝神社の昇格に尽力した。1872年(明治5年)9月25日権少教正。翌年2月22日権中教正。3月4日、氷川神社大宮司。11月4日中教正。翌年4月4日、依願免官し教導職に専任。8月19日、権大教正。1875年(明治8年)3月22日、日枝神社祠官。1876年(明治9年)4月22日、氷川神社大宮司に再任し、5月10日に日枝神社祠官を兼任。1877年(明治10年)3月、神道事務局から禊教総管に任じられ、禊教社(坂田派(「禊教」)と東宮派(「大成教禊教」))を管轄する。同年12月8日に制度改正で免官となり12日に氷川神社宮司となる。1879年(明治12年)5月10日、大教正。9月、大成教会を設立。本荘宗秀、小笠原長行、板倉勝静(松叟)、大給恒らと懇意で、特に板倉は親しく大成教の創立員となっている。神官教導職分離を受け、1882年(明治15年)1月23日、依願免官。5月、大成教特立許可を得て管長となる。1884年(明治17年)8月9日、改めて神道総裁から大成教管長に任命される。各地で巡教し、鍛冶橋監獄(東京監獄、市ケ谷刑務所)や宇都宮監獄での説教(教誨)も行った。1875年(明治8年)、外務省から幕末外交史の執筆依頼を受けるが、果たさず。1890年(明治23年)5月22日死去。神宮祭主久邇宮朝彦親王から「素山彦弘道命」の神号を下賜された(波多越与一、1933年(昭和8年)『大日本神社志附録編』大日本敬神会本部)。妻は桑原北林の次女・千代子。養子には、日本赤十字社の設立に尽力した男爵平山成信(1854-1929、叔父竹村久成の子)や静岡新聞編集長などを務めた自由民権家の平山陳平(1839-1889)がおり、弟子には桑原芳樹(伊勢神宮少宮司)がいる。桑原家は、省斎が千代子のと結婚する時に家督相続を断った関係で、家の再興を約していた。省斎は廉甫(高橋六郎)という人物に継がせ、さらに弟子の桑原芳樹を婿入りさせた。日記は外交史料「敬忠日記」(東京大学史料編纂所蔵1[1]~6[2])として知られる。著書として『本教真訣』[3][4][5][6][7](『同略解』[8])、『修道真法』[9][10]、『俳教真訣』[11][12](『同略解』[13][14])、『省斎遺稿』[15]、『神皇系統』[16]などがある。「平山省斎印譜」[17]。関連文献として『省斎年譜草案』[18][19]、「平山敬忠贈位内申書」[20][21]、『教派神道の形成』、『平山省斎と明治の神道』。墓所谷中霊園にある。
2 磯部最信 1821-1898 1890-1894 田安家家臣出身の神道家。歌人。相川県権参事。度津神社宮司。明治初年、佐渡の相川県に赴任し、参事(知事に当たる)の鈴木重嶺を補佐。度津神社宮司を務め、相川県中教院の開設に尽力した。東京に戻り、平山省斎の大成教会設立に協力。副管長となった。1890年(明治23年)6月13日、管長に就任した(『平山省斎と明治の神道』)。1894年(明治27年)、『万朝報』が大成教傘下の蓮門教会を批難する記事を連載し、対応に追われる。一度、蓮門教祖島村みつを解任したが、騒動が落ち着いた頃、復職を認めた結果、その責任を問われ、文部省より11月16日、管長を解職される(『蓮門教衰亡史』)。著書は、『神道唱歌』[22]、『佐渡名所歌集』[23]、『安心立命訣』、『祝詞集』、『含翠庭雑録』など。墓所不明。
(事務取扱) (東宮千別) 1833-1897 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。下野の亀岡八幡宮(栃木県芳賀郡益子町)神職。常陸国宍戸藩士の孫として宍戸町で生まれる。日光山で学び、1854年(安政1年)、亀岡八幡宮社家の東宮家の養子となる。1856年(安政3年)、井上正鉄の法流を受け継ぐ但唱が住職をしていた江戸木下川の浄光寺で村越守一(1813-1880)に出会い、禊教に入門。禁教下で極秘裏に布教を始める。1858年(安政5年)養父が亡くなり、神主を継ぐ。1862年(文久2年)に門下が大きな弾圧を受けたため、門人たちを故郷に匿う。1869年(明治2年)2月、東京で布教開始。1872年(明治5年)4月に教導職の制度ができると、5月3日、門下の代表者として公認を政府に出願。同月11日から教部省が府内の各神社で説教会を開くと、門人らも神田神社で説教した。8月22日、吐菩加美講の許可を受け、禊教として初の政府公認の教団組織を設立。教導職訓導となった。しかし、門下全体を完全にまとめることができず、坂田派(現在の「禊教」と「神道禊教」)が分立する結果となった。1878年(明治11年)から翌年にかけて、三宅島井上正鉄の墓を東京に改葬したが、門人の間でまとまらず、東宮派は谷中霊園に巨大な墓碑を建立する一方、坂田派は上野に井上神社を創建し分裂が決定的になった。その他の禊教は1879年(明治12年)11月、大成教会に所属した。1881年(明治14年)、亀岡八幡宮の本殿を再建。東宮本院を開くと共に、大成教に所属した禊教の重鎮として門下の統合に尽力するが、困難を極めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では12月18日からとする)。1896年(明治29年)8月には自派の教会の独立を試みるが果たせず、1897年(明治30年)7月2日死去。(『神道大成教 禊教会本院百五十年小史』)
(事務取扱) (村越鉄善) 1825-1908 (1894-1895) 幕末維新期の禊教門人。井上正鉄の直弟子の村越正久の次男。村越守一と坂田正安兄弟の甥。村越守一に師事。1858年(安政5年)、産霊の伝を受ける。兄の鉄久の養子となり、村越本家を継ぐ。維新後は木下川村の白鬚神社や氷川神社の神職を務めた。1894年(明治27年)11月の磯部最信の管長解任を受けて、事務取扱に就任し、12月19日から翌年11月25日まで1年間務める(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では12月18日からとする)。1908年(明治41年)12月9日死去。子は彫金家で文展審査員の村越道守(1901-1943)。
3 中山信徴 1846-1917 1895-? 2万5000石を領した水戸藩附家老・中山家14代当主。松岡(手綱)藩主。日光東照宮9代宮司。氷川神社大宮司。丹治氏。弘化3年4月10日生まれ。兄信宝の養子。1861年(文久1年)松岡城主となり、1868年(明治1年)1月24日に領地が藩に格上げされ、大名となる。1873年(明治6年)隠居。1874年(明治7年)4月、氷川神社大宮司兼権少教正。1895年(明治28年)11月25日、管長に就任するが(『官報』)(『平山省斎と明治の神道』では11月15日からとする)、同年12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。1896年(明治29年)12月26日、日光東照宮宮司に就任。大正6年1月29日死去。子に嗣子の男爵中山信実、子爵青木信光(1869-1949)など。墓所は、松岡城近くにある。
4 永井直哉 1850-1912 1897-1912 大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代。子爵。井上正滝の五男。嘉永3年9月4日生まれ。明治2年6月、櫛羅藩知事。明治17年7月、子爵。明治30年2月24日、管長就任(『官報』)。明治45年、在職中に死去(『平山省斎と明治の神道』には明治45年1月11日辞任とある)。大日本普通学講習会という団体の会長となり『小学校教員講習全書』に「国民道徳要義」、『国民必読高等学習自修全書』に「修身講義」を口述で寄せている。
(事務取扱) (笹田黙介) 1846-1925 (1912-1916) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日管長就任(『平山省斎と明治の神道』)。
(事務取扱) (井上信鉄) ?-1933 (1912-1916) 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。
5 笹田黙介 1846-1925 1916-1924 初代埼玉県警部長。山口藩士。1846年(弘化3年)7月20日生まれ。埼玉県の設置当初、白根多助県令を補佐して県政の基礎を確立。明治4年、埼玉県に奉職。明治6年改正局長。翌年、埼玉県師範学校総長。その後、庶務兼勧業課長、勧業博物館館長、警察本署署長を歴任。1882年(明治15年)、県警部長に就任。少書記官。1884年(明治17年)、秩父事件の対応に手腕を発揮した。明治19年、書記官、第一部長。明治23年、熊本県書記官に転任。1908年(明治41年)頃には大成教に関係していたが、埼玉県奉職中に氷川神社大宮司を務めていた平山省斎と懇意になったようだ。1912年(大正1年)1月24日、井上信鉄と共に管長事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日管長となる(『平山省斎と明治の神道』。1922年(大正11年)、管長に就任とも?)。1924年(大正13年)10月23日辞任。1925年(大正14年)6月8日死去。著書に『神霊発顕』[24]、『青藜詩集』。墓所は、谷中霊園。
6 井上信鉄 ?-1933 1924-1933 明治45年1月24日、事務取扱に就任(『官報』)。1916年(大正5年)12月26日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。大正13年10月24日、管長に就任認可(『官報』による。『平山省斎と明治の神道』では28日就任とある)。在職中の昭和8年2月3日、死去(『官報』)。
7 杉本鉄幸 1933-1934 亀卜家らしい。昭和8年3月18日管長就任認可(『官報』による。『平山省斎と明治の神道』では同年3月とのみある)。1934年(昭和9年)3月7日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。著書に『杉本亀卜宅相秘鈔 皇国古伝』[25]、『皇国古伝杉本亀卜神秘鈔』。
8 佐伯有義 1867-1945 1934-1935 近代を代表する神道学者。慶応3年10月24日生まれ。雄山神社神職の佐伯有久の子。明治20年、皇典講究所卒。気多神社宮司。掌典。六国史校訂材料取調掛。大喪使事務官、大礼使事務官を歴任。国学院大学講師、教授。1934年(昭和9年)3月20日、大成教管長就任認可(官報)。翌年8月12日、管長辞職(官報)(『平山省斎と明治の神道』には1936年(昭和11年)9月辞任とある)。昭和20年8月25日、疎開中に死去。著書は『大日本神祇史』など多数。(『神道辞典』『神道史大辞典』)
9 佐野常羽 1871-1956 1935-1946 1935年(昭和10年)8月12日、管長に就任(官報)(『平山省斎と明治の神道』には1936年(昭和11年)10月3日就任とある)。1946年(昭和21年)12月28日辞任(『平山省斎と明治の神道』)。伯爵。佐野常民の子。海軍少将。ボーイスカウトの設立者。宗教制度調査会委員。
10 前橋庄三郎 ?-1948 1946-1948 禊教門人。禊神道教会(旧禊第六教院、現・唯一神道禊教)教長。著書に『禊の真理』。1946年(昭和21年)12月28日に管長に就任し、1948年(昭和23年)9月7日に死去(『平山省斎と明治の神道』)。弟子に唯一神道禊教教長で梅田神明宮宮司の関口鉄三郎(-2002)。墓所は、多磨墓地。(井上正鉄研究会会報)
11 赤塚新 1886-? 1948-1960 寿老教会(東京都台東区)の創設者。明治19年8月2日生まれ(1953『現代宗教界名簿』)。1948年(昭和23年)9月12日管長就任し、1960年(昭和35年)10月12日辞任(『平山省斎と明治の神道』。昭和13年とあるが、昭和23年の誤記とみなした)。
(事務取扱) (笹木福太郎) ?-1958 (1957-1958) 1957年(昭和32年)5月1日就任、1958年(昭和33年)4月27日死去(『平山省斎と明治の神道』)。
(事務取扱) (栃谷吉太郎) ?-1982 (1958-1960) (次項参照)
12 栃谷吉太郎 ?-1982 1960-1964 1958年(昭和33年)5月22日、事務取扱に就任、1960年(昭和35年)10月12日、管長に就任。1964年(昭和39年)2月25日退任。1966年(昭和41年)9月25日再任し、1982年(昭和57年)4月5日死去。(『平山省斎と明治の神道』)。
13 久保安太郎 ?-1966 1964-1966 1964年(昭和39年)6月12日就任、1966年(昭和41年)8月17日死去(『平山省斎と明治の神道』)。
14 栃谷吉太郎 再任 1966-1982 再任(前述の項目を参照)。
15 飯田金吾 ?-1998 1982-1998 神道天善教善団講社長の飯田源五郎の子。1930年(昭和5年)11月、父から百日布教と社殿建設地探索を命じられる。湯河原に適地を見つけ、天照山神社として1932年(昭和7年)に創建。1936年(昭和11年)3月10日に父が死去したため、2代教会長となる。1946年(昭和21年)5月、1982年(昭和57年)4月21日就任。1998年(平成10年)4月4日死去。著書に1981『天照山のお社』。(『平山省斎と明治の神道』)
16 飯田典親 1998- 1998年(平成10年)4月4日、飯田金吾死去により、管長代務に就任。10月25日、管長に就任。著書に2000『神道大成教 奥宮天照山神社 鎮座七〇年奉祝記念』。(『平山省斎と明治の神道』)

(鎌田東二 2002『平山省斎と明治の神道』)


所属教会

明治初期

  • 1890年(明治23年)『神宮官国幣社・皇典講究本分所・神道各教派職員録』に基づく。
順番 名称 所在地(現在地) 備考
1 大成教本部 東京市小石川区原町44号邸 『新撰東京名所図会 小石川区之部』には「祠宇あり、神楽殿あり、毎年九月十二日大祭執行、八雲琴、同舞、里神楽あり」とある。また1903年(明治36年)2月に平山成信が設立した素山学校があり、「専ら区内貧家の児童を収容」という。空襲で焼失。単位法人としての本部は現存しない。戦災で廃絶か。
2 大成教第一教館 東京市牛込区河田町9番地(東京都新宿区河田町) 不詳
3 大成教第二品川分教館 荏原郡南品川宿237番地 不詳
4 大成教心学参前舎 東京市神田区東福田町1番地(東京都千代田区岩本町1丁目) 心学団体。大成教を離れ、1921年(大正10年)12月15日、社団法人となる。現在、心学参前舎と名の付く社団法人が3団体あるが不詳。
5 大成教禊教会本所 東京市浅草区小嶋町57番地 禊教
6 大成教身禊教会本所 東京市日本橋区南茅場町5番地 禊教系
7 大成教淘宮講社 東京市本郷区湯島三組町85番地 現在の一般社団法人日本淘道会と思われる。
8 大成教禊教社 東京市浅草区南元町49番地 禊教系
9 大成教禊教小川講社 神奈川県橘樹郡上小田中村127番地(神奈川県川崎市中原区上小田中) 禊教系
10 大成教禊教社 東京市下谷区車坂町71番地 禊教系。現在の「唯一神道禊教」(東京都足立区)。
11 大成教禊教本院 東京市本所区北二葉町10番地 禊教系
12 大成教禊教社 東京市浅草区田町1丁目27番地 禊教系
13 大成教禊教仮修行所 東京市北豊島郡千束村802番地 禊教系
14 大成教蓮門第一教院 東京市芝区田村町5番地 蓮門教会。蓮門教事件。
15 大成教奇霊教会院 東京市下谷区練塀町62番地
16 大成教月読教会本院 東京市浅草区南元町22番地
17 大成教水徳教院 東京市浅草区小島町19番地
18 大成教水神教院 東京市赤坂区青山北町5丁目畑48番地
19 大成教日本抱衣教会 東京市北豊島郡田端村384番地
20 大成教吐普加美教会 京都府久世郡宇治郷神明町字宮西43番地(京都府宇治市神明宮西) 禊教系
21 大成教杉宮元稲田講社 秋田県雄勝郡杉宮村17番地(秋田県雄勝郡羽後町杉宮元稲田)
22 大成教神随教会 秋田県雄勝郡田代村141号地(秋田県雄勝郡羽後町田代)
23 大成教仙北教会 秋田県仙北郡生保内村番外1番地(秋田県仙北市田沢湖生保内)
24 大成教苗島教会 群馬県南勢多郡苗ケ嶋村6番地(群馬県前橋市苗ケ島町) 斎藤多須久(1835-1893)の教会
25 大成教多賀教会本部 滋賀県犬上郡多賀村多賀神社境内(滋賀県多賀郡多賀町) 現在の多賀大社多賀講と思われる。1876年(明治9年)6月10日、多賀教会設置許可。1883年(明治16年)、大成教に所属。ただしこれ以前から平山省斎が多賀教会教長に就任していた。教会長は宇津木久岑。多賀講社とは別に貴寿講社という講社が設立されたが、のちに一本化。大成教を離れた時期は未確認。多賀大社に属さず大成教に残った教会もあるようだ。(多賀大社叢書)

現在

法人番号 名称 所在地 備考
2420005000827 高山教会 青森県青森市茶屋町12番2号
3400005003104 高山敬神教会 岩手県花巻市若葉町3丁目9番15号
4011005000443 天照山神社分祠 東京都渋谷区神宮前6丁目5番3号 現在の教団本部。
9010505000304 寿老教会 東京都台東区池之端4丁目16番7号 11代管長の出身教団。
1040005005188 禊教会本院 千葉県松戸市松飛台字中原265番地1 禊教系教団。
6110005014499 豊受稲荷佐渡教会 新潟県佐渡市目黒町111番地3
6180005001177 明神教会 愛知県名古屋市昭和区広路町字石坂79番地の6
9080405005371 唯一禊神社 静岡県磐田市上岡田1110番地1 禊教系教団。
5190005007001 神徳稲荷教会 三重県松阪市笠松町251番地
9130005001419 天津神社 京都府京都市北区平野宮本町89番地
1260005007435 粟嶋美作教会 岡山県美作市原926番地
7500005002744 愛媛多賀教会 愛媛県大洲市八多喜町甲203番地
5290005007610 幸福生教会 福岡県朝倉市甘木1629番地
3290805003158 瀛津洲神社 福岡県北九州市門司区風師3丁目4番24号
9300005004874 天津神社 佐賀県神埼郡吉野ケ里町石動413番地1

(法人番号検索で名称に「神道大成教」と付いているもののみ。平成29年6月現在。他にもある可能性はある。)

不詳

法人格なし?

名称 所在地 備考
宝心教会 東京都台東区谷中2-6-14 『平山省斎と明治の神道』に記載。
宮比教会 東京都豊島区南長崎2丁目20?14 『平山省斎と明治の神道』に記載。ストリートビュー(2014)で表札「神道大成教宮比教会」あり。
関東稲荷子育布教所 東京都文京区本駒込6-17-13 『平山省斎と明治の神道』に記載。
真誠布教所 神奈川県横浜市戸塚区上矢部町3140-7 『平山省斎と明治の神道』に記載。
天恩真理神社 神奈川県小田原市久野4870-11 『平山省斎と明治の神道』に記載。祠が現存か[26]
天善宝来布教所 千葉県成田市吾妻2-1-20-101 『平山省斎と明治の神道』に記載。
太平教会 秋田県秋田市太平八田堂ノ前51-1 『平山省斎と明治の神道』に記載。
巫教会 東京都港区三田5-11-3-303 『平山省斎と明治の神道』に記載。
天善教会北沢分教会 東京都世田谷区代沢4丁目8番6号 『平山省斎と明治の神道』に記載。2016年に登記閉鎖か。
川越御嶽教会 埼玉県川越市砂435-3 『平山省斎と明治の神道』に記載。
御寄山神社 埼玉県比企郡嵐山町平沢7-2 『平山省斎と明治の神道』に記載。ストリートビュー(2017)で表札「御寄山神社」あり。
水神教会 埼玉県ふじみ野市仲3-1-3 『平山省斎と明治の神道』に記載。水天宮として現存か
霊明教会 大阪府大阪市旭区高殿5-12-6-1036 『平山省斎と明治の神道』に記載。
三皇権現淡島教会 大阪府羽曳野市飛鳥795 『平山省斎と明治の神道』に記載。
鳥取多賀教会 鳥取県鳥取市円通寺137 『平山省斎と明治の神道』に記載。
伊予多賀教会 愛媛県伊予市米湊1746 『平山省斎と明治の神道』に記載。
禊教会本院飯塚分教会 千葉県松戸市松飛台270-4 『平山省斎と明治の神道』に記載。
宝心最上教会 千葉県市原市五井1838-6 『平山省斎と明治の神道』に記載。
赤嶽山本教会 長野県茅野市泉野1936 『平山省斎と明治の神道』に記載。八ケ岳赤嶽信仰の関連か。海山坊(富田謙明)の系統か。
大津月読教会 滋賀県大津市長等1-2-41 『平山省斎と明治の神道』に記載。
三宝道教会 福岡県福岡市博多区上牟田1-5-8 『平山省斎と明治の神道』に記載。
小正教会 福岡県飯塚市小正414-1 『平山省斎と明治の神道』に記載。
瀛津洲教会 福岡県大牟田市本町4-9-11 『平山省斎と明治の神道』に記載。
瓊海教会 長崎県長崎市中小島2-7-24 『平山省斎と明治の神道』に記載。
神南山権現布教所 愛媛県大洲市菅田町菅田898-10 『平山省斎と明治の神道』に記載。神南山(新谷神南)の山頂に神南山権現が祀られている。登山口にも社がある。
愛媛多賀教会小野田布教所 愛媛県西予市宇和町小野田491 『平山省斎と明治の神道』に記載。
愛媛多賀教会多田布教所 愛媛県西予市宇和町伊延2-497 『平山省斎と明治の神道』に記載。
天地根元之処 福岡県北九州市小倉北区赤坂1-3-31 『平山省斎と明治の神道』に記載。

離脱した団体

名称 所在地 備考
御嶽教 奈良県奈良市 1880年(明治13年)、独立前の大成教会に所属。1882年(明治15年)9月28日に神道御嶽派として独立。11月6日、神道御嶽教と改称。
直霊教会 京都府綾部市 現在の大本出口王仁三郎は同時期にいくつかの団体を作っている。
大道教 奈良県生駒郡安堵町東安堵1461 天理教系教団。水屋敷事件で知られる。1953年(昭和28年)5月、大成教から独立。
心学参前舎 東京都 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載。大成教を離れ、1921年(大正10年)12月15日、社団法人となる。現在、心学参前舎と名の付く社団法人が3団体あるが不詳。(「明治心学と宗教行政」)
心学明誠舎 大阪府 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載。大成教を離れ、1905年(明治38年)3月、社団法人となる。
多賀教会本部 滋賀県多賀郡多賀町 現在の多賀大社多賀講と思われる。
淘宮講社 現在の一般社団法人日本淘道会と思われる。
唯一神道禊教 東京都足立区 禊教系。野沢鉄教が設立。下谷国車坂町(台東区上野7丁目)にあった。宮沢鼎が継承し、大成教禊教禊教本院と称す。「大成教禊教第六教院」「大成教禊神道本院」「神道大成教禊大教会」などと称した。空襲で被災して西日暮里に移転。1953年(昭和28年)、大成教を離脱して「神道禊大教会」と改称。1980年(昭和55年)9月、梅田神明宮横に移転し、唯一神道禊教と改称した。(井上正鐡研究会会報11)

廃絶

名称 所在地 備考
畝傍橿原教会 奈良県橿原市 神武天皇陵の私設崇敬団体。奥野陣七(1842-)。1889年(明治22年)10月16日設立。橿原神宮の附属の団体であるかのように宣伝したため、神宮とトラブルになる。1903年(明治36年)2月16日、県知事が設立認可を取り消す。
蓮門教会 蓮門教事件
天学教会 神奈川県横浜市青葉区 服部国光が設立。「天学文字」という独自の文字を考案。印刷史で注目されているらしい。田中義能の昭和11『神道大成教の研究』に記載。
佐野講社 東京麹町 不詳。田中義能の昭和11『神道大成教の研究』に記載。
吉川講社 東京神田 淘宮術の団体。『いもあらひ』という雑誌を発行。田中義能の昭和11『神道大成教の研究』に記載。
吉村講社 東京赤坂 不詳。田中義能の昭和11『神道大成教の研究』に記載。
正風水音社 岐阜県 俳諧団体。美濃派。(鹿島三千代「明治期における美濃派」)
心学自謙舎 東京都 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学開成舎 東京都 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学富円舎 岐阜県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学万徳舎 岐阜県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学三省舎 静岡県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学真明舎 静岡県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学有隣舎 大阪府 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学会友舎 岐阜県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
心学会友舎 群馬県 心学団体。1885年(明治18年)11月「大成教附属之舎号一覧」に記載
梅木稲荷教会 埼玉県戸田市笹目 流行神。1913年(大正2年)に信仰を集めた(『日本歴史地名大系』)。現存しないらしい。鳥居などが残る。
奇霊講社 兵庫県尼崎市 『尼崎志』
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%9E%E9%81%93%E5%A4%A7%E6%88%90%E6%95%99」より作成

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