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祥瑞寺

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年8月3日 (火)

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[[大徳寺]]22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。
[[大徳寺]]22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。
[[臨済宗大徳寺派]]。[[本福寺]]の北側にある。'''聖瑞庵'''、'''祥瑞庵'''。山号は太平山。
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==歴史==
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1332年頃、[[延暦寺]][[横川]]末の[[天台宗]]寺院として了本房という僧が創建した'''玉泉庵'''が母体である。
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堅田は延暦寺領内の琵琶湖水運の拠点として発展した町である。
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1351年、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年、良和はこれを大徳寺に寄進した。
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1332年(元弘2年/正慶1年)頃、[[延暦寺]][[横川]]末の[[天台宗]]寺院として了本房という僧が創建した'''玉泉庵'''が母体である。
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1391年、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年、原素が継承。
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1351年(正平6年/観応2年)、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年(正平6年/観応2年)、良和はこれを大徳寺に寄進した。
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1406年、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年、正式に大徳寺末となった。
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1391年(元中8年/明徳2年)、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年(元中8年/明徳2年)、原素が継承。
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堅田の殿原衆に支えられて発展した。玉泉庵のその後は不詳。
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1406年(応永13年)、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年(応永17年)、正式に大徳寺末となった。
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地侍による堅田の殿原衆に支えられて発展した。玉泉庵は[[東福寺]]系となったこともあるが、その後は不詳(「玉泉庵住持次第」という史料が残る)。
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一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?-1414)の死を悲嘆し石山寺に参詣後、琵琶湖に入水。
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一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?-1414)の死を悲嘆し[[石山寺]]に参詣後、琵琶湖に入水。
一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。
一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。
聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。
聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。
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[[建仁寺]]445世の竹田益州も住職を務めたことがある。
(『日本歴史地名大系』ほか)
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2021年8月3日 (火) 時点における最新版

「一休和尚修養地」碑

祥瑞寺(しょうずいじ)は滋賀県大津市本堅田(近江国滋賀郡)にある一休宗純ゆかりの臨済宗寺院。本尊は釈迦如来。 大徳寺22世華叟宗曇(1352-1428)が創建。一休は華叟宗曇の弟子。「近江の臨済禅の中心道場」とされた。 臨済宗大徳寺派本福寺の北側にある。聖瑞庵祥瑞庵。山号は太平山。

歴史

祥瑞寺
祥瑞寺

堅田は延暦寺領内の琵琶湖水運の拠点として発展した町である。 1332年(元弘2年/正慶1年)頃、延暦寺横川末の天台宗寺院として了本房という僧が創建した玉泉庵が母体である。 1351年(正平6年/観応2年)、堅田荘の荘務を担っていた尭家というものが大徳寺の良和に玉泉庵を寄進し、1351年(正平6年/観応2年)、良和はこれを大徳寺に寄進した。 1391年(元中8年/明徳2年)、玉泉庵の住職の覃澡が新たに聖瑞庵を建て、1391年(元中8年/明徳2年)、原素が継承。 1406年(応永13年)、原素が聖瑞庵を大徳寺の華叟宗曇に寄進し、華叟宗曇が住職となり、1410年(応永17年)、正式に大徳寺末となった。 地侍による堅田の殿原衆に支えられて発展した。玉泉庵は東福寺系となったこともあるが、その後は不詳(「玉泉庵住持次第」という史料が残る)。

一休宗純は、21歳の時、師謙翁宗為(?-1414)の死を悲嘆し石山寺に参詣後、琵琶湖に入水。 一命を取り留めた後、聖瑞庵で華叟宗曇に学んだ。 聖瑞庵から瑞祥寺に改名したのは近世のことか。 建仁寺445世の竹田益州も住職を務めたことがある。 (『日本歴史地名大系』ほか)

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%A5%A5%E7%91%9E%E5%AF%BA」より作成

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