ようこそ『神殿大観』へ。ただいま
試験運用中
です。
竈門神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
竈門神社
のソース
移動:
案内
,
検索
以下に示された理由により、このページの編集を行うことができません:
この操作は、
利用者
のグループに属する利用者のみが実行できます。
ページ
名前空間にあるページを編集する権限がありません。
このページのソースを閲覧し、コピーすることができます:
[[ファイル:Homansan 008.jpg|350px|thumb|竈門神社上宮]] '''竈門神社'''(かまど・じんじゃ)は、福岡県太宰府市内山(筑前国御笠郡)の[[宝満山]]にある[[宝満山信仰]]の総本社。祭神は[[玉依姫命]]。相殿に[[神功皇后]]と[[応神天皇]]を祀り、[[八幡信仰]]とゆかり深い。[[官社]]・[[名神大社]]・[[官幣小社]]・[[別表神社]]。通称は'''宝満宮'''、'''竈門社'''、'''宝満大菩薩'''。[[宝満山]]や[[有智山寺]]の項目も参照。 ==祭神== 『宇佐託宣集』(1313)には755年の託宣として、八幡神は「竈門明神は吾姨」と述べたという。 『伊呂波字類聚抄』(平安時代末)には大分宮が筥崎宮に遷座したい旨を告げた921年の託宣で「竈門宮」を「我伯母」としている。 鎌倉時代末には宝満大菩薩と呼ばれた。 江戸時代の『和漢三才図会』(1712)や『筑前国続風土記』(1703)では「玉依姫」を祭神とし、神武天皇の母だとする。また相殿を神功皇后と八幡大神としており、現在の祭神もこれを踏襲している。 伴信友の『神名帳考証』(1813)では「宝満明神」は「玉依姫命」だとする。 『書言字考節用集』(1717)では神功皇后の妹の淀姫だとする説もある。 ==歴史== ===由緒=== 神社縁起では664年、大宰府の鬼門除けとして竈門山上に八百万神を祀ったのが始まりという。 673年2月10日に心蓮が登頂すると玉依姫命が示現し、社殿を建てた。 ===古代=== 1960年の調査で山頂祭祀遺跡から8世紀の奈良三彩や皇朝銭が出土しており、大宰府が祭祀を行っていたとみられる。 840年4月21日、従五位下から従五位上となる(『続日本後紀』) 同時に阿蘇神社と高良大社にも神階が授けられている。 この頃、大宰府管内で疫病が流行り、遣唐使船の事故も増えていた。 842年7月3日、朝廷は「祟」のため宗像大社、竈門神社、阿蘇神社に奉幣している。 838年、円仁が入唐の際に大山寺で竈門神などに祈願。 847年に帰国すると11月28日、大山寺で金剛般若経を転読し、竈門神などに使者を送り帛を奉った。 852年4月、入唐する円珍は博多浜で諸社の方角に向いて転読。竈門神社には4月7日に行った。 859年1月27日、全国の267社に神階が授けられ、竈門神社は従四位下となった(三代実録)。 879年6月7日、従四位上(三代実録)。 896年9月4日、正四位上(日本紀略)。894年遣唐使廃止で注目が弱まる。 竈門神社の支配を巡った延暦寺と石清水八幡宮の争論の後、1106年、正一位となる。 上宮・中宮・下宮の三宮があるが、一般的に下宮から順に成立していくと考えられている。 近代の文献では下宮を903年3月に建立したとあるが、もっと古いとみられる。 下宮周辺からは奈良時代の神宮寺跡の瓦が出土しており、下宮の成立も同時期の可能性がある。 社殿の存在を示す初出史料は、『石清水文書』に1085年9月5日に陰陽寮が「竈門社」の遷宮日時を同年12月17日と定めた文書とされる。 これは下宮の遷座祭とみられる。上宮も平安時代末期には存在した。1105年3月3日、竈門宮上宮が焼失(中右記)。 1112年4月、陰陽寮が竈門上宮の遷宮日時を勘申。 1130年12月、大宰府が竈門上宮の遷宮日時を報告。 1155年4月、天火で「竈宮」が焼失(台記)し、 1160年、竈門宮、大山、安楽寺が焼失(百錬抄)したとあるが上宮か下宮かは分からない。 803年、最澄は入唐のため遣唐使船で難波津を出発するが、難破して九州に漂着。 翌年9月の再出発までの間、多くの時間を竈門神社神宮寺の竈門山寺で過ごしたという。 扶桑略記には803年閏10月23日、薬師仏4体を造立したとある。 この薬師仏の1体が福岡市東光院にあるという。 藤原経衡は天喜年間、「竈門明神」に雨乞いのため水鏡を奉納した。 969年には筑前国の諸大社と同時に大宮司が置かれたらしい。 神人がいたことは分かるが詳細は分からない。 ===中世=== 1518年、上宮が炎上。 筑紫満門、1521年再建(北肥戦志) 1594年、小早川隆景が諸堂再興。 大宰府五条にあった頓宮に神輿が渡御していた。戦乱で途絶。 ===近世=== 宮司はほとんどの期間は座主が担っていたらしい。権宮司には子院住職が就いた。 1709年3月、下宮再興。 1855年、上宮再建。 藩主と座主の関係がこじれた時には太宰府天満宮を頼ることもあった。 ===近現代=== 明治5年11月、村社。この時から太宰府天満宮の管轄下に入ったとみられる。 明治28年9月30日、官幣小社に昇格(9/25とも、10/6とも)。 太宰府天満宮の強力な支援によるものだった。 明治11年、山上の本社が大破。11月に修復。 明治37年10月3日、上宮が焼失。大正1年に再建され10月23日に遷座祭。 ==組織== ===社務頭=== *藤井高門()<>:最後の座主。周雅。明治5年の村社列格と共に離れたとみられる。 ===社掌=== *吉田広成()<>:吉祥坊 ===歴代宮司=== *1西高辻信厳(1846-1899)<1895-1899> :[[太宰府神社]]宮司。明治28年10月14日兼務。1899年1月29日死去。 *2大橋鐐輔()<1901-1901> :1901年3月1日、竈門神社宮司。同年10月21日、[[丹生川上神社]]宮司に転任。 *3木庭保久()<1901-1902> :1901年10月31日、竈門神社宮司。1902年10月11日、[[筥崎宮]]に転任。 *4西高辻信雅()<1902-1903> :1902年10月11日、竈門神社宮司を兼務。1903年3月11日退任。 *5本田豊()<1903-1912> :1903年3月11日、竈門神社宮司。1912年10月22日、[[新田神社]]宮司に転任。 *6後藤周次郎()<1912-1920> :1912年10月22日、竈門神社宮司。1920年11月19日、[[西寒多神社]]宮司に転任。 *7大久保千濤(1877-1943)<1920-1926> :1920年11月19日竈門神社宮司。1926年10月1日、[[枚岡神社]]宮司に転任。 *8西高辻信任()<1926-1937> :1926年10月1日、竈門神社宮司。1937年10月9日、在職で死去。 *9中井藤一郎()<1937-1944> :1937年10月16日、竈門神社宮司。1944年7月4日、[[熊野那智大社]]宮司に転任。 *10業合弘海()<1944-1947> :1944年7月4日、竈門神社宮司。1947年3月2日、病気で宮司を辞任。 *11西高辻信貞(1920-1987)<1948-1952> :1948年4月30日、竈門神社宮司を兼務。1952年10月23日退任。 *12荒川孝()<1952-1954> :1952年10月23日、竈門神社宮司。1954年8月10日退任。 *13西高辻信貞(1920-1987)<1954-> :1954年8月20日、竈門神社宮司に再任。 *14西高辻信良()<1983->:太宰府天満宮宮司。 ==画像== <gallery> ファイル:Homansan 001.jpg ファイル:Homansan 002.jpg ファイル:Homansan 003.jpg ファイル:Homansan 004.jpg ファイル:Homansan 005.jpg ファイル:Homansan 006.jpg ファイル:Homansan 007.jpg ファイル:Homansan 008.jpg ファイル:Homansan 009.jpg ファイル:Homansan 010.jpg ファイル:Homansan 011.jpg ファイル:Homansan 012.jpg ファイル:Homansan 013.jpg </gallery> <!-- ==古典籍== --> ==参考文献== *土岐昌訓 平成7「旧官国幣社と延喜式内社」『神社史の研究』 ==脚注== <references/> [[category:福岡県]]
竈門神社
に戻る。
表示
ページ
議論
ソースを表示
履歴
個人用ツール
案内
神殿大観 メイン
神殿大観 総目次
おまかせ表示
検索
ツールボックス
リンク元
関連ページの更新状況
ファイルをアップロード
特別ページ