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紫宸殿

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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'''紫宸殿'''(ししんでん、ししいでん)は[[平安宮]]内裏の正殿。
'''紫宸殿'''(ししんでん、ししいでん)は[[平安宮]]内裏の正殿。
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==儀礼==
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*後七日御修法:1353年(正平8年/文和2年)の[[真言院]]廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が会場となった。
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*季御読経:2月と8月に行われた。100人の僧侶を集めて『大般若経』転読を行った。708年(和銅1年)、もしくは729年(天平1年)に年に一度の行事として始まった。862年(貞観4年)には2月・4月・8月・10月の年四度となった。877年(元慶1年)3月、年2度となった。元は3日間だったが天慶年間以降は4日間となった。[[大極殿]]や[[清涼殿]]でも行われた。
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*五仏頂法:円澄(772-837)が805年(延暦24年)に始めた。
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*御斎会:原則として大極殿で行うが、紫宸殿で行ったこともある。
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*仁王会:宮中内外の各所に置かれた道場の一つとなった。
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== 旧堂の下賜 ==
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*[[長岡宮]]の紫宸殿が移築されて創建時の[[清水寺]]本堂になったという伝承がある。
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*慶長年間造営の紫宸殿が1637年(寛永14年)[[仁和寺]]金堂に移築された。
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*季御読経:2月と8月に行われた。100人の僧侶を集めて『大般若経』転読を行った。708年(和銅1年)、もしくは729年(天平1年)に年に一度の行事として始まった。862年(貞観4年)には2月・4月・8月・10月の年四度となった。877年(元慶1年)3月、年2度となった。元は3日間だったが天慶年間以降は4日間となった。大極殿や清涼殿でも行われた。
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*後七日御修法:1353年(正平8年/文和2年)の真言院廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が会場となった。
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*浄土真宗本堂には「紫宸殿造」という様式があったらしい。
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== その他 ==
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*旧堂は仁和寺金堂に移築された。
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*[[浄土真宗]]本堂には「紫宸殿造」という様式があったらしい。

2019年1月9日 (水) 時点における版

紫宸殿(ししんでん、ししいでん)は平安宮内裏の正殿。

儀礼

  • 後七日御修法:1353年(正平8年/文和2年)の真言院廃滅の後は、明治初年まで紫宸殿が会場となった。
  • 季御読経:2月と8月に行われた。100人の僧侶を集めて『大般若経』転読を行った。708年(和銅1年)、もしくは729年(天平1年)に年に一度の行事として始まった。862年(貞観4年)には2月・4月・8月・10月の年四度となった。877年(元慶1年)3月、年2度となった。元は3日間だったが天慶年間以降は4日間となった。大極殿清涼殿でも行われた。
  • 五仏頂法:円澄(772-837)が805年(延暦24年)に始めた。
  • 御斎会:原則として大極殿で行うが、紫宸殿で行ったこともある。
  • 仁王会:宮中内外の各所に置かれた道場の一つとなった。

旧堂の下賜

  • 長岡宮の紫宸殿が移築されて創建時の清水寺本堂になったという伝承がある。
  • 慶長年間造営の紫宸殿が1637年(寛永14年)仁和寺金堂に移築された。


その他

  • 浄土真宗本堂には「紫宸殿造」という様式があったらしい。
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%B4%AB%E5%AE%B8%E6%AE%BF」より作成

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