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美作・中山神社
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2022年11月9日 (水)
中山神社(なかやま・じんじゃ)は岡山県津山市一宮(美作国苫東郡)にある神社。現在の祭神は鏡作神だが諸説ある。官社・名神大社・正三位・美作国一宮・国幣中社・別表神社。金山彦信仰を連想させる仲山大明神とも南宮とも呼ばれ、近代には祭神が金山彦命とされていた。吉備津彦信仰との関連も指摘される。美作・高野神社や美作総社と共に美作国三大社に数えられる。中山造と呼ばれる本殿と、中山鳥居と呼ばれる鳥居で知られる。(参考:同名神社中山神社)
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祭神
他に金山彦命説、吉備武彦命説、大己貴命説がある。吉備武彦命説を採る場合、備前の吉備津彦神社や備後の吉備津神社と同様に、美作国が吉備国から分立した時に吉備津神社から分霊したという見方がなされ、社名の「中山」は吉備津神社のある吉備中山に由来するという考えられている。金山彦命説では、「中山神社」「仲山大明神」「南宮」などの社名は「仲山金山彦神社」とも呼ばれる南宮大社と関連付けられる。
歴史
「ちゅうざん」「ちゅうぜん」とも呼ばれた。707年創建。奈良時代以前の瓦が出土している。創建を巡っては志呂神社と関連する縁起もある。
『今昔物語集』26に中山神社の神体は猿形とあるが、現在の猿神社のことともされる。
- 860年1月27日に従四位下(三代実録)。
- 864年8月14日、官社列格。
- 865年7月26日、従三位。
- 875年4月5日、正三位。
- 1017年、後一条天皇の一代一度大神宝使が遣わされた(左経記)。
- 1285年、一遍が参詣(一遍聖絵)。
- 元寇に際して異国降伏祈願が行われた
- 1511年焼失。
- 1533年焼失。
- 1554年、尼子晴久が焼き討ちしたが、
- 1559年、尼子晴久が本殿を再建。この時のものが現在の本殿である。
- 1871年、国幣中社。近代になって祭神は金山彦命と定められた。
- 1946年、祭神を復旧して主神は鏡作神、相殿に天糠戸神に祀り、石凝姥神を配祀するとされた。
分社として粟倉八社がある。
境内
- 本社
- 総神殿
- 国司社
- 御先社
- 猿神社
- 鉾立石
- 御旅所
- 真応寺:神応寺。廃絶。神宮寺。
- 長良嶽
組織
宮司
実吉賀之丞
- 結城秀伴(1823-1897):京都出身の志士。曇華院家令。大国隆正に学ぶ。1872年(明治5年)宮内省に出仕。1876年(明治9年)2月14日から1877年(明治10年)12月12日まで八坂神社宮司。1878年(明治11年)岡山県下の郡長となる。のち中山神社宮司。(『神道人名辞典』)
- 美甘政和(1836-1918)<1897-1909>:
- 藤巻正之(1877-1968)<>:伏見稲荷大社宮司。
- 松永常彦()<>:1926年在職。射水神社宮司。
- 仁木大次()<>:
- 為貞元臣()<>:昭和17年在職。
- 湯浅正敬
権宮司
- 美甘政和(1836-1918)<1874->:
- 黒田成福
- 藤本勉
- 三宅古城
資料
- 『古事類苑』[1]
- 藤巻正之1923『国幣中社中山神社資料』
- 『中山神社祭神考』
- 『中山神社記』
- 『中山神社縁由』
- 一宮社伝書上
- 中山神社文書:『岡山県古文書集』所収。
- 中山神社古文書寳物并什器取調書
- 美作備中神社由緒取調書
- 一宮中山大神宮境内絵図
- 中国地方の近世社寺建築
- 作州風土略
- 美作一宮誌
- 作陽誌
- 1933中山神社要覧
- 1975中山神社の社叢
- 1976中山神社四代歌人宮司遺詠集
- 1996岡山県の民俗芸能:岡山県民俗芸能緊急調査報告書
- 2009重要文化財中山神社本殿保存修理報告書
- 津山市史
- 「美作中山神社とオオナムヂ・物部氏--中山神社社伝を中心として」[2]
- 三浦正幸1988「美作の中山神社本殿」『日本建築学会中国支部研究報告集』
- 「紹介:国幣中社中山神社資料」[3]