ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

群馬県護国神社

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(ページの作成:「'''群馬県護国神社'''(ぐんまけん・ごこくじんじゃ)は、群馬県高崎市にある、県内の戦没者などを祀る招魂社。[[内務大臣...」)
1行: 1行:
-
'''群馬県護国神社'''(ぐんまけん・ごこくじんじゃ)は、群馬県高崎市にある、県内の戦没者などを祀る[[招魂社]]。[[内務大臣指定護国神社]]。[[category:群馬県]]
+
'''群馬県護国神社'''(ぐんまけん・ごこくじんじゃ)は、群馬県高崎市乗附町にある、県内の戦没者などを祀る[[招魂社]]。[[内務大臣指定護国神社]]。[[別表神社]]。占領中の名称は'''上野神社'''、'''誠霊廟'''。
 +
 
 +
==祭神==
 +
『靖国神社百年史』では46952柱、「全国護国神社一覧」では47269柱とある。
 +
 
 +
創建時の祭神は1864年(元治1年)以来の国事殉難者・戦没者3578柱。崇敬範囲は群馬県全域。その後、順次合祀されたが、靖国神社祭神となっている神霊を主祭神として祀る一方、相殿神として靖国神社非合祀の者や本籍県外の者も祀っている。1947年(昭和22年)から1957年(昭和32年)に合祀された39717柱のうち、主祭神29806柱であるのに対して、相殿神は11744柱にもなっている(合計が合わない)。その後、相殿から主祭神への遷座合祀がなされている。これはおそらくそれまで靖国神社に合祀されていなかった者が靖国神社に合祀されたのに合わせて主祭神とされたのだろう。護国神社での合祀の時期と靖国神社での合祀の時期にズレがあったことが推定できる。従来、護国神社祭神は靖国神社祭神に限定されていたが、以上のように実際には各神社が独自に合祀対象者を決めていたらしい。これらの祭神の名は霊璽簿に清書された。
 +
県境変更があった場合は、合祀および分祀がなされた。1968年(昭和43年)、栃木県安蘇郡田沼町より桐生市に一部編入されたが、その翌年、該当地域の戦没者が合祀された。また1960年(昭和35年)に矢場川村の一部が栃木県足利市に編入されたときには該当地域の祭神が栃木県護国神社に分祀された。
 +
 
 +
==歴史==
 +
===前史===
 +
県内では1869年(明治2年)9月創建の[[邑楽招魂社]]や1880年(明治13年)創建の[[厩橋招魂社]]があり、歩兵第15連隊のある高崎では1909年(明治42年)3月27日、高崎公園に[[高崎英霊殿]]が創建され、毎年、維新以来の群馬県下の戦没者と歩兵第15連隊所属の埼玉・長野出身戦没者の弔魂祭が行われてきた。
 +
 
 +
===護国神社の創建===
 +
1934年(昭和9年)、内務省は、従来の方針を大きく転換し、招魂社一県一社創建の方針を採用した。方針が具体化するに合わせて、全国各地で招魂社創建の動きが生じた。群馬県内においても群馬県を代表する招魂社を創建しようとする機運が生じた。すると群馬県の県庁所在地である前橋市が一県一社の招魂社の誘致に名乗りを上げ、これまで群馬県の戦没者祭祀を行ってきた高崎市との間で激しい誘致競争となった。高崎市は「軍都の面目にかけて」これに対抗し、1938年(昭和13年)5月19日、高崎市公会堂にて「靖国神社分社建立期成会」を設立し、高崎への招魂社創建を主張した。この活動を主導したのが歩兵第15連隊長役山久義少将(のち護国神社社司)であった。まもなく社地は高崎と決定したらしい(年代不詳)。これは、護国神社は県庁所在地に創建するより、連隊所在地に創建するほうが相応しいと判断された結果であったと考えられている。
 +
1939年(昭和14年)4月、護国神社制度が始まり、群馬県でも護国神社創建の活動が具体化した。1939年(昭和14年)7月5日、群馬県知事を会長として、群馬県護国神社造営委員会が組織された。1939年(昭和14年)12月、委員会は、社地を連隊衛戍地から近い観音山麓に決定した。観音山にはすでに二つの慰霊施設が建てられていた。1934年(昭和9年)11月3日に忠霊塔が建立され、1936年(昭和11年)10月に白衣大観音が建立されていた。すでに慰霊空間としての様相を呈しつつあった観音山に護国神社創建が決定された。
 +
 
 +
1940年(昭和15年)3月1日、第一次整地作業を起工し、5月末に終了した。ついで6月1日に主要社殿の地鎮祭を行い、造営に取り掛かった。11月3日、立柱上棟式を行った。12月1日には第二次整地作業を開始し、翌年5月31日まで行った。作業には勤労奉仕によって行われ、群馬県民が動員された。
 +
また起工した1940年(昭和15年)3月1日には内務省に創立願いを提出した。6月21日に内務省より創立許可を得た。1941年(昭和16年)9月にはそれまで英霊殿にて招魂祭を行ってきた群馬県招魂会が群馬県護国神社奉斎会に改組した。鎮座を控えた11月8日、昭和16年内務省告示第595号により内務大臣指定護国神社となり、同日には群馬県神饌幣帛料供進神社に指定された。11月12日には役山久義(陸軍少将)が社司に就任した。
 +
そして1941年(昭和16年)11月19日、鎮座祭が行われ、群馬県護国神社が創建された。このとき鎮座した祭神は1864年(元治1年)以来の国事殉難者・戦没者3578柱であった。造営費は約38万7000円であった。社殿は典型的な護国神社様式で、神祇院造営課長の角南隆が実地調査の上、雑賀駒三郎が設計した。境域19529坪は高崎市より県を介して神社に寄進された。護国神社の創建とともに高崎公園の英霊殿は廃絶したようだが、年月は明らかでない。
 +
 
 +
鎮座祭の翌月、日本は太平洋戦争に突入した。以後、毎年戦没者を合祀していった。1945年(昭和20年)、高崎は軍都であったこともあり、空襲による甚大な被害を蒙ったが、幸運にも護国神社は被害を免れた。敗戦間近の8月5日および14日夜から15日未明にかけてアメリカ軍の高崎空襲が行われたが、護国神社は、市街地から河を挟んだ対岸に位置したことが幸いしたのか、焼夷弾による火災の被害を受けることはなかった。
 +
 
 +
===占領中の改革===
 +
敗戦により、護国神社は存亡の危機を迎えた。占領中の間、ほかの多くの護国神社と同様に社名を変更した。しかし、群馬県護国神社のように、二度も社名を変更した護国神社は他にはない。1947年(昭和22年)3月30日、「誠霊廟」と改称し、さらに1950年(昭和25年)5月18日には「上野神社」と改称した。独立後の1954年(昭和29年)5月9日、「群馬県護国神社」を再び名乗った。「廟」と名乗った護国神社は他になく、注目される。
 +
また1947年(昭和22年)2月から1952年(昭和27年)6月にかけて、[[神社本庁]]を離脱していた。その理由は明らかではない。ただ、離脱時期を見れば、この離脱が上記の「誠霊廟」改称との関連が推測される。「神社」から「廟」への改称と神社本庁離脱を合わせて考えれば、もしかするとこの時期には「非神社化」によって存続を図るということが検討されていたのかもしれない。
 +
創建からの群馬県護国神社奉斎会は敗戦後の混乱と政教分離によって自然消滅した。その後、1946年(昭和21年)5月10日、再び奉斎会が組織され、例大祭の執行と祭神合祀が企図されたが、不安定な情勢の中、実現しなかった(1950年(昭和25年)解散)。これに代わって翌年には、高崎市遺族会によって例大祭と祭神合祀を実現した。この成功をもとに翌1948年(昭和23年)11月14日、誠霊廟崇敬会が設立され、翌年の例大祭においては、遺族8000名の参列を実現した。1952年(昭和27年)、講和条約が発効し、アメリカの占領が終わると、既設団体を包含して全県規模の神社維持組織を設立することが決まった。同年7月18日に上野神社奉賛会が設立され、護国神社維持基盤が整備された。翌年、崇敬会は解散した。
 +
 
 +
===戦後の動向===
 +
1952年(昭和27年)、社殿屋根修理が行われたが、翌年には社殿屋根を桧皮葺から銅板葺に変更することとなり、1953年(昭和28年)12月から翌年2月にかけて葺き替えが行われた。
 +
敗戦後10周年を迎える1955年(昭和30年)には[[靖国神社]]にならって、みたま祭りが開始された。
 +
1996年(平成8年)7月1日、神社本庁別表神社に加列された。1999年(平成11年)には神道式納骨堂として祖霊殿が創建された。
 +
 
 +
==境内==
 +
*本社:本殿、拝殿、祝詞殿、翼廊などより構成されている。拝殿の左右に翼廊が付き、翼を広がるような形で広場に面するという、典型的な護国神社様式の構成となっている。拝殿は入母屋造妻入で、その後ろに祝詞殿があり、さらに後ろに流造の本殿が鎮座している。皇居の方角に面するように設定されたが実際には、ずれている。
 +
*斎場:本殿に向かって右脇にある。合祀の際に戦没者の招魂式を行う招魂斎場だと思われる。
 +
*祖霊殿:納骨殿。1999年(平成11年)の創建。納骨殿となっている。境内を離れた高台に鎮座している。
 +
*海外引揚物故者慰霊塔:1961年(昭和36年)3月21日、群馬県引揚者連合会が建立して、3200柱の霊璽を合祀した。
 +
*慰霊碑群:境内周辺には多数の慰霊碑が立ち並んでいる。鵬翼之塔、平和の礎などがある。
 +
 
 +
==組織==
 +
===社司・宮司===
 +
*1役山久義()<1941->:陸軍少将。1941年(昭和16年)11月12日就任。
 +
*天田精一?()<-1950->:
 +
*江森幸平()<1953->:1953年(昭和28年)7月25日就任。[[板倉雷電神社]]宮司。[[邑楽護国神社]]受持神官もしていた。
 +
*高井稜威雄()<1955->:[[高崎神社]]宮司。1955年(昭和30年)8月9日就任。
 +
*石川忠良()<>:
 +
*金子安平()<>:[[榛名神社]]宮司。
 +
*奥沢公慶()<>:
 +
 
 +
==資料==
 +
*1940『上毛忠魂録』群馬県
 +
*根岸省三1969『高崎市の明治百年史』高崎市社会教育振興会
 +
*石川忠良1971『群馬県護国神社誌』
 +
*手島仁1999「たかさき100年 第52回 群馬県護国神社の創建」『広報たかさき』平成11年1月
 +
*清水吉二1999「たかさき100年 第56回米軍機による高崎の空襲」『広報たかさき』平成11年3月
 +
*今井昭彦1987「群馬県下における戦没者慰霊施設の展開」
 +
*今井昭彦2008「忠霊塔建設に関する考察」
 +
*今井昭彦2008「群馬県における忠霊塔建設」
 +
*今井昭彦2003「旧藩における護国神社の創建」
 +
*『靖国神社百年史』下巻
 +
*群馬県護国神社ウェブサイト
 +
 
 +
[[category:群馬県]]

2020年2月9日 (日) 時点における版

群馬県護国神社(ぐんまけん・ごこくじんじゃ)は、群馬県高崎市乗附町にある、県内の戦没者などを祀る招魂社内務大臣指定護国神社別表神社。占領中の名称は上野神社誠霊廟

目次

祭神

『靖国神社百年史』では46952柱、「全国護国神社一覧」では47269柱とある。

創建時の祭神は1864年(元治1年)以来の国事殉難者・戦没者3578柱。崇敬範囲は群馬県全域。その後、順次合祀されたが、靖国神社祭神となっている神霊を主祭神として祀る一方、相殿神として靖国神社非合祀の者や本籍県外の者も祀っている。1947年(昭和22年)から1957年(昭和32年)に合祀された39717柱のうち、主祭神29806柱であるのに対して、相殿神は11744柱にもなっている(合計が合わない)。その後、相殿から主祭神への遷座合祀がなされている。これはおそらくそれまで靖国神社に合祀されていなかった者が靖国神社に合祀されたのに合わせて主祭神とされたのだろう。護国神社での合祀の時期と靖国神社での合祀の時期にズレがあったことが推定できる。従来、護国神社祭神は靖国神社祭神に限定されていたが、以上のように実際には各神社が独自に合祀対象者を決めていたらしい。これらの祭神の名は霊璽簿に清書された。 県境変更があった場合は、合祀および分祀がなされた。1968年(昭和43年)、栃木県安蘇郡田沼町より桐生市に一部編入されたが、その翌年、該当地域の戦没者が合祀された。また1960年(昭和35年)に矢場川村の一部が栃木県足利市に編入されたときには該当地域の祭神が栃木県護国神社に分祀された。

歴史

前史

県内では1869年(明治2年)9月創建の邑楽招魂社や1880年(明治13年)創建の厩橋招魂社があり、歩兵第15連隊のある高崎では1909年(明治42年)3月27日、高崎公園に高崎英霊殿が創建され、毎年、維新以来の群馬県下の戦没者と歩兵第15連隊所属の埼玉・長野出身戦没者の弔魂祭が行われてきた。

護国神社の創建

1934年(昭和9年)、内務省は、従来の方針を大きく転換し、招魂社一県一社創建の方針を採用した。方針が具体化するに合わせて、全国各地で招魂社創建の動きが生じた。群馬県内においても群馬県を代表する招魂社を創建しようとする機運が生じた。すると群馬県の県庁所在地である前橋市が一県一社の招魂社の誘致に名乗りを上げ、これまで群馬県の戦没者祭祀を行ってきた高崎市との間で激しい誘致競争となった。高崎市は「軍都の面目にかけて」これに対抗し、1938年(昭和13年)5月19日、高崎市公会堂にて「靖国神社分社建立期成会」を設立し、高崎への招魂社創建を主張した。この活動を主導したのが歩兵第15連隊長役山久義少将(のち護国神社社司)であった。まもなく社地は高崎と決定したらしい(年代不詳)。これは、護国神社は県庁所在地に創建するより、連隊所在地に創建するほうが相応しいと判断された結果であったと考えられている。 1939年(昭和14年)4月、護国神社制度が始まり、群馬県でも護国神社創建の活動が具体化した。1939年(昭和14年)7月5日、群馬県知事を会長として、群馬県護国神社造営委員会が組織された。1939年(昭和14年)12月、委員会は、社地を連隊衛戍地から近い観音山麓に決定した。観音山にはすでに二つの慰霊施設が建てられていた。1934年(昭和9年)11月3日に忠霊塔が建立され、1936年(昭和11年)10月に白衣大観音が建立されていた。すでに慰霊空間としての様相を呈しつつあった観音山に護国神社創建が決定された。

1940年(昭和15年)3月1日、第一次整地作業を起工し、5月末に終了した。ついで6月1日に主要社殿の地鎮祭を行い、造営に取り掛かった。11月3日、立柱上棟式を行った。12月1日には第二次整地作業を開始し、翌年5月31日まで行った。作業には勤労奉仕によって行われ、群馬県民が動員された。 また起工した1940年(昭和15年)3月1日には内務省に創立願いを提出した。6月21日に内務省より創立許可を得た。1941年(昭和16年)9月にはそれまで英霊殿にて招魂祭を行ってきた群馬県招魂会が群馬県護国神社奉斎会に改組した。鎮座を控えた11月8日、昭和16年内務省告示第595号により内務大臣指定護国神社となり、同日には群馬県神饌幣帛料供進神社に指定された。11月12日には役山久義(陸軍少将)が社司に就任した。 そして1941年(昭和16年)11月19日、鎮座祭が行われ、群馬県護国神社が創建された。このとき鎮座した祭神は1864年(元治1年)以来の国事殉難者・戦没者3578柱であった。造営費は約38万7000円であった。社殿は典型的な護国神社様式で、神祇院造営課長の角南隆が実地調査の上、雑賀駒三郎が設計した。境域19529坪は高崎市より県を介して神社に寄進された。護国神社の創建とともに高崎公園の英霊殿は廃絶したようだが、年月は明らかでない。

鎮座祭の翌月、日本は太平洋戦争に突入した。以後、毎年戦没者を合祀していった。1945年(昭和20年)、高崎は軍都であったこともあり、空襲による甚大な被害を蒙ったが、幸運にも護国神社は被害を免れた。敗戦間近の8月5日および14日夜から15日未明にかけてアメリカ軍の高崎空襲が行われたが、護国神社は、市街地から河を挟んだ対岸に位置したことが幸いしたのか、焼夷弾による火災の被害を受けることはなかった。

占領中の改革

敗戦により、護国神社は存亡の危機を迎えた。占領中の間、ほかの多くの護国神社と同様に社名を変更した。しかし、群馬県護国神社のように、二度も社名を変更した護国神社は他にはない。1947年(昭和22年)3月30日、「誠霊廟」と改称し、さらに1950年(昭和25年)5月18日には「上野神社」と改称した。独立後の1954年(昭和29年)5月9日、「群馬県護国神社」を再び名乗った。「廟」と名乗った護国神社は他になく、注目される。 また1947年(昭和22年)2月から1952年(昭和27年)6月にかけて、神社本庁を離脱していた。その理由は明らかではない。ただ、離脱時期を見れば、この離脱が上記の「誠霊廟」改称との関連が推測される。「神社」から「廟」への改称と神社本庁離脱を合わせて考えれば、もしかするとこの時期には「非神社化」によって存続を図るということが検討されていたのかもしれない。 創建からの群馬県護国神社奉斎会は敗戦後の混乱と政教分離によって自然消滅した。その後、1946年(昭和21年)5月10日、再び奉斎会が組織され、例大祭の執行と祭神合祀が企図されたが、不安定な情勢の中、実現しなかった(1950年(昭和25年)解散)。これに代わって翌年には、高崎市遺族会によって例大祭と祭神合祀を実現した。この成功をもとに翌1948年(昭和23年)11月14日、誠霊廟崇敬会が設立され、翌年の例大祭においては、遺族8000名の参列を実現した。1952年(昭和27年)、講和条約が発効し、アメリカの占領が終わると、既設団体を包含して全県規模の神社維持組織を設立することが決まった。同年7月18日に上野神社奉賛会が設立され、護国神社維持基盤が整備された。翌年、崇敬会は解散した。

戦後の動向

1952年(昭和27年)、社殿屋根修理が行われたが、翌年には社殿屋根を桧皮葺から銅板葺に変更することとなり、1953年(昭和28年)12月から翌年2月にかけて葺き替えが行われた。 敗戦後10周年を迎える1955年(昭和30年)には靖国神社にならって、みたま祭りが開始された。 1996年(平成8年)7月1日、神社本庁別表神社に加列された。1999年(平成11年)には神道式納骨堂として祖霊殿が創建された。

境内

  • 本社:本殿、拝殿、祝詞殿、翼廊などより構成されている。拝殿の左右に翼廊が付き、翼を広がるような形で広場に面するという、典型的な護国神社様式の構成となっている。拝殿は入母屋造妻入で、その後ろに祝詞殿があり、さらに後ろに流造の本殿が鎮座している。皇居の方角に面するように設定されたが実際には、ずれている。
  • 斎場:本殿に向かって右脇にある。合祀の際に戦没者の招魂式を行う招魂斎場だと思われる。
  • 祖霊殿:納骨殿。1999年(平成11年)の創建。納骨殿となっている。境内を離れた高台に鎮座している。
  • 海外引揚物故者慰霊塔:1961年(昭和36年)3月21日、群馬県引揚者連合会が建立して、3200柱の霊璽を合祀した。
  • 慰霊碑群:境内周辺には多数の慰霊碑が立ち並んでいる。鵬翼之塔、平和の礎などがある。

組織

社司・宮司

  • 1役山久義()<1941->:陸軍少将。1941年(昭和16年)11月12日就任。
  • 天田精一?()<-1950->:
  • 江森幸平()<1953->:1953年(昭和28年)7月25日就任。板倉雷電神社宮司。邑楽護国神社受持神官もしていた。
  • 高井稜威雄()<1955->:高崎神社宮司。1955年(昭和30年)8月9日就任。
  • 石川忠良()<>:
  • 金子安平()<>:榛名神社宮司。
  • 奥沢公慶()<>:

資料

  • 1940『上毛忠魂録』群馬県
  • 根岸省三1969『高崎市の明治百年史』高崎市社会教育振興会
  • 石川忠良1971『群馬県護国神社誌』
  • 手島仁1999「たかさき100年 第52回 群馬県護国神社の創建」『広報たかさき』平成11年1月
  • 清水吉二1999「たかさき100年 第56回米軍機による高崎の空襲」『広報たかさき』平成11年3月
  • 今井昭彦1987「群馬県下における戦没者慰霊施設の展開」
  • 今井昭彦2008「忠霊塔建設に関する考察」
  • 今井昭彦2008「群馬県における忠霊塔建設」
  • 今井昭彦2003「旧藩における護国神社の創建」
  • 『靖国神社百年史』下巻
  • 群馬県護国神社ウェブサイト
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E7%A5%9E%E7%A4%BE」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール