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聖徳太子信仰

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

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聖徳太子信仰 

目次

概要

聖徳太子(しょうとく・たいし)(574-622?)は、宗派を問わず日本仏教の開祖と位置付けられている推古天皇の皇太子。用明天皇皇子。その忌日法要は、聖霊会太子会などと呼ばれる。本地仏は、観音菩薩。また慧思の生まれ変わりとされる。特に天台宗日蓮宗では『法華経義疏』を著し法華経を広めた人物として、真言宗では空海の前世として、浄土真宗では浄土教を広め親鸞に夢告を降した教主として崇められている。禅宗開祖達磨と出会った伝説や善光寺如来と手紙を交わしたという伝説もある。律宗でも重視され、叡尊は『聖徳太子講式』を作った。舎利信仰とも密接な関係にある。大工の守護神として信仰されるようになる。富士山に最初に登った人物ともされる。

日本書紀は621年死去、法王帝説は622年死去とする


歴史

信仰

御影

  • 唐本御影
  • 南無仏太子:二歳像
  • 童子太子:七歳像
  • 孝養太子像:十六歳像
    • 垂髪太子
    • 植髪太子
  • 摂政像:三十五歳、四十二歳、四十九歳像。
    • 水鏡御影:法隆寺蔵。聖徳太子が水鏡を用いて描いた自画像とされる。鎌倉時代。
    • 講讃太子:三十五歳、四十五歳。
    • 楊枝御影:「摂政太子」とも。四天王寺蔵。西本願寺蔵。法隆寺にも同様の像を伝える。
  • 黒駒太子
  • 聖皇曼荼羅
  • 二王子像・二童子像:山背大兄王、殖栗皇子
    • 廟崛太子
  • 二僧像:
  • 四臣像:
  • 六臣像:小野妹子、蘇我馬子、日羅、秦河勝、阿佐太子、慧慈
  • 八童子像

絵図

  • 講讃図
  • 天寿国繡帳
  • 絵伝

随臣・眷属

  • 山背大兄王
  • 殖栗皇子
  • 卒麻呂王
  • 慧慈
  • 黒駒
  • 雪丸
  • 調子丸
  • 小野妹子
  • 蘇我馬子
  • 日羅
  • 秦河勝
  • 阿佐太子

秘宝

  • 七種之霊宝
    • 釈迦御袈裟
    • 梵網経:聖徳太子自筆と伝える。平安時代初期。この時代の紺紙金字経は断簡が多いが、完全な巻子本で伝わるものは希少という。現在は東京国立博物館法隆寺宝物館にある。
    • 五大明王鈴
    • 御足印
    • 賢聖瓢印
    • 梓弓
    • 六目鏑矢

墓廟


旧跡一覧

御所

七大寺

『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』(747)では次の七大寺を挙げる。

また『大唐七代記』では中宮寺を抜き、法興寺と定林寺(立部寺)を入れた八大寺を挙げる

三太子

四十六寺

『太子伝玉林抄』(『聖徳太子の本』)掲載のリスト。異説あり。由来が不明な寺院も多い。

  • 苻神寺:廃絶。不詳。駿河国。
  • 四天王寺:大阪府大阪市天王寺区。摂津国東生郡。物部守屋との戦いで創建。
  • 菅田寺:廃絶。不詳。河内国。
  • 御廟寺:大阪府南河内郡太子町。河内国石川郡。叡福寺。太子の墓。
  • 中宮寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。太子は母后穴穂部間人皇女のため、皇后の宮殿を改めて寺院としたのが起源。創建時期は皇后の生前とも皇后の死後とも伝える。
  • 妙安寺:奈良県高市郡明日香村。飛鳥葛城寺の後身という。大和国高市郡。
  • 定林寺:奈良県高市郡明日香村。飛鳥にあった。大和国高市郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 熊凝寺:奈良県大和郡山市。大和国平群郡。大安寺額安寺の前身。聖徳太子が田村王子に遺言して建てられたとも、推古天皇病気平癒のためともいう。
  • 信貴山:奈良県生駒郡平群町。大和国平群郡。物部守屋との戦いで創建。
  • 牛臥寺:奈良県生駒郡平群町。信貴山にあった?大和国平群郡。
  • 広隆寺:京都府京都市右京区。山城国葛野郡。秦河勝が太子から仏像を賜って祀ったのが始まりという。
  • 蒲生寺:不詳。近江国蒲生郡には太子建立と伝える寺が多いが関連するか。
  • 阿弥陀寺:不詳。
  • 観音寺:不詳。
  • 勝善寺:不詳。
  • 日向寺:奈良県橿原市南浦町。大和国高市郡。藤原京左京八条四坊にあたる。なぜ太子建立とされたかは不明。
  • 大后寺:奈良県橿原市?。大和国高市郡。不詳。なぜ太子建立とされたかは不明。
  • 坂田寺:奈良県高市郡明日香村。廃絶。大和国高市郡。太子との関係は不明。
  • 太子寺:不詳。
  • 当麻寺:奈良県葛城市。大和国葛下郡。麻呂子親王が兄の聖徳太子の教えを受けて二上山の西に創建したという。
  • 武作寺:滋賀県近江八幡市。近江国蒲生郡。聖徳太子妃の高橋妃の出産にまつわる縁起がある。
  • 山田寺:奈良県桜井市。大和国十市郡。太子との関係は不明。
  • 野中寺:大阪府羽曳野市。河内国丹南郡。太子の命で蘇我馬子が創建したという。
  • 真福寺:愛知県岡崎市。三河国額田郡。物部真福が創建し、太子がこれを褒めて寺領を与えたという。
  • 阿弥陀院:不詳。善光寺という説がある。
  • 茨田寺:大阪府寝屋川市。廃絶。河内国茨田郡。跡地のそばには太子の弟の茨田王塚がある。
  • 太平寺:大阪府柏原市。河内国大県郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 法隆寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。太子の御所の斑鳩宮に付属した。
  • 元興寺:奈良県高市郡明日香村(旧地)。大和国高市郡。太子が伽藍縁起を記したという伝承がある。
  • 法起寺:奈良県生駒郡斑鳩町。大和国平群郡。聖徳太子が法華経を講義した岡本宮を寺に改めたもの。
  • 葛城寺:奈良県御所市??
  • 長琳寺:奈良県北葛城郡河合町。大和国広瀬郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 西安寺:奈良県北葛城郡王寺町。大和国葛下郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 比蘇寺:奈良県吉野郡大淀町。大和国吉野郡。太子建立とされた由縁は不明。
  • 六角堂:京都府京都市中京区。山城国愛宕郡。太子が四天王寺建立のために材木を探しに山城国に来た時に念持仏の如意輪観音を祀ったという。
  • 石塔寺:滋賀県東近江市。近江国蒲生郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 金剛寺:滋賀県。不詳。近江国。
  • 繖寺:滋賀県近江八幡市の観音正寺か。
  • 味摩寺:滋賀県犬上郡多賀町。敏満寺。近江国犬上郡。太子建立とされた理由は不明。
  • 般若寺:不詳。近江国。
  • 妙教寺:不詳。大和国。
  • 豊浦寺:奈良県高市郡明日香村。大和国高市郡。この寺の沿革ははっきりしないが、桜井道場の時代に聖徳太子の進言で善信・禅蔵・恵善の尼僧3人を住まわせたという。
  • 百済寺:大阪府大阪市天王寺区にあった古代寺院。廃絶。難波京に含む。堂ケ芝廃寺か。摂津国東成郡。当時は百済郡。太子との具体的関係は不明だが、四天王寺に近いことや百済国との関係などから太子に結び付けられたか。のち河内国に移転したという(河内・百済寺)。
  • 久米寺:奈良県橿原市にある真言宗寺院。聖徳太子弟の来目皇子が創建したとの説がある。大和国高市郡。真言宗御室派。
  • 瓦寺:滋賀県東近江市にある臨済宗寺院。近江国神崎郡。摂津四天王寺を建設する時に太子がこの地に寺を建て、瓦を焼いたという。白鳳瓦が出土。臨済宗妙心寺派。瓦屋寺。
  • 施鹿園寺:奈良県生駒郡三郷町にある融通念仏宗寺院。大和国平群郡。平群氏の氏寺で、太子が休息したところと伝える。平隆寺。
  • 四天王寺:秋田県秋田市の秋田城にあった古代寺院。出羽国秋田郡。廃絶。古四王神社別当。太子と結び付ける理由は不詳。

その他

その他の建立寺院


上宮寺も参照。

人物

太子信仰を宣揚した人物など。

古典籍

著作

  • 法華経義疏
  • 維摩経義疏
  • 勝鬘経義疏

伝記

  • 『日本書紀』
  • 『上宮聖徳法王帝説』
  • 『聖徳太子絵伝』:
    • 1069年(延久1年):法隆寺旧東院絵伝本
    • 1305年(嘉元3年):法隆寺。四幅。
  • 『異本上宮太子伝』:七代記
  • 『上宮皇太子菩薩伝』:延暦僧録の一部
  • 『上宮聖徳太子伝補闕記』:
  • 『聖徳太子伝暦』:

その他

  • 「皇太子聖徳奉讃」(『正像末和讃』所収):親鸞著。11首。
  • 『皇太子聖徳奉讃』:親鸞著。75首
  • 『大日本国粟散王聖徳太子和讃』:親鸞著。114首。

年表

略年譜

聖徳太子年譜
月日 年齢 事項
574年(敏達3年) 1 誕生(法王帝説)。橘寺の地とされる。『伝略』では敏達1年1月1日、『元亨釈書』では敏達2年1月1日という。
575年(敏達4年) 2 南無仏太子の逸話。太子が東を向いて合唱し「南無仏」と唱え、その時誕生以来握っていた仏舎利が初めて姿を現したともいう(伝暦)。『補闕記』では3歳の時の事績として毎朝東に向かって南無仏と唱えて再拝したという。
576年(敏達5年) 3
577年(敏達6年) 6月22日 4 慧思死去。(聖徳太子の前世とされる)
578年(敏達7年) 5
579年(敏達8年) 6
580年(敏達9年) 7 経論披見の逸話。
581年(敏達10年) 8
582年(敏達11年) 9
583年(敏達12年) 10 百済の日羅が来日(日本書紀)。日羅は聖徳太子を拝して「敬礼救世観世音大菩薩、伝燈東方粟散王」と述べたという(伝暦)。
584年(敏達13年) 11
585年(敏達14年) 12 2月、蘇我馬子、舎利塔を建てるが、3月、物部守屋が疫病流行は崇仏のためとして仏塔・仏殿を廃棄させる。
586年(用明1年) 13 母の穴穂部間人皇女が皇后となる。
586年(用明1年) 聖徳太子、上宮に初めて移る。
586年(用明1年) 用明天皇、病気平癒を願って薬師如来造仏を発願(法隆寺金堂薬師如来像光背銘)
587年(用明2年) 4月 14 用明天皇、崇仏の可否を群臣に諮る。
587年(用明2年) 4月 豊国法師、参内して用明天皇の病を看る。
587年(用明2年) 4月 聖徳太子、天皇不予のため衣帯を解かず、日夜看病する。
587年(用明2年) 7月 用明天皇崩御し磐余池上に埋葬(日本書紀)。太子、斬服して徒歩で従い、両足に血がみえる(伝暦)。
587年(用明2年) 7月 蘇我馬子と共に物部守屋を討つ。太子、白膠木を得て四天王像を刻み戦勝祈願し、結願の時は四天王寺創建を誓願する。
588年(崇峻1年) 15 崇峻天皇即位。(日本書紀)
588年(崇峻1年) 百済の慧聡が仏舎利を献納。(日本書紀)
588年(崇峻1年) 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺、元興寺)を創建。日本初の本格的な伽藍を備えた仏教寺院となる。
589年(崇峻2年) 16 香炉を手にして父の病気平癒を祈ったという。「孝養太子」像の起源。(伝暦)
589年(崇峻2年) 龍田神に出会う逸話。明日香から平群郡に来た時に老翁に会い、斑鳩の地に伽藍を建てるように言われる。太子、老翁の正体(龍田神)を問い、寺の守護を請う。(太子伝私記)
590年(崇峻3年) 17
591年(崇峻4年) 18
592年(崇峻5年) 10月 19 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺、元興寺)の金堂を建立。
592年(崇峻5年) 崇峻天皇暗殺。推古天皇即位。(日本書紀)
593年(推古1年) 20 四天王寺を「荒陵」に移転(日本書紀)。
593年(推古1年) 1月 法興寺(飛鳥寺、元興寺)に塔を建て仏舎利を安置。
593年(推古1年) 4月10日 皇太子となり、摂政となる。高麗僧の恵慈を仏教の師とし、覚〓をその他の師匠とする。(日本書紀)
593年(推古1年) 用明天皇陵を磯長に改葬。(日本書紀)
594年(推古2年) 21 法隆寺を起工。(太子伝私記)
594年(推古2年) 三宝興隆の詔。(日本書紀)
595年(推古3年) 5月10日 22 高句麗の恵慈が帰化。(日本書紀)
595年(推古3年) 5月 聖徳太子、恵慈の法華経の誤字を指摘する。(伝暦)
595年(推古3年) 百済の慧聡が再び来日(日本書紀)
596年(推古4年) 10月 23 聖徳太子、慧総・蘇我馬子と共に伊予の湯に行く。(釈日本紀所収湯岡碑文)
596年(推古4年) 11月 法興寺竣工。恵慈・慧総が住す。(書紀)。
597年(推古5年) 24 百済の阿佐太子が来日(日本書紀)。『伝暦』(599年条)によれば阿佐太子は聖徳太子を「救世大慈観音菩薩」と呼び、救世観音の化身として礼拝、聖徳太子は「阿佐太子は前世の弟子であったので謝したのである」と述べたという。
598年(推古6年) 25 聖徳太子、勝鬘経と法華経を説く。推古天皇、法隆寺に田地施入。(『法隆寺資財帳』『上宮聖徳法王帝説』)
598年(推古6年) 4月 聖徳太子、諸国に良馬を求める(日本書紀)。
599年(推古7年) 26
600年(推古8年) 27 遣隋使を初めて派遣。(隋書倭国伝)
601年(推古9年) 2月 28 斑鳩宮を造営。(日本書紀)
601年(推古9年) 3月5日 聖徳太子、使者を高麗・百済に遣わし、「任那を救え」という。(書紀)
602年(推古10年) 29 百済僧の勧勒、来日。(日本書紀)
603年(推古11年) 10月 30 聖徳太子、諸法師に安宅経を講させる(伝暦)
603年(推古11年) 11月 聖徳太子、仏像を秦河勝に授け、蜂岡寺(広隆寺)を創建させる。(書紀)
603年(推古11年) 11月 聖徳太子、用明天皇に請いて大楯・靫・旗幟を作る。(書紀)
603年(推古11年) 12月5日 国政改革に着手。冠位十二階を定めた。(日本書紀)
604年(推古12年) 1月1日 31 初めて冠位を授ける。(書紀)
604年(推古12年) 4月3日 『十七条憲法』を発布(日本書紀)。『法王帝説』では推古13年7月のことという。
604年(推古12年) 10月 聖徳太子、諸寺の仏像を描かせる。(伝暦)
605年(推古13年) 32 用明天皇、聖徳太子らに詔を下して初めて丈六の銅仏・丈六の繍仏を作る。(書紀)
605年(推古13年) 閏7月1日 聖徳太子、諸王諸臣に命じて褶を着用させる。
605年(推古13年) 10月 聖徳太子、斑鳩宮に在す。(日本書紀)
606年(推古14年) 4月 33 元興寺金堂に銅仏・繍仏を安置する。(日本書紀)
606年(推古14年) 7月 聖徳太子、推古天皇の命で勝鬘経を3日間かけて説く。(日本書紀)
606年(推古14年) 聖徳太子、岡本宮で法華経を説く。推古天皇はこれを喜び、播磨国100町を斑鳩寺(法隆寺)に施入する。(日本書紀)
606年(推古14年) 橘寺建立(伝暦)。
607年(推古15年) 2月15日 34 聖徳太子、大臣と百寮を率いて神祇を祀る。(書紀)
607年(推古15年) 7月3日 小野妹子を遣隋使として派遣。(日本書紀)
607年(推古15年) 推古天皇と聖徳太子、用明天皇の遺志を受け継ぎ法隆寺を創建。薬師如来像を造立。(「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」、「帝説」もこの年とする)
608年(推古16年) 35 勝鬘経を講讃。「講讃太子」像の由来。(伝暦)
608年(推古16年) 4月 小野妹子、随の答礼使の裴世清と共に帰国。(日本書紀)
608年(推古16年) 9月 再び、小野妹子隋に派遣。
608年(推古16年) 9月 聖徳太子、17日間、夢殿に籠もる(補闕記、伝暦)。
609年(推古17年) 4月8日 36 勝鬘経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
610年(推古18年) 37
611年(推古19年) 1月25日 38 勝鬘経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
611年(推古19年) 5月 聖徳太子、天皇の遊猟を諫言して停止させる。
612年(推古20年) 1月15日 39 維摩経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
613年(推古21年) 12月1日 40 片岡山で飢餓人と出会う(日本書紀)。達磨の化身という。
613年(推古21年) 9月15日 維摩経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
613年(推古21年) 11月 聖徳太子、掖上池・畝火池・和珥池を作り、また難波から京に至る「大道」を作る。(日本書紀)
613年(推古21年)
614年(推古22年) 1月8日 41 法華経義疏の執筆を始める。(「補闕記」「伝暦」)
614年(推古22年) 6月13日 聖徳太子、犬神君御田鋤・矢田部造を隋に遣わす。(日本書紀)
614年(推古22年) 聖徳太子自ら、大臣に五戒を授ける。(伝暦)
615年(推古23年) 4月15日 42 法華経義疏の執筆を終える。(「補闕記」「伝暦」)
615年(推古23年) 11月15日 恵慈、高句麗に帰国。上宮御製疏を伝える。(日本書紀)(帝説)
616年(推古24年) 5月3日 43 聖徳太子、天皇の病気祈願を祈り、諸伽藍を立つ。(補闕記)
617年(推古25年) 44 聖徳太子、勝鬘経と法華経を説く。推古天皇、法隆寺に田地施入。(『聖徳太子伝補闕記』)
617年(推古25年) 聖徳太子、熊凝精舎(大安寺)を創建。(扶桑略記)
618年(推古26年) 12月 45 聖徳太子、磯長の墓所を造る者を視察させる。(伝暦)
618年(推古26年) 隋朝、滅亡
619年(推古27年) 1月 46 聖徳太子、勅により諸国の寺地を巡検する。(伝暦)
620年(推古28年) 47 蘇我馬子と議して「天皇記」「国記」を編纂。(日本書紀)
621年(推古29年) 48 法隆寺金堂釈迦三尊像台座に墨書を記す。(台座墨書)
621年(推古29年) 12月21日 母の間人皇后が死去。(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」)
622年(推古30年) 1月22日 49 発病
622年(推古30年) 2月21日 太子妃の膳部菩岐々美郎女、死去。(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」)
622年(推古30年) 2月22日 死去(「法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘」「天寿国繍帳銘」「上宮聖徳鳳凰帝説」「法起寺塔露盤銘」「聖徳太子伝補闕記」)。「法隆寺安居功徳講表白」「聖徳太子伝私記」などでは葦垣宮(現成福寺)で死去という。死去の直前、「大安寺資財帳」では推古天皇が田村皇子を葦垣宮に見舞いに派遣している。日本書紀では621年2月5日に斑鳩宮で死去とする。扶桑略記なら2月5日死去。

死後の年表

  • 643年(皇極2年):蘇我入鹿が斑鳩宮を襲撃。太子の一族は滅亡。
  • 739年(天平11年)頃:上宮王院夢殿建立。
  • 917年(延喜17年):『聖徳太子伝暦』成立。992年(正暦3年)とも。
  • 1007年(寛弘4年):四天王寺から『御手印縁起』が出現。
  • 1054年(天喜2年):叡福寺近くから聖徳太子の『御記文』が発掘。
  • 1069年(延久1年):法隆寺の聖徳太子絵伝が成立。
  • 1069年(延久1年):法隆寺の現存最古の聖徳太子像造立。
  • 1121年(保安2年):法隆寺聖霊院、成立。
  • 1238年(暦仁1年):『聖徳太子伝私記』成立。
  • 1314年(正和3年):『聖徳太子平氏伝雑勘文』成立。

参考文献

脚注

http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90%E4%BF%A1%E4%BB%B0」より作成

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