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臨済宗専門道場
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-) 最終更新:2021年2月18日 (木)
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'''臨済宗専門道場'''(りんざいしゅう・せんもんどうじょう)は、日本の[[禅宗]][[臨済宗]]各派が設置した近現代の専門道場。教師資格を取るための僧堂。([[曹洞宗]]は[[曹洞宗専門僧堂]]を参照) | '''臨済宗専門道場'''(りんざいしゅう・せんもんどうじょう)は、日本の[[禅宗]][[臨済宗]]各派が設置した近現代の専門道場。教師資格を取るための僧堂。([[曹洞宗]]は[[曹洞宗専門僧堂]]を参照) | ||
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+ | 僧堂を中心とする集団的な修行形態が復活したのは隠元の黄檗派など明朝風の禅が伝えられた影響である。 | ||
+ | 江戸時代初期、曹洞宗では細々と続いていたが、臨済宗ではほぼ断絶していた。 | ||
+ | そこに長崎に華僑が中国僧を招いて作った三福寺では、僧堂で集団修行をしており、これに日本人の禅僧が触発された。 | ||
+ | 特に賢巌禅悦が影響を受け、その弟子の古月禅材らが各地の僧堂で活躍することになる。 | ||
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+ | 実現できたのは東福寺に鎌倉時代以来の巨大な僧堂が残っていたからであり、また幕府が多数の群衆が集まるのを嫌うなか、幕府に近い金地院僧録がこれを支持したからでもあった。 | ||
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+ | 以後、毎年、京都五山で交代に結制大会を開くことになり、連環結制として続くようになった。 | ||
+ | 日本臨済宗史上極めて大きな出来事であり、僧堂復興運動が本格化し、南禅寺をはじめ他の京都五山や鎌倉五山でも僧堂ができていった。 | ||
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+ | 僧堂教育が普及すると、僧堂の師家が師匠となるため、もともと所属していた寺の住職は師匠ではなくなったため、幕府の制度と矛盾するこことなった。 | ||
+ | そこで師家との関係は私的なものとし、幕府に対しては従来の伽藍法による法の相続を続けているというのを建前とした。これは明治維新まで続いた。 | ||
+ | しかし重要視されたのは印可証明を受けた師匠の法系であり、これを印証系と呼ぶ。 | ||
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+ | (玉村竹二『臨済宗史』) | ||
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2021年2月18日 (木) 時点における最新版
臨済宗専門道場(りんざいしゅう・せんもんどうじょう)は、日本の禅宗臨済宗各派が設置した近現代の専門道場。教師資格を取るための僧堂。(曹洞宗は曹洞宗専門僧堂を参照)
目次 |
歴史
戦国時代には集団で禅を行うことは失われていた。 僧堂を中心とする集団的な修行形態が復活したのは隠元の黄檗派など明朝風の禅が伝えられた影響である。 江戸時代初期、曹洞宗では細々と続いていたが、臨済宗ではほぼ断絶していた。 そこに長崎に華僑が中国僧を招いて作った三福寺では、僧堂で集団修行をしており、これに日本人の禅僧が触発された。 特に賢巌禅悦が影響を受け、その弟子の古月禅材らが各地の僧堂で活躍することになる。
また象海慧たんは1729年に東福寺で円爾弁円450大遠忌にあたり結制大会を開いて成功した。 千人が全国から集まって参禅した。そこに集まった雲水は気を良くして解散せずに翌年も東福寺で開くことになった。 実現できたのは東福寺に鎌倉時代以来の巨大な僧堂が残っていたからであり、また幕府が多数の群衆が集まるのを嫌うなか、幕府に近い金地院僧録がこれを支持したからでもあった。 幕府の顔色を伺う京都や鎌倉ではなく地方の禅僧の働きが大きかった。 以後、毎年、京都五山で交代に結制大会を開くことになり、連環結制として続くようになった。 日本臨済宗史上極めて大きな出来事であり、僧堂復興運動が本格化し、南禅寺をはじめ他の京都五山や鎌倉五山でも僧堂ができていった。
1730年には東福寺の天衣が僧堂清規を定め、その後の結制大会の運営の拠り所となった。 翌年の南禅寺の結制大会では天授庵の西巌玄竺が開催に尽力し、 また象海慧たんと西巌玄竺は幕府から表彰を受けた。 これによって結制大会は幕府公認のものとなった。
一方、妙心寺や大徳寺ではしばらくは無視を決め込んだ。 妙心寺派では八幡・円福寺には初めて僧堂ができ、大徳寺派に至っては明治に堺南宗寺に初めてできた。
これらの僧堂に最初、古月下の僧侶が師家として招かれ、指導に当たったが、そのポストはやがて全て白隠下の僧侶にとってかわられた。 そのため現在の臨済宗の僧侶は全て白隠の法流となっている。 古月の禅は中国の影響が強く、文人趣味で詩画を好み、五山文学の風と近いところがあったが白隠の禅はそれらを排して禅のみを重視した。
僧堂で学んだ雲水は師家から印可証明を受ける。 僧堂教育が普及すると、僧堂の師家が師匠となるため、もともと所属していた寺の住職は師匠ではなくなったため、幕府の制度と矛盾するこことなった。 そこで師家との関係は私的なものとし、幕府に対しては従来の伽藍法による法の相続を続けているというのを建前とした。これは明治維新まで続いた。 しかし重要視されたのは印可証明を受けた師匠の法系であり、これを印証系と呼ぶ。
(玉村竹二『臨済宗史』)
一覧
名称 | 設置寺院 | 同寺 宗派 | 同寺 寺格 | 所在地 | 開単 | 現状 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
瑞巌僧堂 | 瑞巌寺陽徳院 | 臨済宗妙心寺派 | 宮城県宮城郡松島町 | 1926年(昭和1年)3月 | |||
雲巌僧堂 | 雲巌寺 | 臨済宗妙心寺派 | 栃木県大田原市 | 1947年(昭和22年) | |||
平林僧堂 | 平林寺 | 臨済宗妙心寺派 | 埼玉県新座市 | 1903年(明治36年) | |||
広園僧堂 | 広園寺 | 臨済宗南禅寺派 | 東京都八王子市 | 近代以前? | |||
建長僧堂 | 建長寺西来庵 | 臨済宗建長寺派 | 本山 | 神奈川県鎌倉市 | 1884年(明治17年) | ||
円覚僧堂 | 円覚寺正続院 | 臨済宗円覚寺派 | 本山 | 神奈川県鎌倉市 | 近代以前? | ||
国泰僧堂 | 国泰寺 | 臨済宗国泰寺派 | 本山 | 富山県高岡市 | 1893年(明治26年) | ||
天衣尼衆僧堂 | 天衣寺 | 臨済宗妙心寺派 | 岐阜県岐阜市 | 1946年(昭和21年)3月 | 空襲で被災した桂林院から移転して、1946年(昭和21年)3月に天衣寺に移転して開単。1975年(昭和50年)には在錫者が途絶えたが、2002年(平成14年)4月各派の協力を得て再開単。 | ||
瑞龍僧堂 | 瑞龍寺 | 臨済宗妙心寺派 | 岐阜県岐阜市 | 近代以前? | |||
虎渓山僧堂 | 永保寺 | 臨済宗南禅寺派 | 岐阜県多治見市 | 1881年(明治14年)再開単 | |||
大仙尼衆僧堂 | 大仙寺 | 臨済宗妙心寺派 | 岐阜県多治見市 | 1931年(昭和6年)開単 | 1937年(昭和12年)閉単 | ||
正眼僧堂 | 正眼寺 | 臨済宗妙心寺派 | 岐阜県美濃加茂市 | 1847年(弘化4年) | |||
龍沢僧堂 | 龍沢寺 | 臨済宗妙心寺派 | 静岡県三島市 | 1941年(昭和16年) | |||
臨済僧堂 | 臨済寺 | 臨済宗妙心寺派 | 静岡県静岡市葵区 | 1949年(昭和24年) | |||
方広僧堂 | 方広寺 | 臨済宗方広寺派 | 本山 | 静岡県浜松市北区 | 1927年(昭和2年) | ||
妙興僧堂 | 妙興寺 | 臨済宗妙心寺派 | 愛知県一宮市 | 1950年(昭和25年) | |||
瑞泉僧堂 | 瑞泉寺 | 臨済宗妙心寺派 | 愛知県犬山市 | 1928年(昭和3年) | |||
徳源僧堂 | 徳源寺 | 臨済宗妙心寺派 | 愛知県名古屋市東区 | 1862年(文久2年) | |||
(桂林尼衆僧堂) | 桂林院 | 臨済宗妙心寺派 | 愛知県名古屋市 | 1939年(昭和14年) | 名古屋空襲で被災し閉単。 | 移転して天衣尼衆僧堂となる。 | |
永源僧堂 | 永源寺 | 臨済宗永源寺派 | 本山 | 滋賀県東近江市 | 近代以前? | ||
(正明僧堂) | 正明寺 | 黄檗宗 | 滋賀県蒲生郡日野町 | ? | 閉単? | 『昭和・平成禅僧伝』に記載なし。『日本仏教基礎講座』に記載あり。 | |
黄檗山禅堂 | 万福寺 | 黄檗宗 | 本山 | 京都府宇治市 | 1663年(寛文3年) | ||
天龍僧堂 | 天龍寺雲居庵 | 臨済宗天龍寺派 | 本山 | 京都府京都市右京区 | 1883年(明治16年)6月 | ||
妙心僧堂(天授僧堂) | 妙心寺天授院 | 臨済宗妙心寺派 | (本山) | 京都府京都市右京区 | 1878年(明治11年) | 本山の管轄下にはなく、独立している | |
円光尼衆僧堂 | 円光寺 | 臨済宗南禅寺派 | 京都府京都市左京区 | 1909年(明治42年)開単 | 1988年(昭和63年)3月閉単 | ||
南禅僧堂 | 南禅寺〓蔔林寺 | 臨済宗南禅寺派 | 本山 | 京都府京都市左京区 | 1731年(享保16年) | ||
相国僧堂 | 相国寺大通院 | 臨済宗相国寺派 | 本山 | 京都府京都市上京区 | 1820年(文政3年) | ||
(東福僧堂)(旧) | 東福寺海蔵院 | 臨済宗東福寺派 | 本山 | 京都府京都市東山区 | 1882年(明治15年) | 閉単 | |
東福僧堂 | 東福寺普門院 | 臨済宗東福寺派 | 本山 | 京都府京都市東山区 | 1950年(昭和25年)5月 | ||
建仁僧堂 | 建仁寺霊洞院 | 臨済宗建仁寺派 | 本山 | 京都府京都市東山区 | 1898年(明治31年) | ||
大徳僧堂 | 大徳寺龍翔寺 | 臨済宗大徳寺派 | 本山 | 京都府京都市北区 | 1872年(明治5年) | ||
円福僧堂 | 円福寺 | 臨済宗妙心寺派 | 京都府八幡市 | 1786年(天明6年) | |||
南宗僧堂 | 南宗寺 | 臨済宗大徳寺派 | 大阪府堺市堺区 | 1868年(明治1年)開単 | 戦争で廃絶し、1995年(平成7年)再開単 | ||
祥福僧堂 | 祥福寺 | 臨済宗妙心寺派 | 兵庫県神戸市兵庫区 | 1830年(天保1年) | |||
海清僧堂 | 海清寺 | 臨済宗妙心寺派 | 兵庫県西宮市 | 明治後期 | 1925年(大正14年)閉単。1949年(昭和24年)再開単。 | ||
宝福僧堂 | 宝福寺 | 臨済宗東福寺派 | 岡山県総社市 | 1883年(明治16年)開単 | 1970年(昭和45年)再開単 | ||
仏通僧堂 | 仏通寺 | 臨済宗仏通寺派 | 本山 | 広島県三原市 | 1903年(明治36年) | ||
常栄僧堂 | 常栄寺 | 臨済宗東福寺派 | 山口県山口市 | 1942年(昭和17年) | |||
向嶽僧堂 | 向嶽寺 | 臨済宗向嶽寺派 | 本山 | 山梨県甲州市 | 1915年(大正4年)10月 | ||
大乗僧堂 | 大乗寺 | 臨済宗妙心寺派 | 愛媛県宇和島市 | 1939年(昭和14年) | |||
梅林僧堂 | 梅林寺 | 臨済宗妙心寺派 | 福岡県久留米市 | 1804年(文化1年) | |||
崇福僧堂 | 崇福寺 | 臨済宗大徳寺派 | 福岡県福岡市博多区 | 1935年(昭和10年) | |||
聖福僧堂 | 聖福寺 | 臨済宗妙心寺派 | 福岡県福岡市博多区 | 1802年(享和2年) | |||
円通僧堂 | 円通寺 | 臨済宗南禅寺派 | 佐賀県伊万里市 | 1894年(明治27年) | 山岡鉄舟ゆかりの寺。 | ||
霊源禅堂 | 霊源院 | 黄檗宗 | 長崎県長崎市 | 2001年(平成13年) | |||
養賢僧堂 | 養賢寺 | 臨済宗妙心寺派 | 大分県佐伯市 | 1909年(明治42年) | |||
万寿僧堂 | 万寿寺 | 臨済宗妙心寺派 | 大分県大分市 | 明治後期 |
- 出典は特記なければ『昭和平成禅僧伝』。
- 現状は未調査。
- 近代専門道場と前近代の僧堂の関係は未調査。
- 「本山」とあるのはいずれも大本山(平成28年(2016)現在)。
- 宗派は『昭和平成禅僧伝』による。(変遷があるものもある)
年表
参考文献
- 臨済会編、2010『新版 昭和・平成禅僧伝 臨済・黄檗編』春秋社
- 奈良康明・西村恵信編、『日本仏教基礎講座 6禅宗』雄山閣