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興山寺
出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)
興山寺
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'''興山寺'''(こうざんじ)は、[[高野山]][[金剛峰寺]]山内にあった[[行人方]]の拠点寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸時代は学侶方[[青巌寺]]と聖方[[大徳院]]と共に金剛峰寺の本坊の一つだった。隣接する青巌寺と合併して現在の[[金剛峰寺本坊]]となる。[[修験道]][[当山派]]の[[正大先達]]の一つで[[十二正大先達]]の一つ。[[興山寺東照宮]]があった。 文殊院と号す。 出張所として江戸に高野寺、和歌山に覚樹院があった。 ==歴史== *1590年(天正18年):木食応其、豊臣秀吉の帰依を受けて創建。 *1599年(慶長4年)頃:木食応其、青巌寺・興山寺を勢誉に譲与。 *1608年(慶長13年)10月1日:木食応其、死去。 *1612年(慶長17年)3月23日:勢誉、死去。 *1628年(寛永5年)4月17日:応昌、幕命で東照宮を創建。 *1649年(慶安2年):幕府、東照宮神領100石を寄進。 *1691年(元禄4年):幕命で行人の役寺となる。 *1692年(元禄5年)8月:行人627人が流罪。1182寺が280寺に減らされる。 *1843年(天保14年):光格天皇位牌・御物が奉納される[https://dl.ndl.go.jp/pid/980662/1/154]。 *1868年(明治1年):戊辰戦争に参戦。行人方、新政府から高野山惣職の恩賞を与えられる[https://dl.ndl.go.jp/pid/1219245/1/284]。 *1868年(明治1年)9月:三方を廃止 *1869年(明治2年)3月:興山寺と合併して金剛峰寺となる。 *1869年(明治2年)4月:高野山総宰庁庁舎を興山寺に設置[https://dl.ndl.go.jp/pid/980662/1/167]。 ==組織== ===歴代住職=== *1応其()<>: *2勢誉()<>: *3応昌()<>:1591年(天正19年)生。1645年(正保2年)5月24日、浅草在番所で死去。文殊院。 *4立詮()<>:1598年(慶長3年)生。1645年(正保2年)5月、文殊院を継承。1659年(万治2年)追放。1663年(寛文3年)7月9日赦免[https://dl.ndl.go.jp/pid/1211654/1/626]。1664年(寛文4年)8月12日朝熊山で死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/980662/1/144]。 *5雲堂()<>:1663年(寛文3年)11月21日、文殊院住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/1211654/1/626]。1666年(寛文6年)8月27日、行人方の法度違反で責任を取らされ配流。1687年(貞享4年)10月18日、興山寺帰還を許可され、12月2日帰住[https://dl.ndl.go.jp/pid/1211654/1/642]。1691年(元禄4年)4月28日、隠居を命じられる[https://dl.ndl.go.jp/pid/1211654/1/645]。1692年(元禄5年)4月9日死去[https://dl.ndl.go.jp/pid/1211654/1/647]。見樹院。宝月。雲堂天岳。 *6量誉()<>:1691年(元禄4年)4月頃、興山寺住職[https://dl.ndl.go.jp/pid/980662/1/148]。11月5日閉門[https://dl.ndl.go.jp/pid/980662/1/149]。来迎院。量与。 ==資料== *『紀伊続風土記』「興山寺」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2531055/1/32] *『紀伊続風土記』「行人総論」[https://dl.ndl.go.jp/pid/2531055/1/58] *「旧行人方の略史と其の文書」[https://dl.ndl.go.jp/pid/1219245/1/279] [[category:和歌山県]]
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