| 名称
| 所在地
| コメント
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尊意関連
| 比叡山延暦寺東塔 登天天満宮
| 滋賀県大津市坂本本町
| 菅原道真は比叡山の尊意のもとに出現。
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尊意関連
| 水火天満宮
| 京都府京都市上京区扇町(堀川通)722-10
| 天台座主尊意の別邸に建てられた天満宮で、最初の天満宮という[1]。923年(延長1年)6月25日勧請という[2]。のち現在地に遷座。境内には尊意が祈祷した時に菅原道真が影向したという登天石が奉安されている。
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文子天満宮
| 五之保御供所 文子天満宮
| 京都府京都市上京区北町
| 942年(天慶5年)7月12日、託宣によって文子が西京の自宅に創建。のち七保御供所の一つとなり、満願寺が創建された。1873年(明治6年)7月、御供所廃止につき、北野天満宮に遷座。末社となる。のち、跡地に御旅所として復興した。
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文子天満宮
| 北野天満宮末社 文子天満宮
| 京都府京都市上京区馬喰町
| 1873年(明治6年)7月、御供所廃止につき、北野天満宮に遷座。末社となる。
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文子天満宮
| 満願寺境内 文子天満宮
| 京都府京都市左京区岡崎法勝寺町130
| 1697年(元禄10年)、満願寺宗遍が妙伝寺日亨に帰依して日蓮宗に改宗。1701年(元禄14年)に岡崎に移転した。文子天満宮も分霊されたらしい。拝殿は中御門天皇による造営という[3]。
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文子天満宮
| 玉房稲荷神社
| 京都府京都市上京区行衛町
| 五之保天満宮を合祀するが由緒は不詳。
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文子天満宮
| 文子天満宮
| 京都府京都市下京区天神町400
| 祭神は「菅原道真公」である[4]。創始不詳。いつから当地にあるかは不詳。菅原道真左遷のとき、乳母の文子親子の居宅に滞在した。出発のとき、片身の像を残したという。1877年(明治10年)11月18日村社となる。
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文子天満宮
| 神明神社
| 京都府京都市下京区神明町
| 戦後、洛央小学校に祀られていた五之保天満宮を合祀する。
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比良天満神社
| 比良天満神社
| 滋賀県大津市北比良381
| 940年(天慶3年)、菅原道真は文子に託宣を下したが神意の通り創建されなかったため、ついで946年(天慶9年)(947年(天暦1年)?)、近江国比良宮の神職神良種の子、太郎丸にも託宣を下した。そこで神良種は文子や最鎮と協力して北野天満宮を創建した。鎮座の夜、北野に千本の松が生えたが、故郷の比良にも松が生えたので、帰郷したあと、947年(天暦1年)に比良にも天満宮を創建したという。樹下神社が隣接。村社。(『滋賀県神社誌』、『北野誌』240頁)
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安楽寺天満宮
| 一之保御供所 安楽寺天満宮(一之保社)
| 京都府京都市上京区北町
| 一説には京都で最初の天満宮という。北野天満宮旧社人の川井家の記録によると、太宰府にて菅原道真が自ら作った木像を没後、川井家の祖先が京都に奉遷し、西京北町に小祠を建てて奉斎し、太宰府安楽寺になぞらえて、安楽寺と称したという。奉仕の余暇に農業を営み、その収穫に際しては新穀菜蔬に草花を飾り付け、献上した。これが北野天満宮のずいき祭の起源という。安楽寺周辺には神人が住み着き、七保と呼ばれる七つの御供所を営み、当所はその第一として一之保御供所となった。神仏分離で安楽寺は廃絶。1873年(明治6年)7月、御供所廃止につき、北野天満宮境内に遷座。末社一之保社となる。戦後、御供所跡地に再建。(『北野誌』46、86-87頁)
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安楽寺天満宮
| 北野天満宮末社 一之保社
| 京都府京都市上京区馬喰町
| 1873年(明治6年)7月、御供所廃止につき、北野天満宮境内に遷座。末社一之保社となる。1873年(明治6年)12月1日、連歌所の渡唐天神を相殿に合祀して、奇魂とする。安楽寺天満宮を参照。
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