ようこそ『神殿大観』へ。ただいま試験運用中です。

蓮如旧跡

出典:安藤希章著『神殿大観』(2011-)

(版間での差分)
移動: 案内, 検索
(?年譜)
1行: 1行:
-
'''蓮如'''(れんにょ)(1415-1499)は、[[浄土真宗]]の僧侶。本願寺8世。'''慧燈大師'''。
+
'''蓮如'''(れんにょ)(1415-1499)は、[[浄土真宗]]の僧侶。本願寺8世。忌日法要を蓮如忌などと呼ぶ。'''慧燈大師'''。
== 一覧 ==
== 一覧 ==
24行: 24行:
*[[川並六坊]]
*[[川並六坊]]
-
== ==
+
== 墓廟 ==
-
*[[蓮如墓]]
+
*[[蓮如墓]]
-
*[[光善寺]] 墓
+
*[[光善寺]]:墓
-
*[[土呂御堂山]] 墓
+
*[[土呂御堂山]]:墓
-
*[[加賀・本泉寺]] 墓
+
*[[加賀・本泉寺]]:墓
-
*[[加賀・善性寺]] 墓
+
*[[加賀・善性寺]]:墓
-
*[[浄土真宗本願寺派堺別院]] 蓮如堂
+
*[[浄土真宗本願寺派堺別院]]:蓮如堂
-
*[[播磨・本徳寺]] 蓮如堂
+
*[[播磨・本徳寺]]:蓮如堂
-
*[[飯貝・本善寺]] 蓮如堂
+
*[[飯貝・本善寺]]:蓮如堂
-
*[[藤ノ木阿弥陀堂]]
+
*[[藤ノ木阿弥陀堂]]
 +
*[[東山蓮如堂]]:石川県金沢市の卯辰山。[[真宗大谷派金沢別院]]の飛地境内。
 +
*[[西山蓮如堂]]:石川県金沢市の大乗寺丘陵。真宗大谷派金沢別院の飛地境内。
蒲池勢至氏によると、『金森日記抄』を引き、多くの門徒や僧侶が分骨を希望したが、兄弟や御一家衆でなければ許されなかったので、遺灰に紛れて、遺骨を無断で盗んでいったものが多くあったという話を紹介している。また本願寺より分骨を特別に下賜されたと伝承する寺院もあるという。
蒲池勢至氏によると、『金森日記抄』を引き、多くの門徒や僧侶が分骨を希望したが、兄弟や御一家衆でなければ許されなかったので、遺灰に紛れて、遺骨を無断で盗んでいったものが多くあったという話を紹介している。また本願寺より分骨を特別に下賜されたと伝承する寺院もあるという。
-
越中・大徳寺、加賀・西照寺、加賀・長円寺、越前・陽願寺、三河・蓮成寺、三河・上宮寺、近江・善立寺、摂津・教行寺、願証寺にも分骨があるという。
+
[[越中・大徳寺]]、[[加賀・西照寺]]、[[加賀・長円寺]]、[[越前・陽願寺]]、[[三河・蓮成寺]]、[[三河・上宮寺]]、[[近江・善立寺]]、[[摂津・教行寺]]、[[願証寺]]にも分骨があるという。
-
== 年譜 ==
+
 
 +
== 年表 ==
 +
===略年譜===
{|class="wikitable"
{|class="wikitable"
|+蓮如年譜
|+蓮如年譜
190行: 194行:
|3月25日、山科本願寺で死去。(『蓮如上人』)
|3月25日、山科本願寺で死去。(『蓮如上人』)
|}
|}
 +
===死後の年表===
 +
*1882年(明治15年)3月22日:明治天皇、「慧燈大師」号を下賜。
 +
*1998年(平成10年):蓮如500回遠忌。
==参考文献==
==参考文献==

2018年12月2日 (日) 時点における版

蓮如(れんにょ)(1415-1499)は、浄土真宗の僧侶。本願寺8世。忌日法要を蓮如忌などと呼ぶ。慧燈大師

目次

一覧

墓廟

蒲池勢至氏によると、『金森日記抄』を引き、多くの門徒や僧侶が分骨を希望したが、兄弟や御一家衆でなければ許されなかったので、遺灰に紛れて、遺骨を無断で盗んでいったものが多くあったという話を紹介している。また本願寺より分骨を特別に下賜されたと伝承する寺院もあるという。

越中・大徳寺加賀・西照寺加賀・長円寺越前・陽願寺三河・蓮成寺三河・上宮寺近江・善立寺摂津・教行寺願証寺にも分骨があるという。


年表

略年譜

蓮如年譜
年齢 事項
1415年(応永22年) 1 存如(のち本願寺7代。1396-1457)の長男として本願寺(大谷本願寺。現在の崇泰院の地)で誕生。生母は不詳。2月25日生まれ。(『蓮如上人』『国史大辞典』)
1420年(応永27年) 6 生母、本願寺を退去する。(『蓮如上人』)
1431年(永享3年) 17 広橋兼郷の猶子として青蓮院門跡で得度。この後、親族の興福寺大乗院の経覚(1395-1473)の下で学んだという。(『蓮如上人』ほか『国史大辞典』)
1434年(永享6年) 20 親鸞『教行信証』書写。(『蓮如上人』)
1436年(永享8年) 22 親鸞『三帖和讃』書写。(『蓮如上人』)
1438年(永享10年) 24 存覚の『浄土真要鈔』を書写。(『蓮如上人』)
1440年(永享12年) 26 巧如(1376-1440)死去。父の存如が本願寺7代を継承。()
1442年(嘉吉2年) 28 長男順如(1442-1483)、誕生。(『蓮如上人』)
1446年(文安3年) 32 親鸞『愚禿鈔』書写。(『蓮如上人』)
1449年(宝徳1年) 35 父存如と共に東国へ。(『蓮如上人』)
1455年(康正1年) 41 妻如了、死去。(『蓮如上人』)
1457年(長禄1年) 43 6月18日、父存如、死去。本願寺留守職を継承。以後、各地を巡教。(『蓮如上人』『国史大辞典』)
1460年(寛正1年) 46 『正信偈大意』を執筆。継母如円死去。(『蓮如上人』)
1461年(寛正2年) 47 最初の御文章(御文)を作る。252通が残る。(『蓮如上人』)
1465年(寛正6年) 51 1月10日(11日とも)と3月21日の二度にわたり、延暦寺衆徒が本願寺を破却(寛正の法難)。(『蓮如上人』)
1466年(文正1年) 52 近江に赴く。(『蓮如上人』)
1467年(応仁1年) 53 応仁の乱勃発。(『蓮如上人』)
1468年(応仁2年) 54 3月、延暦寺衆徒が堅田を襲撃(堅田大責)し、大津近松に移る(翌年とも)。以後、北陸・東国を巡教。(『蓮如上人』『国史大辞典』)
1470年(文明2年) 56 妻蓮祐死去。(『蓮如上人』)
1471年(文明3年) 57 4月、吉崎御坊を建立。(『蓮如上人』)
1473年(文明5年) 59 『正信偈』『三帖和讃』を開板。毎朝の勤行で両者を唱える形式ができる。(『蓮如上人』)
1474年(文明6年) 60 文明の一向一揆。(『蓮如上人』)
1475年(文明7年) 61 8月、吉崎御坊を退去。河内や和泉を放浪。(『蓮如上人』)
1478年(文明10年) 64 妻如勝死去。(『蓮如上人』)
1479年(文明11年) 65 山科本願寺起工。(『蓮如上人』)
1480年(文明12年) 66 近松から親鸞像を山科本願寺に遷座。()
1482年(文明14年) 68 仏光寺14世蓮教(経豪)が仏光寺を捨て多くの末寺と共に蓮如に帰参し、京都・興正寺を建てる。()
1483年(文明15年) 69 山科本願寺竣工。(『蓮如上人』)
1485年(文明17年) 71 妻宗如死去。(『蓮如上人』)
1488年(長享2年) 74 加賀一向一揆。(『蓮如上人』)
1489年(延徳1年) 75 8月、実如(1458-1525)に譲り引退。(『蓮如上人』)
1493年(明応2年) 79 錦織寺の叡尚が末寺40寺と共に錦織寺から離れ蓮如に帰参し、蓮如の娘の妙勝、妙祐と結婚。()
1496年(明応5年) 82 石山御坊起工。(『蓮如上人』)
1497年(明応6年) 83 石山御坊竣工。(『蓮如上人』)
1498年(明応7年) 84 病気となる。(『蓮如上人』)
1499年(明応8年) 85 3月25日、山科本願寺で死去。(『蓮如上人』)

死後の年表

  • 1882年(明治15年)3月22日:明治天皇、「慧燈大師」号を下賜。
  • 1998年(平成10年):蓮如500回遠忌。

参考文献

  • 蒲池勢至、2001『真宗民俗の再発見―生活に生きる信仰と行事』法藏館
  • 延塚知道・藤嶽明信・安藤文雄・三明智彰・加来雄之・一楽真、1996『蓮如上人 親鸞聖人の教えに生きた人』真宗大谷派宗務所出版部
http://shinden.boo.jp/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82%E6%97%A7%E8%B7%A1」より作成

注意事項

  • 免責事項:充分に注意を払って製作しておりますが、本サイトを利用・閲覧した結果についていかなる責任も負いません。
  • 社寺教会などを訪れるときは、自らの思想信条と異なる場合であっても、宗教的尊厳に理解を示し、立入・撮影などは現地の指示に従ってください。
  • 当サイトの著作権は全て安藤希章にあります。無断転載をお断りいたします(いうまでもなく引用は自由です。その場合は出典を明記してください。)。提供されたコンテンツの著作権は各提供者にあります。
  • 個人用ツール